2017年12月28日

人と交わるのが苦手な高校生は、なるべく大きな大学を選ぶほうが良い

人と交わるのが苦手という高校生。進学先について担任からは、
「小さい大学のほうが向いているのでは」
と勧められているとのこと。

俺の考えはむしろ逆。

そういう人こそ大人数のところに行くべき。ひっそりと埋もれられて気楽に生きられるのは、少人数よりも大人数の集団だ。

少人数のところだと、ちょっとしたことで目立ったり浮いたりして、それが孤立につながりかねない。いっぽう、大人数のところでは、多少のことでは目立たないし、ちょっと浮くくらいでも似たような仲間を見つけられる可能性がある。

「人と交わるのが苦手みたいだから、少人数のところが良いんじゃないかな」と勧めた先生の考えは分からなくはない。ただ、きっとこの先生は人と交わるのが苦手ではないのだ。だから、交流の苦手な人が「居心地良い」と感じる空間をうまくイメージできないのだろう。

2017年12月27日

タイトルが長いな…… 『カリスマ 人を動かす12の方法 コールドリーディング なぜ、あの人は圧倒的に人を引きつけるのか?』


非常に読みやすく面白かった。全部を実行できるとは思えなかったけれど、それでもかなりこれからの参考になるようなことが書いてあった。

精神科医は、占い師のように相手を見透かしたような言動をとらないほうが良い。何でもお見通しという雰囲気は、患者を心理的に圧迫するからだ。言われないことは分かりません、くらいでちょうど良い。だから診察室ではあまり使えなさそうだが、病棟スタッフをチームとしてまとめるのに少しでも役立てていけたら良いなと思う。

ちなみに、本書に書いてある方法のうち「ゆっくり歩く」「頷きを減らす」の二つは実践しやすいと思ったが、いざやってみようとすると身に沁みついた習慣はそう変わらない。

2017年12月26日

男泣きの連続 『炎立つ』


高橋克彦の文章はちょっと癖がある。視点の入れ替わりが多く、時どき、
「ん? これは誰の視点で、誰の言葉で、誰の気持ちなんだ?」
と戸惑うのだ。そこを堪えることができれば、中身はとにかく面白い。そして熱い。何度となく涙ぐんでしまった。

陸奥三部作と言われるもので、歴史の順序的には2番目に当たるのが本作。前作『火怨』と合わせて「人の上に立つ将たる者、どうあるべきか」ということを考えさせられた。医師は治療状況をみながら多くの看護師へ指示を出す、ある種の「将」という立場にある。いざという局面で医師が進んで矢面に立ってこそ、看護師も安心して仕事ができるものだ。これは指導医の教えでもある。
「患者が暴れたら、俺たちが一番前に出ないと、みんなついてこないよ」
精神科医療の現場での医師や看護師のあり方については、きっとそれぞれいろいろな意見があると思うが、俺はこの指導医の考え方が好きで、今後もそういう医師であり続けたいと思っている。

話が本から逸れたけれど、とにかく面白い本なので、「歴史はちょっと……」という人でも試しに読んでみて欲しい。ちなみに、俺は中学から高校まで、通知表の社会・歴史は5段階で「2」しか取ったことがないほど歴史を苦手としている。そんな俺がお勧めする歴史小説。

2017年12月22日

優れた古典として後世に残したい 『アルコーリズム』


日本におけるアルコール依存症治療の草分け的存在である「なだいなだ」による本。著者が書いているように、もともとは手探りでの「患者向け教科書」だったものだが、治療者にも「役に立つ」と評価されたもの。

原著初版は1966年。そして改訂、追記などされた1999年版で絶版となっている。初版から50年以上が経過し、開放病棟での依存症治療が常識となったいまでは、「新鮮な驚きに満ちた煌めくような名著」とまでは言えないが、日本のアルコール依存症と治療における非常に優れた古典として、後世に伝えていくべき本ではなかろうか。

