2017年8月31日

頭の中での思考は、言葉に出す50倍から80倍の速さで流れる

コーチングの本を読んでいたら、
「頭の中での思考は、言葉に出す50倍から80倍の速さで流れる」
と書いてあった。だから、言葉で表現しない考えは、そのあまりの速さに、本人が「考えている」ということさえ意識できないままに、頭の中を一瞬にして過ぎ去っていく。コーチングでは、クライアントに質問することで、流れ去る考えを言葉にさせて、本人がきちんと意識できるようにする。そして、これだけで色々な問題が解決に向かう。

こんな話がある。

テニスのコーチが、友人に代理コーチを依頼した。この友人、実はテニス初心者で、スキーのプロコーチだった。さて、その代理コーチのテニスレッスンはうまくいったのだろうか。ふたを開けてみると、実に評判が良かった。では、代理コーチはどのような指導をしたのかというと、実はほとんど指導していなかった(しようと思ってもできない)。ただ初診者として、プレイヤーに素直にたくさんの質問をしたのである。たとえば、「ミスショットするボールって、打つ前にどんなふうに回転しているのか教えてくれないかい?」と聞かれた生徒は、普段は意識せずにボールを打っていたが、質問に応えるためにボールをよく見るようになってミスが減った。コーチングが上手い人というのは、適切なアドバイスをたくさんする人ではなく、適切な質問で相手から考えを引き出すのが上手な人のことという一例である。

ところで精神科を考えてみると、多くの人が、
「精神科にかかれば適切なアドバイスがもらえる」
と思っているようだ。だが、上記したように、アドバイスするよりも質問して引き出すほうが非常に効果的なことが多い(そのかわり難しくもある)。ありきたりな助言や説教など、言われたほうの頭にはほとんど残らないものだ。「説教がそんなに効果的なら自分に説教しろよ」と、これは学生時代に愛読したコーチングの本に書いてあったセリフである。アドバイスするよりは、質問する。こうすることで、患者の頭の中を高速で通り過ぎてしまっている「考えや感情のもと」を意識の網に引っ掛けて、問題解決に近づける。逆に、いくら質問しても、こちらに答えだけを求めて「先生はどう思いますか?」といった質問を繰り返すような人はなかなか改善しないのではなかろうか。

学生時代に感銘を受けたコーチングの本を紹介しておく。この文章を書きながら、改めて読みなおそうかなと思った。名著である。


2017年8月30日

可能性は無限大、でも個々人の能力には限界がある

世の中には、
「可能性は無限大だ!!」
と能天気に主張したり他人を応援したりする人がいる。可能性が無限大だということは認めるが、可能性を実現させるための「能力」は無限ではない。人によって大きく違う。努力では埋められない部分というのは確実にある。

生来の能力の限界を無視しがちな人は、
「努力が足りない」「根性がない」「甘えだ」
といったことを平気で口にする。その根底には、
「自分ができることは、他人もできる」
という勘違いがある。この勘違いもしかすると、その人の謙虚さ、つまり、
「こんな自分だってやればできたんだから、他の人ができないはずがない」
といった気持ちに起因するのかもしれない。しかし、努力不足、根性なし、甘えるなと言われたほうはたまらない。ストレスを感じて落ち込むか、逆に荒れ狂うか、いずれにしても良いことはない。

あなたがイチローやマツイ、あるいはナカタやカズのようになれないのは、決してあなたの努力が足りないわけでも根性がないわけでもない。それと同じで、あなたが甘えだと責めているその人も、あなたのようには上手くできないだけだ。こんなに単純なことでも、自分や家族にあてはめて理解し、その人、その子に応じた環境を用意したりペースを合わせたりするのは、なかなかに難しい。

2017年8月29日

違法薬物の使用歴やアルコール摂取量を尋ねるときには「あっさり聞く」ほうが良い

覚せい剤や麻薬の使用歴を聞き出すときのコツは、それらがいかにも「当然で」「普通のことで」「こちらは聞いても驚かない」という雰囲気で尋ねることだ。

「東京に何年か住んでいたんなら、麻薬なんかの誘いも多かったでしょ?」
こちらが、非常に軽く、あっさりと、さも当然かのように聞くと、相手も、
「そうですねぇ、結構ありました」
と答えることが多い。
「覚せい剤? マリファナ? 脱法ドラッグ?」
告白された後も、これまでの態度を変えずに聴き続ける。

アルコールの問題を抱えている人への問診も似たような方法を使う。アルコール依存症では、その人なりに罪悪感を持っていることが多い。だから、飲酒量に関しての質問には、毎日5合飲んでいても「3合くらいです」と、実際の量より少なめに申告する。これに対して、質問するときに敢えて大げさな数字を出すと、事実に近い量を答えやすい。
「お酒は一日にどれくらい飲みますか……、たとえば焼酎一升とかですか?」
あくまでも「それくらい普通は飲みますよね」という雰囲気で聞くと、
「いやいや、そんなには飲みませんよ(笑) 5合くらいです」
という答えが返ってくる。

医師は「診察室」に慣れているが、患者からしたら特殊な空間である。さらには白衣を着て威圧感さえ感じる人と向かい合い、しかも自らが罪悪感を抱いていることについて尋ねられる。これは、厳しい教師や警察官の前にいるのと同じくらい居心地が悪い、と考えておくほうが良い。

この居心地悪さを緩和するために「あっさり聞く」。日ごろから心がけている方法である。

2017年8月28日

見たことがないものを「ニセモノ」と決めつけるのは、見たことがないものを「ホンモノ」と盲信するのと同質ではないか?  『職業欄はエスパー』

精神科の人格障害という診断のなかに、統合失調症“型”と統合失調症“質”というのがある。医学生時代には、どちらがどちらか覚えにくかった。型のほうはカタカナで「スキゾタイパル」「シゾタイパル」、質のほうは「スキゾイド」「シゾイド」という。それぞれの詳しい説明はWikipediaにゆずる。
統合失調症型パーソナリティ障害
統合失調症質パーソナリティ障害

ここでは、とくに「型」、シゾタイパルの人の話をする。彼らは、子どものころからオカルト系を好きなことが多い。それが高じて、世間から「特別に変な人」と思われ避けられるようになり、そのせいで対人交流がうまくいかず本人が悩むとなれば、これは障害といえるだろう。そこまでいかなくても、子どものころから幽霊や超能力、占い、宇宙人など、いわゆる超常現象、オカルトが大好きという人たちがいる。対人交流にも問題なく、場の空気を読んで、自分の趣味を出したり隠したりできる。

たとえば、俺。

子どものころから、オカルトが大好きだった。幽霊、守護霊、妖怪、占い、宇宙人、超能力、つのだじろう、あなたの知らない世界、新倉イワオ(もう亡くなっている、合掌)。今でも好きだが、子どものころほどのエネルギーはない。時どきテレビで見て、ホンマかいな、とツッコミを入れながらも半分、いやそれ以上には信じている。

そう、俺は信じる側に入る。特に超能力に関しては。

信じない人に問いたい。
なぜ、信じないのか。

俺には、信じる理由がある。「超能力がある」と言われる人に会ったことがある。その人は、俺の祖母の名前「つる子」を言い当てた。しかも、「本当は“つる”だけど、なぜか子がついてますね」と。確かに祖母は結婚したあとに、舅(俺の曾祖父)から「つるだと呼びにくいから子をつけろ」と命じられ、通称「つる子」になったのだった。驚いた話はまだある。俺が渡した500円硬貨を片手であっさりと曲げられた。別の日に連れて行った友人はまったく信じておらず、パッと見では分からない傷を500円硬貨につけて用意していた。その硬貨も、やはりあっさりと曲がり、友人は信じるようになった。

トリックがある。そうかもしれない。だが、どんなトリックなのか、誰も教えてくれない。ただ単に、見たことがないことについて、「トリックがある」と信じているだけだ。そういうのを「妄信」というのだろう。新興宗教や似非科学を盲目的に信じることと、ベクトルが真逆というだけで、本質は大して変わらないのではないか。


胡散臭い3人の超能力者を、ドキュメンタリ作家の森達也が追ったノンフィクション。あえて書くが、相当に胡散臭い。精神科の診察室なら「統合失調症」と診断されてもおかしくない言動だってある。それなのに、なんとも言えない説得力がある。もし、彼らが対人交流に障害があれば、シゾタイパルと診断されるかもしれない。だが、むしろ彼らは自分たちの独自性を商品化し、大金を儲けていた時期もあるし、今でもそれなりの立ち位置をもち、一定の人間関係を築いている。決して、障害、ではない。

森達也は、『A3』(ブログ内レビュー)で俺に衝撃を与えた映像作家。今回も引きこまれて読んだ。読んでいて、森の自問自答、悶々とする姿が目に浮かぶ。森は純粋なのだ。だからだと思うが、彼はどっちつかずだ。超能力を目の前で見ても「信じる」とは言えない。だけど、見てもいないのに「信じない」という人たちにはムキになって反論してしまう。

この本は、超能力を信じる人にも、信じない人にも読んでもらいたい。

2017年8月25日

患者の話をよく聞きなさい。診断の手がかりはそこにある。 『こちら脳神経救急病棟』


神経内科にまつわる臨床ノンフィクション。著者のアラン・ロッパーは神経内科医で、マイケル・J・フォックスのパーキンソン病治療の主治医でもあった。

神経内科の臨床エッセイは、ハロルド・クローアンズ、オリヴァー・サックスの二人が素晴らしい本を書いている。中でもクローアンズ先生の本は最高に面白いが、あまり有名ではない。サックス先生のほうは文庫化されてロングセラーになっているものもある。きっと『レナードの朝』が映画化された影響が大きいのだろう。