2017年12月21日

古くならない精神科治療論 『精神医学の思想 医療の方法を求めて』

統合失調症の症状が悪化する最大の原因は薬を飲まないことだが、それ以外に三つの要素があるという。色、金、名誉だ。この「色」とは、異性関係、恋愛問題のことである。そして、この「悪化要素」は人によって一定しているのだとか。これは、臺弘(ウテナ ヒロシ)という精神科医の説だとなにかで読んだ。確かに、入退院を繰り返す人や、入院中に調子を崩す人を見ていると、この説はわりと当てはまっていると感じる。


臺先生の本から一部引用する。まずは精神科医の私生活について。
私の妻は私に対して「あなたのようにひとの心の分からない人によく精神科の医者がつとまりますね」といって笑う。私は「患者さんは君よりも正直だからさ」と応酬する。
これはあるある(笑)

続いて、患者にとっての家族の話題から。
家族は病気をつくるのに一役演じたとしても、病気を癒すためにも大きく働いてくれた。医者が家族の病理性だけを指摘するのは間違いで、家族こそ治療のための最も強力な協力者になりうる。
最後に、生活療法の話題より。
患者をフォークダンスの環の中に加えようとして、外から入れ入れといくら励ましても無駄な場合にも、皆が手をつないだ環の一つを開けておいて、さあいらっしゃいと内から呼び込むと、わりに抵抗なく環に加わることができるものである。
これは集団の場の力が人に与える力の最も簡単な例であろう。
1972年発刊の本だが、現在にも通じる治療論だ。精神科医が一読する価値は大いにある。

2017年12月20日

見つめる鍋は煮えない 『思考の整理学』

「先生、うつの薬はいつごろ効いてきますか?」

「だいたい忘れたころに」

「ははぁ」

「水を沸かすとき、じっと見ててもなかなか沸かないでしょ? でも放っとけば、いつのまにか煮たってますね。あんな感じです」

「今日か明日かと思っているうちは、まだまだなんですね(笑)」

20歳のころ読んだ『思考の整理学』という本に「見つめる鍋は煮えない」というフレーズがあった。ある日の診療中にふと思い出して説明すると、その人にはよく通じた。

2017年12月19日

相手の表情を読むのが苦手な人について

放射線画像を「読む」には大まかな作法がある。その作法に則れば見落としがない、というわけではなく、知識や経験が大切で、何より「最低限のセンス」が必要である。このセンスは、一部の医師だけが持つものでなく、「一部の医師だけが持たない」ものである。

この「最低限のセンス」を持たない人は、おそらく絵も苦手だ。医学部の組織学や病理学でのスケッチも下手。病理スライドを見ても、どれも同じに見えてしまう。こういう人は、皮疹の鑑別も上手くできないだろう。

これは実は俺のことだ。俺も「最低限のセンスを持たない」うちの一人で、理論がしっかりしているはずの心電図も不得手。脳波はかろうじて「極端な異常」なら拾えるレベル。こうした視覚系の検査に比べて、血液生化学検査は数値がはっきり出てくるので、地道に追えば確実に読める。だから、好きだ。

ところで、相手の表情を読めない人というのは、きっと俺が放射線画像や病理スライドを前にした時のような感覚になるのだろう。体系的に読む作法を身につけ、知識や経験を積み、多少は読みとれるようになったとしても、「最低限のセンス」の欠如のせいで、他の多くの人のようにきちんと読みとれているとは言い難い。

すべてを完璧にできる医師はいない。だからこそ、医療は各科・各医師がカバーしあうことで成り立っている。同様に、すべてを完璧にできる人はいない。互いにカバーしあうのが大切なのは、社会でも家庭でも、どこに行っても同じである。