神経内科というと取っつきにくいと思われるかもしれないが、医療専門書ではなく、あくまでも一般人向けのノンフィクションなので、そう心配はいらないはずだ。

パーキンソン病、ギラン・バレー症候群、ALS、解離性障害、詐病、脳梗塞や脳出血、認知症など、出てくる疾患はさまざまだ。そして、ポッパー先生のスタンスは「患者の話をよく聞きなさい。診断の手がかりはそこにある」。

値段は若干高いが、それに見合った内容と分量である。これが文庫化されたら絶対に「買い」なのだが……、そこまで本書が生き延びられるかどうか。絶版となって埋もれている医療系名著をよく見つけるので、本書がそうならないか心配。

2017年8月24日

悪趣味B級スプラッター・ホラー! 『ジグソーマン』


有名書評ブログでスゴ本として紹介されていたので、詳しい内容を確認しないまま購入して読書スタート。そして……、

なんじこりゃ!!

Amazonレビューは酷評、と言っても、現時点(平成29年8月24日)では2人しか書いていないが、俺としては星4つ。内訳としては、ストーリー3点、翻訳1点の合わせ技。海外ものでは翻訳もすごく大切だ。

主人公はマイケル・フォックス、35歳。本文はすべて彼の一人称で語られる。そして、ちょっとした小ボケやノリツッコミが面白い。でも内容は紛うことなきスプラッター・ホラー。しかもB級。翻訳が巧みで、全体の雰囲気にすごく合っていた。

映画『ホステル』や『ムカデ人間』を、被害者視点の一人称でノベライズした感じである。クライマックスでは、それなりのカタルシスも味わうことができはしたが……。残酷描写が苦手な人は読まないほうが良いだろう。

2017年8月23日

子どもたちを殴らないで! 蹴らないで! 殺さないで!! 『殺さないで 児童虐待という犯罪』


紹介されている虐待事例の一つ一つが胸を締めつけてくる。思わず我が子の笑顔や寝顔が頭に浮かぶ。目頭が熱くなる。こんな死に方をしてしまう子どもを、そして子どもを虐待してしまう大人を、少しでも減らしたいと思う。まずは現状を広く知ってもらうべきだ。そういう草の根的な運動が、今の俺にできる精一杯。 

紹介されていた最初の事例は6歳の男の子ター君。真冬に、風呂上がりのター君は裸のまま駐車場で雪の上に寝かされ、足から胸まで雪をかけられた。実母と内縁の夫はカメラを手に、雪の下で震えるター君の後ろでVサインをつくった。二日後、ター君は死んだ。父母の裁判での様子も描かれているが、彼らのあまりの感受性の低さに愕然とする。

この他、たくさんの事例が紹介されている。
腹立ちの収まらない哲也は、簀巻き状態の大ちゃん(5歳)の腹の上に立ち、そのまま2回飛び跳ねた。「ギャーッ」大ちゃんは大きな叫び声を出した。死因は急性硬膜下血腫だった。
直樹が右手で腹や顔を何度も殴った。楓ちゃん(生後4ヶ月)は殴られた勢いで絨毯を横滑りした。香織はミルクを飲まない楓ちゃんの顔や頭を6回殴った。腹も3回殴った。
これは、それぞれの事例を、かなり省略して引用している。実際の中身は、ここに書かれたものの数倍の激しさである。虐待が表に出にくいことの一因として、本書ではこう述べてある。
虐待事件では死んだ子の怒りや恨みを代弁して損害賠償請求訴訟などを起こす人がいない。なぜなら、代弁すべき立場の親が加害者であるからだ。
大阪の家庭センターの企画情報室長・清水氏の体験談も切ない。
二十数年前、母親が病気のため施設で暮らしていた男の子を清水さんは忘れられないという。小学校へ入る時、母親から「引き取りたい」と言われた。乳児期にいったん親と離れた子どもは虐待されるリスクが高いという調査結果がいくつかある。清水さんは心配したが、母親の勢いに押し切られた。
児童相談所が行なった夏のハイキングに男児は元気な姿で参加した。食堂ではオムライスを嬉しそうに食べた。それを見て、清水さんは少しホッとした。だが、その数日後、男児は救急車で病院に担ぎ込まれ、そのまま息を引き取った。
後になって、男児が虐待された理由を知り、清水さんは衝撃を受けたという。
ハイキングでの出来事を母親に尋ねられた男児がオムライスを食べたことを話すと、母親は怒りだした。
「ハイキングでオムライスなんか食べるわけがない。この嘘つき!」
母親から殴られ、男児はタンスに叩きつけられたというのだ。(中略)
「こんなに予算をつけてきたのに、なぜ虐待は減らないんだとよく言われる。だが、やればやるほど埋もれている被害が浮かび上がるんです」
最後に、ぜひともみんなに知っておいて欲しいことを書く。精神的に大変な時期に、親が子どもを乳児院などに預けるのは、決しておかしいことでも悪いことでも恥ずべきことでもない。虐待しそうな自分が怖くなって、乳児院に子どもを預ける人がいる。彼らは凄く勇気があると思う。ある乳児院の院長の言葉を引用する。
少しでも親に可愛がられた経験があれば、一時別れて休息することで親子関係を作りなおすことが必ずできる。
イギリスでは「親権」という言葉を廃止し、「親責任」という言葉に変更したそうだ。確かに「親責任」というほうが、親という存在の意義をしっかり表しているように思える。

2017年8月22日

問診票から見えること

国立病院での精神科研修医だったころ、若い指導医が新患の問診票を見て一言。
「うーん、シゾかもしれない」
シゾとは、統合失調症のこと。驚いた俺が問診票を覗き込むと、そこには雑な字で、

ねむれない

とだけ書いてあった。句読点すらない。実際に診察してみると、その患者は診察室で暴れ出さんばかりの初発の統合失調症だった。

「国立病院の精神科にまで来て、問診票に“ねむれない”としか書かないなんてことはあんまり考えられない。という理屈を無理やりつけられないこともないけれど、こういうのは精神科医の直観みたいなもんさ」
指導医はそう言いながら、どこか得意気であった。

この経験があるので、問診票はけっこうじっくり眺める。もっとも分かりやすいのが、書いた人の学力レベル。漢字を使わない、あるいは簡単な漢字の書き間違い、ひらがなでも日本語の間違い(「一応」を「いちよう」と書くなど)、そういったものは真っ先に目につく。患者本人でなく、付添いの人が書くこともある。問診票から感じとれる学力レベルはすごく単純な情報にすぎず、これが診断の助けになることはあまりない。ただ、相手の理解力を推測しておくことは、病状や今後の治療方針、ケアの仕方などを説明するときの参考にはなる。

<参考>
呟ききれないこと 問診票は患者さんを表すのか?

2017年8月21日

笑って読み進めるうちに、まさかの胸熱クライマックス! 『バッタを倒しにアフリカへ』


表紙もタイトルも、それに著者名も、「え? なにかの冗談?」というものだが、中身は科学者(バッタを専門とする昆虫学者)によるフィールド・ワークの奮闘記である。内容はいたって真面目なのに、軽妙な語り口で描かれるので、吹き出したり感心したりしながらスイスイ読み進んだ。

そして、ラストはまさかの胸が熱くなるクライマックス。俺はバッタになんて興味がない、アフリカ生活にも関心はない、それなのに感動で思わず鳥肌が立ってしまった。「ウルド」というモーリタニアでは由緒あるミドルネームを贈られるのも頷ける。こんな本ズルい!!

バッタの写真もあるので、極度の虫嫌いには勧められないが、バッタを見るくらいは平気という人なら、かなり面白いので強く推薦。

2017年8月19日

依存症の深い闇の話 ~ある小児科医がモンストをやめるまで~

昨夜いっしょに飲んだ後輩小児科医が、モンスト依存症から立ち直った話をしてくれた。それがあまりに感動的だったので文章化して発表することを勧めた。
他の依存症からの脱却に通じる話だったのだ。

ここでは彼の話を簡単にまとめて記しておきたい。

大学近辺でモンストやっている人の中ではちょっとした有名人というか、尊敬を集めるほどの存在になっていた彼。知り合った人にハンドル名を教えると「あのXXさん!」と言われるほどだった。

どれくらいハマっていたのかというと……。

何回もフラれながらもようやく口説き落とした彼女とのデートでも、ふとモンストが気になって、トイレに行くふりをしてモンストしてしまう。授業中も、実習中も、何をしていても、ポケットのスマホが、というよりモンストが気になる。国試直前でも、勉強時間と同じくらいの時間をモンストに割いていた。

こんなことでは研修医になったときにミスを犯すと思い、モンストをやめる一大決心をした。

スマホを壊しても意味がない。単に登録を削除しても、また再開してやり込むかもしれない。もっと厳しい方法でないとダメだ。そこで彼は、手塩にかけて育ててきた250体のキャラを一つ一つ削除した。

泣きながら。

「大切に育てたペットを、自らの手で屠殺するような気持ちでした……」

今でも、ふとやりたくなることはあるらしい。

「仕組みが、ハマるようによくできてるんですよ。コミュニティサイトみたいなところがあって、やめようと思っても、そこに行ってみんなと交流するとまたやりたくなるんです」

断酒会の集団療法効果を真逆に利用した仕組みということか。

「スマホゲームはパチンコよりタチ悪いですよ。24時間利用できるし、いつでも課金できますから」

それに、パチンコはせめて外出するが、スマホゲームは外出さえ不要だ。

「俺はもともと凝り性、ハマるタイプなので、かなり気をつけています。ゴルフも手を出していません。やったら絶対ハマるのが分かってますから」

では、今は何に打ち込んでいるの?