画像が苦手な俺でもきちんと追える数字で見える血液検査を、もっと勉強したいと思って購入。すごく良い本だった。

2017年12月18日

医師には物足りず、素人には少し難しい。これは誰が読むべき? 『脳と神経内科』


面白くはあったけれど、医学の勉強を叩き込まれた医師が読むぶんには少し物足りない。とはいえ、まったくの医学素人にはちょっと難しいかもしれない。

では、どういう人に向いているのか。

ずばり、医療系学生。

今まさに基礎医学や臨床医学を勉強している人にとっては、学んでいることが病気や治療とどう結びつくのかが見えてきて、本も楽しく読めるし、勉強そのものも楽しくなるはずだ。ただし、発行年が1996年とやや古く、当然ながらこの20年間で分かったことは記載されていないし、名称が変わった病気(痴呆)などが古いままなので、そのあたりはきちんと分かったうえで読むべし。

2017年12月15日

ヤンデル先生の白熱臨床(?)哲学教室 『症状を知り、病気を探る 病理医ヤンデル先生が「わかりやすく」語る』


自分や家族の病名をググったことはないだろうか。医学部でやる「病気の勉強」はこれに近い。A病にはaという症状があり、B病にはbという症状がある、といったことを覚えるのだ。

病名ではなく、「腹痛、発疹」「頭痛、目まい、右に傾く」など、気になる症状を並べてググり、出てきた病気から当てはまりそうなものに目を通す。これも経験ある人は多いだろう。臨床医が診察しながらやっていることはもう少し複雑だが、おおむねこれに近い。

本書では前者と後者をつなぐ「症状」に着目し、その症状が「なぜ起こるか」を解説し、そこから病気を「探る」ことを目指している。より正確に言えば、「探る姿勢」を身につけることを目標にしている。決して病気を「教える」「知る」を目的とはしていない。

本書のメインテーマである症状の説明は非常に「わかりやすい」。ただ、医学部で基礎から学んだ臨床医の端くれとしては、特に目新しいことはなかった。もともと看護「学生」を対象としたものなので、当然と言えば当然である。

素晴らしいのは、ヤンデル先生の臨床(?)哲学だ。ヤンデル先生は病理医だが、
「あれ? ヤンデル先生って臨床医でもあるんだっけ?」
そんな錯覚すら抱くほどに「臨床で大切な感性」が繰り返し語られている。常日ごろから「言葉にすることが大切」と思っているだけに、ヤンデル先生の「わかりやすい」言語化には頭が下がる。

たとえばこんな感じ。
患者さんは、虫垂炎という病気ですよと「診断される」ために病院に来ているわけではない、ということです。患者さんは、自分の痛みを取ってほしい、苦しさから解放してほしいと思って、病院に来ているのですから。
痛みに苦しむ患者さんが一番最初に受けるべき治療は、医療者が患者の苦しみおしっかり受け止めるぞ、という姿勢を見せることです。
患者さん自身の診断を、素人考えだといって却下してしまってよいのか。そうではありませんよね。
患者さん自身がどう思っているのか、どいうのは、多くのヒントを含んでいる、とても大切な情報なのでしたね。
患者さんが最初に口にする、「気になること、自分の痛みを自分で解釈してしゃべること」にはある程度の真実が必ず含まれています。ですから、まずは傾聴することです。(中略)
傾聴してから、聞き出す。非常に大切です。繰り返しになりますが、最初から質問攻めにしてはいけません。
症状や徴候について。
これらはいずれも診断の一助となります。ただ、診断を決めるためだけでなく、患者さんをくまなく、優しく支える目線の一環としてアセスメントを進めることが大切です。
症状というのはそのまま「患者さんのつらさ」である。
多忙な診療や看護でついつい置き去りにされてしまう大切なことを、こうやって改めて確認することは、自らの診療・看護の鮮度を保つうえでとても意義のあることだろう。そういう意味で、すでに症状の病態について充分に理解しているベテラン医療者でも、一読の価値がある本だと言える。

ちなみに、ヤンデル先生はツイッターでの情報発信もされている(情報以外のことが多いが)。

ヤンデル先生のツイッターアカウントはこちら @Dr_yandel

2017年12月14日

精神科医が「みている」もの

診察室では、患者の言葉以外も観察する。外見や仕草はもちろんのこと、ニオイも観察材料である。

ある女性を診察していて、どこかで嗅いだことのある臭い(正直、強い悪臭)だと思ったら、実は別の男性患者と姉弟で、一緒に住んでいるとのことだった。なるほど、同じ臭いになるはずだ。