「仕事です。患者さんが良くなると嬉しいし、子どもが心配で連れてくる親御さんたちを安心させたいから。2時帰宅もザラです。だから、妻には怒られます」

今度はworkaholicになってしまった彼。

依存の闇は深い。


でも、活き活きと一生懸命に働く彼の姿を見ると、我が子をみせるならこの人だな、と思う。

2017年8月18日

プライマリな呼吸器内科医の診断アプローチを学びつつ、良質な医療ノンフィクションとしても楽しめるオススメ本 『私は咳をこう診てきた』


スゴい本だ。

非専門、というより、内科に詳しくない精神科医が読んでもよく分かる。

難解になりがちな深い専門領域に踏み込まず、治療についても薬剤名を記すことなく、ひたすら「診」ることに絞り込み、ケースレポートという形式で、診察から診断までの思考の流れやアプローチが語られる。「咳」を「診」ることに特化しているので、ほぼすべての症例において同じ手順、同じ思考の流れが繰り返される。にもかかわらず読んでいて飽きないのは、それぞれの患者の生活・社会背景がしっかりと描写されているからだ。また、これによって、本書が良質の医療ノンフィクションにもなっている。

咳診療における具体的な治療については記載がない。専門書のように細かい鑑別診断が網羅されているわけでもない。これは決して辞書のように用いる本ではない。本書の価値は、非専門家が通読でき、勉強になり、啓発されるところにある。

精神科の外来患者には、「見知らぬ他者との関わりを強く拒絶する人たち」が少なくない。そういう人たちが「頭が痛い」「めまいがする」「咳が出る」「皮膚にできものが」というとき、内科や皮膚科の受診を勧めても「いや、いいです……」「めんどう……」と拒否されることが多い。精神科も内科も皮膚科も同じ建物の中にある総合病院でさえこうだ。精神科クリニックや精神科病院なら、なおさらこの傾向が強いだろう。そうして放置され、後日になって「あのとき、ちゃんとチェックしておけば良かった」という結果にはしたくない。

そういうわけで、精神科医「なのに」ではなく、むしろ精神科医「だから」こそ、定期的にこういう本を読むようにしている。

値段も手ごろで、非専門家には超絶オススメな本。

2017年8月17日

躁うつ病でもあった北杜夫が描く奇人・変人な精神科医たち 『どくとるマンボウ医局記』


「どくとるマンボウ」という言葉はずいぶん以前から見聞きしたことはあったが、それがどういう本なのかは知らなかった。まして作者が精神科医とは……、しかも躁うつ病を発症した精神科医とは想像だにしていなかった。

読んで知ったのだが、北杜夫の父は斎藤茂吉らしい。そして著者は、父である斎藤茂吉のことを「異常性格」と評していた。そういえば、夏目漱石も精神科的な問題を抱えていたらしいし、中島らもは躁うつ病とアルコール依存症があったし、海外の文豪にもてんかんや精神疾患のある人がいた。

こういう文豪や偉人たちの病気の話は国語や歴史では習わないけれど、追加情報としてもっと積極的に教えても良いのではなかろうか。そのとき子どもたちに伝えたいメッセージは、

「病気の有無にかかわらず、人は自ら成したことで評価される」

ということだ。歴史的人物の病気の話になると、ヘレン・ケラーや野口英世のように、
「こういう病気があったのに、それを乗り越えたスゴい人」
となりがちだし、その逆に、
「こういう病気があったからこそ、こんな素晴らしい仕事ができた」
ということにもなりかねない。

そうではなくて、彼らは「彼らが成したこと」で評価されている、ということを伝えたい。
「だったら、最初から病気の話なんて持ち出す必要はないだろう」
そんな意見もあるかもしれない。それも一理あるが、子どもたちには、
「あなた自身や家族で病気の人がいるかもしれないけれど、それでその人の価値が損なわれることも、逆に価値が高まることもなく、ただ行ないが評価されるのです。そして、あなたが誰かのことを判断するときも、持病の有無で評価を上下させないように」
ということを、偉人たちの病気の話を通じて学んで欲しい。

本書は、北杜夫が慶應大学病院の神経科(精神科)医局に在籍していた期間に出会った医師や患者にまつわるエッセイである。特に患者よりも精神科医のほうに奇人・変人が多くて、これは日常臨床(?)の感覚とも合致している。変人が多いと言われる医師の中でも、精神科というところは(以下自粛)。

2017年8月12日

大ざっぱな宗教観で、ゆるりと生きつつ、大切なことは守っていきたい

宗教を「熱心に」やる人には違和感をおぼえることが多い。

たとえば、キリスト教を「熱心に」信仰している人の中には、ミサやクリスマスその他の宗教行事にはやたらこだわったり、聖書の勉強会に真面目に通ったりするのに、そもそもの「人を愛し許す」という部分がスポンと抜けている人が目につく。やたら戒律にこだわって、こころが伴わない、みたいな。

きっとほかの多くの宗教で、原理主義や、それに近いようなことをやっている人はこういう感じだ。

不倫報道の渦中にある女性芸能人はモルモン教徒で、タバコは吸わない、コーヒーを飲まないという厳しい戒律があるようだが、家族を大切にし家族を裏切らない、という、ほとんどすべての宗教で重視されていることが抜けているようだ。

ある「熱心なキリスト教信者」は、夫とけんかして、頬を叩かれたので叩き返したらしい。そしていわく、
「聖書には、右の頬を叩かれたら、左の頬を叩きなさい、と書いてあるから」
彼女の間違いはともかくとして、「聖書に書かれているから叩き返す」というのは思考停止状態だし、そもそも「人を叩く」というのが教義からズレるような……。

宗教行事には大ざっぱで、日ごろの信心なんて大したことないのに、お盆に集まりわいわい騒いで、特に初盆なんかでは故人を偲んでたまに涙ぐんだりして、やっぱりご先祖さまは大切だよなーくらいの、ゆるい宗教観でやっている人たちが好きで、自分もそんな感じである。

面白い寓話を紹介しておこう。

高名な坊さんが弟子たちと旅していると、橋のない川のそばで立ち往生する女性に出会った。
「水かさが増していて、渡れないのです……」
坊さんは躊躇うことなくサッと女性を抱えて川を渡ったが、それを見ていた弟子たちは納得いかない。モヤモヤしながら旅を続け、何時間も経ってついに皆で指摘した。
「師よ、女人に触れるとは……」
すると坊さんはキョトンとした顔で、こう言った。
「なんじゃ、お前たちの頭は未だに女を抱えておったのか」

信仰心の篤い人と、宗教に熱心な人の違いは、こういうところかもしれない。


坊さんの寓話は、本書のあとがきに書いてあったように記憶している。

2017年8月10日

統合失調症患者が主人公で、しかも描写が巧みという、非常に珍しい小説 『増大派に告ぐ』


主人公はおそらく統合失調症である。実在する患者の内面世界を正確に分かることはとうてい不可能だが、著者の描写は特に前半部において非常に巧みで、患者にはこのように聞こえ感じられるのかもしれないと思えた。中盤から後半にかけては、その描写力が若干息切れしたようだが、全体としては、「著者の身内に統合失調症の人がいるのかもしれない」というくらい真に迫っていた。

物語は、この統合失調症の31歳男性と、酒乱DVの父のもとで生活する14歳の少年を、交互に描いて展開する。男性の狂気と正常。少年の正常と狂気。それらの間を行きつ戻りつ、ときに混じり合って境目が分からなくなりながら、終盤に向けてチンタラと疾走感ゼロで進んでいく。

この疾走感のなさは、文章における比喩の多さが原因である。とはいえ、決して陳腐な表現の羅列というわけではないので、飽き飽きしたりイライラしたりすることはなかった。ただ、それはあくまでも俺の感覚なので、やはりこの比喩の氾濫を好きになれるかどうか、受け容れられるかどうかが、本書の評価の分かれ目になるだろう。

物語のラスト、弱者と弱者が交わった結果として、その着地点は、決してバラ色ではない。精神障害者は一方的にイジメられる存在ではなく、ときには誰かを傷つける。DV被害者もただ殴られるだけでなく、どこかで誰かに牙をむく。

本書を読みながら、THE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』にある、こんな歌詞を思い出した。
弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく
ところで、本作は日本ファンタジーノベル大賞の受賞作ではあるが、実はファンタジー要素はどこにもない。ファンタジーのように感じられる文章表現であっても、それは実在する病気のシビアな症状である。統合失調症の患者や症状について詳しそうな著者が、幻覚妄想を描写した小説を敢えて「ファンタジーノベル」として応募したのだとしたら、そこにこそ著者の主張が込められているのかもしれない。そして、それを審査員が正しくくみとって評価したうえでの受賞であれば、とても素晴らしいことだと思う。

2017年8月9日

教えそのものより、マフィアのエピソードに目がいってしまう…… 『最強マフィアの仕事術』


アメリカ5大マフィアの一つ、コロンボファミリーの幹部だったマイケル・フランゼーゼによるビジネス系の自己啓発書。元マフィアの教えだから、どれだけ過激なことが書いてあるのかと期待して読んだが、中身はいたって堅気、まっとうなものだった。それもそのはず、著者はとうにマフィアからは足を洗っているのだから。そのかわりマフィアから命を狙われもしたようだが。

誠実さ、勤勉さ、それから法を守ることを、他書より強く推奨しているが、あとはその他の本とそう大差ない。ただ、彼が経験した裏社会でのエピソードが面白くて、ついつい最後まで読んでしまった。自己啓発としてより「そっち系」の楽しみのほうが大きかったくらいだ。

2017年8月8日

死神の千葉、大活躍!! 『死神の浮力』


前作『死神の精度』は緩やかにつながる短編集だったが、今回は前作ファンにとっては嬉しい長編。死神の調査期間である7日間を、一日ごとに死神の千葉、主人公の山野辺寮の視点で描かれている。

山野辺夫妻は一人娘を殺害されている、という胸の痛い設定。死神の千葉は、そんな辛い境遇にある山野辺が「可」なのか「見送り」なのかを調査しにやって来ている。7日間の調査の結果、「可」なら翌日に死亡する。「見送り」なら一定期間の寿命が保証される。