別のある日、診察室でガムを噛んでいる人がいた。数回の離婚歴あり。仕事は長続きせず転々としており、いずれも「職場の人間関係」が理由で辞めている。この人のカルテには、
「診察中、ガムを噛んでいる」
と記載した。この一文と生活歴を合わせて、読む人ば読めば、多くのことが伝わるだろう。

また、当院の診察室のドアはスライド式になっており、そのドアを閉めないままに着席して喋り出す人がいる。これだと待合室から丸見え、丸聞こえなのだが、それを気にする素振りもない。こういう様子もまた大切な所見であり、
「ドアを閉めず、いきなり話し始める」
といったことをカルテに記載する。

精神科医は、耳だけでなく目も鼻も用いて「みている」。

2017年12月13日

正常な反応としての不安や不眠 神田橋先生の『精神科講義』より

統合失調症の人に限らず、薬はなるべく少ないに越したことはない。ただ、薬で治療して良くなったから、それでは少しずつ薬を減らしましょうとなると、ちょっとしたことで不安になったり動揺したりする。
「だから薬は減らさないで欲しい」
という患者は多い。むしろ薬を追加するよう求められることもある。

あるとき、
「親と大ゲンカして、イライラしたり眠れなくなったりする」
という人がいて、その不眠やイライラを鎮めるための薬が欲しいと言われた。はいそうですか、と薬を追加するようなことはあまりしたくない。それよりは、
「親とケンカして、イライラするのは当然だし、それで眠れなくなるのも不思議ではない」
ということを伝え、どうしてケンカになるのか、どうやったらケンカせずに済みそうか、そういったことを話し合いたい。

こうして今までやってきたことを後押ししてくれるような文章に出会った。
ひとりで生活できるようになると、どういうことが起こるかというと、周りのいろんな出来事に対して不安になってきます。動揺したり、迷ったりするわね。それをよく見て、周りの起こっている出来事とその人の不安がちゃんとつながっていたら、これは正常です。生きているということだね。
「そんなときはこうしたらいいかもね、ああしたらいいかもね」
と、コーピングを教えてあげれば、どんどん生活のレベルが上がります。
薬がたくさん入っていると、そういう周りの出来事に対して起こってくる些細な心の揺れとか、ご飯が食べられなくなったり、眠れなくなったりすることが一切起こらない。もう死んだように平穏だ。そして毎日「変わりません。よく眠れています」。そりゃ平穏でいいけどね。
不安になったからこそ嬉しいこともある、生きているわけだから。統合失調症の人がただ静かに日が暮らせるようにすればいい、ということじゃないんだ。

2017年12月12日

「中国」と中華人民共和国は別もの!? 『和僑 農民、やくざ、風俗嬢。中国の夕闇に住む日本人』


中国で活躍・暗躍する日本人たちを追いかけたルポ。

取り上げられるのは、いずれも一癖か二癖ある人たちで、そのパワー、エネルギー、バイタリティいったものに気圧される。こうして注目を集める「成功した日本人」がいるいっぽうで、その陰に、彼らの何百倍以上にのぼる「沈澱した日本人」がいることにも本書では触れてある。

こうした日本人を通じて、著者は「中国」というものに迫っていく。そして、混沌とした土地「中国」と、国としての「中華人民共和国」とは別ものであると指摘する。さらに、共産党による独裁政権で運営される「中華人民共和国」が、「混沌の地・中国」の統治には有効どころか、むしろ必要不可欠なのではないかという結論に至る。

とても面白くてあっという間に読み終えてしまった。

2017年12月8日

痛みが妄想を引き起こすとき

「痛み」というのは客観的な評価ができず、本人にしか分からない悩ましいものである。その痛みが、妄想を引き起こすことがある。たえばこんな感じ。

「頭が痛い、治らない、なぜだ……、なぜだなぜだなぜだなぜだ……。!!そうか!! 宇宙人が頭に機械を埋め込んだんだ! なに? 宇宙人じゃない? だったら誰だ? CIAか。さもなければ……、あっ! この前うちに来た宅配屋か! そういえば手に何か機械を持っていたが、あれがスイッチか……」