本書のテーマの一つは「サイコパス」。娘を殺した犯人がサイコパスなのだが、どこかでこのキャラクターは見たことがあると思ったら、宮部みゆきの『模倣犯』だった。あの犯人も強烈なサイコパスだったが、本書の犯人である本城も負けず劣らずの冷淡さだ。

ネタバレになるから、これ以上はもう書けない。とにかく面白かったのでお勧めだ。

※平成29年8月7日時点で、文庫よりkindleのほうが倍近い値段という異常な価格設定となっている。リンクは画像の関係上kindleに貼ってあるが、安く読みたい人は文庫を。

2017年8月7日

ボケることは哀しく、苦しく、ときに滑稽。若年性アルツハイマーの男性を描いた小説 『明日の記憶』


泣いた。

本書の主人公は若年性アルツハイマー型認知症である。著者の文章が巧みで、徐々に記憶を失っていく感じがよく表現されている。

たとえば、小説の中で主人公がつける備忘録。最初は漢字が多くて誤字もなかったのに、日が経つにつれて漢字が減り、少しずつ誤字が増えていく。特に、文中に誤字を初めて(だと思う)登場させたときの方法が上手い。まず、備忘録で「案外」と書くべきところを「安外」と間違えてしまう。このままだと変だなと思いつつもスルーする読者がいるかもしれない。そこで、その次のページの地の文で「案外」が使われている。読んでいる読者は、まず「安外」を見て違和感をおぼえ、読み進んで「案外」と書いてあるので、「安外」は主人公の誤字だと確信できる。

この備忘録がどんどんと退化していく感じは、『アルジャーノンに花束を』を彷彿とさせる。有名な小説だが、一応おおまかな内容を書いておく。主人公は精神遅滞のチャーリーで、アルジャーノンはネズミの名前だ。アルジャーノンは実験的な脳の手術を受けて、非常に頭の良いネズミになる。この手術を人間で試した第一号がチャーリーだ。チャーリーはみるみる知能が上がる。ところが、ある日を境にしてネズミのアルジャーノンがどんどん退行していき、最後は死んでしまう。それを見て、チャーリーは自らの運命を悟る。これらが「チャーリーの日記」という形式で描かれる。原書で読んだのだが、最初は俺でも分かるような文法や綴りの間違いが多く、精神遅滞の人の英文という感じだった。辞書なしでもスラスラ読めたのに、知能が上がるにつれ内容がだんだんと高度になり、とうとう辞書なしでは読めなくなった。そして、最後はまたどんどん幼い感じの日記に戻っていく。この表現方法には衝撃を受けた。

そういうわけで、『明日の記憶』で用いられた「衰える備忘録」という手法は、特別に目新しいものではなかったが、小説の中でうまく挿入・利用されていた。

ストーリーに関しては多くを書くまい。ラストシーンより、途中のある場面で胸がぐっときた。

認知症小説(?)の隠れた名作には、清水義範の『靄の中の終章』という小説がある。『国語入試問題必勝法』という本におさめられた短編小説だ。また、『吾妹子哀し』も認知症の妻をかかえた夫を主人公にした素晴らしい小説である。



2017年8月3日

両親の面倒を最期までみますか? 自分や家族の介護や死に想いをはせるノンフィクション 『満足死 寝たきりゼロの思想』


両親の面倒を最期までみますか?

この問いに「ハイ」と答えたのは、イギリス人が50%、ドイツ人が62%だったのに対して、日本人は75%と高かった。ところが、実際に親が寝こんだときに最期まで面倒をみたかどうかを調査すると、イギリス人が40%、ドイツ人が50%だったのに対して、日本人はわずか20%だったそうだ。

本書はノンフィクション作家の奥野修司が、高知県佐賀町で「満足死」という取り組みをしていた疋田医師に密着取材したものである。疋田医師は50歳で佐賀町に移り住み、90歳で引退するまでの40年間、へき地医療に従事する中で、患者本人が満足して他界する「満足死」というものを追求した。

似て非なるものに「尊厳死」があるが、尊厳死より「患者本人の主観」を重視したのが「満足死」である。

疋田医師は歯に衣着せずこう言う。
「だいたい嫁をはじめとして、家族がお世話してくれるのは一ヶ月です。バカ息子でも一ヶ月はしてくれます。一ヶ月すぎると、早う死んでほしいとは言わんけど、粗末に扱われると思ったほうがよろしい。これが二ヶ月、三ヶ月になると、現実問題として、お世話する側に困る人が出てくる」
また、疋田医師は「人間は三度死ぬ」という話で、健康でいることの大切さを説く。三度の死は、まず「他人に貢献できなくなる社会死」、次に自分の生活を維持できなくなる「生活死」、最後に心臓が止まる「生物死」。そして、「生活死」と「生物死」の間をいかに短くするために健康を保って、衰えたと思ったらポックリを目指そうというわけだ。「生活死」と「生物死」の間がおおおそ1ヶ月くらいだと、「ポックリ逝った」という印象になるようだ。

自分や家族は、介護や死とどう向き合うのだろうか。どういう介護をして、あるいはされて、どこでどうやって死ぬのだろうか。はたして自分は「満足死」できるだろうか。家族を「満足死」させられるだろうか。いろいろなことを考えさせられる本だった。

2017年8月2日

なんでも「さん」付け 『バカ丁寧化する日本語 敬語コミュニケーションの行方』

以前、テレビを見ていたら、ある政治家が、

「小沢グループさん」

と言っていて、ゲンナリというかウンザリというか、気持ちの悪さにその政治家の名前を憶えることさえ忘れて、ただただオエーッと思っていた。

なんだ、この「さん」付けブーム。

そういえば、政治家って「自民党さん」「民主党さん」とも言うよなぁ……。彼らはそれが変だとは思わないのかね。もしかして「さん」を付けるほうが礼にかなっているとか丁寧だとか思っているんじゃないだろうな。

製薬会社の人たちは、互いの会社名を「さん付け」で呼び合う。これは日本企業の昔からの慣習だし、そこまで違和感もないのだが、ある薬剤説明会で、

「ドネペジルさん」

と言っていたのには驚いた。ドネペジルというのは、認知症の薬『アリセプト』の一般名である。これはもうどう考えても行きすぎだ。例えるなら、東芝がプラズマテレビのレグザを売り込んでいて、一方でシャープが液晶テレビのアクオスを推している時に、「プラズマテレビさん」「液晶テレビさん」と言い合っているくらいに変である。せいぜい、お互いに「東芝さん」「シャープさん」と言い合うか、せめて「レグザさん」「アクオスさん」くらいが限度だ。いや、それでもかなり変か。

俺は少し前からネット上では「患者」に「さん」を付けないことにした。最初は簡便性を重視したのだが、面白いことに、「さん」を付けないほうが患者個人から離れることができ、客観的とまではいかないまでも、少し距離を置いた振り返りができるようになった。まして「様」なんて現実でも絶対につけない。

だいたい、俺みたいな精神科医から「様」付けで呼ばれた患者は、見放されたと思って落ち込むよ、きっと。


2017年8月1日

依存症治療は難しい 『依存症』

酒は好きだ。しかし、酒がないとやっていけないほど、日々に倦んでいるわけでもない。むしろ、酒を飲まない日の方が読書や映画など、自分の時間を楽しめる。子どもたちと一緒に生活するいま、以前ほどには飲んでもいられない。
アルコール依存症者の妻たちもおそらく何百回とこう詰問したはずだ。
「どうしてそんなに酒が飲みたいの」と。
眠れないから、仕事の付き合いだから、食欲増進のため、思ったことが言えるから、寂しいから、頭にくることが多すぎるから……さらには「女房の顔がブスだから」というものまである。
実はこんな質問は愚問なのだ。
彼らはもう理由なく飲んでいるのであって、このような理由は単に周囲を納得させる後づけに他ならない。

思えば、酒量が増えたのは医学生時代であった。それまでも酒は飲んでいたが、医学生になって友人や後輩たちと飲むことで、「飲み過ぎる楽しさ」というものを覚えてしまった気がする。
アルコールと出会うまでの人生がどのようなものであったかによって、飲酒の快感は変わってくる。
しらふの時でもまあまあ楽しい人間関係が持て、そこそこ自惚れも強い人がアルコールを飲んで得る快感と、しらふの時は自分にまったく自信がなく人と会う時も緊張が強い人がアルコールを飲んで得る快感とはどちらが強いだろうか? 
変化の落差の大きいほうが強いだろうことは容易に想像できる。
日本は、アルコールに関しては非常に寛容な国である。世界一と言っても良いくらいのようだ。
そのかわり薬物に対する取り締まりは厳しい。世界でただ一つの国にしか見られないアルコールの自動販売機(これが日本にしかないという現実を知らない人が如何に多いか)はそのようなアルコール容認文化の象徴である。つまり嗜癖の対象をアルコールという薬物に一点集中させることで、他の薬物の乱用を相対的に防いできたといえないだろうか。
俺も、酒の自販機が日本にしかないとは知らなかった。でも確かに、これまで行ったどの国にも酒の自販機はなかった。というより、自販機自体がそんなに多くなかったが……。

本書に、著者がカウンセリングで用いている依存症チェックが紹介されている。

1.ある人Aが習慣的に○○を行なう。
2.それによってある人Bが困る。
3.それを知りつつ、ある人Aはその行為○○がやめられない。

○○に入るものは何でも良い。身近で思い当たる人はいないだろうか。

ちなみに、著者が所長を勤める原宿カウンセリングセンターは、30分のカウンセリングで6000円。高いと思う人もいるかもしれないが、弁護士相談料だって同じくらいである。こころの悩みは、そんな安くお手軽に解決できるものではないのだ。