こういう「身体的な痛みと、それにまつわる妄想」を抱く人に出会ったときには、まず「痛みそのものは本物だ」と考え、痛みへの配慮を示すことだ。
「とても痛そうだけど、大丈夫?」
これくらいシンプルで良い。妄想についての話は、ずっとずっと後まわしでかまわない。

診察室で患者に、
「痛そうだけど、大丈夫ですか?」
と声かけすると、付き添いの家族などが、
「いやいや先生、これは妄想ですから」
などと口を挟むことがある。患者に向かって
「あんたも変なことばかり言わず、ちゃんと先生に治してもらいなさい!」
みたいなことを言う人もいる……。

こういうケースをみると、もしかすると、本当にある原因不明の「痛み」について周囲の理解や同情が得られず、その辛さが妄想を引き起こしたのではなかろうか、なんて考えることがある。



痛みにまつわる良質な臨床ノンフィクション 『この痛みから解放されたい ペインクリニックの現場から』

2017年12月7日

格式高い教科書には盛り込みにくいが、現場ではとっても気になっていることについて、現場の人たちへやさしく語りかけるような名著 『精神科看護のための50か条』


精神科の入院治療においては、治療と看護は密接につながっている。いや、「つながっている」というより「一体化している」というほうが正確だろう。いかに名医が素晴らしい薬を処方しても、良い看護なくして充分な治療効果は発揮し得ない。その逆に、凡医による平凡な処方でも、看護次第で目覚ましい結果を得ることも可能である。

つまり、精神科医が精神科看護について勉強すれば、それは「治療を学ぶ」のに等しいということだ。そういうわけで、看護師向けの精神科書籍も過去に数冊読んでいる。中でも中井久夫先生の『看護のための精神医学』は非常に優れている。また、師長に紹介された精神科看護の雑誌連載も面白そうだったが、今のところ手がまわりそうにない。

他職種の業務を勉強するという点では、看護師が医師の仕事を学ぶより、医師が看護師の仕事を学ぶほうが得るものが大きいのではなかろうか。そういう意味で、医師のほうが、勉強することにお得感がある。

本書では、精神科看護のためのポイントを50ヶ条に分けて、読みやすく、分かりやすく、そして頭と心に響くように語ってある。すべてを引用はできないが、各タイトルをいくつか引用。

・ 申し送りについて
・ 何はなくともケース・カンファレンス
・ 違いのわかる看護師と同じのわかる看護師
・ 記録について
・ 夜勤について
・ 家族面会について
・ 病棟規則について
・ 事故について
・ コトバにするコミュニケーションを過信しないこと
・ 沈黙について
・ 常識の大切さ
・ お小遣いなど
・ 外泊について

このような、「格式高い教科書には盛り込みにくいが、現場ではとっても気になっていること」について、やさしく語りかけるように記述されているので、読み手のこころに届きやすい。

『精神保健と福祉のための50か条』とともに、素晴らしい本である。

2017年12月5日

淡々とした描写とは裏腹に、感情がグッと引き寄せられる短編集 『罪悪』


前著『犯罪』でファンになったドイツの小説家シーラッハによる短編集。彼は弁護士でもあり、本書も『犯罪』と同じく、すべて刑事事件がらみの話である。

第一話は17歳の女性が親父たちから集団強姦された事件についてだが、被害の様子や供述などが淡々と記述される。感傷を廃した描写とは対照的に、読み手の感情はグッと引き寄せられていく。まるで精神科のケースレポートを読んでいるようだ。

本棚に飾るのにも見映えが良いので、手もとに残しておく。

2017年12月1日

痛みにまつわる良質な臨床ノンフィクション 『この痛みから解放されたい ペインクリニックの現場から』


痛みを伴う疾患や疼痛メカニズム、疼痛管理や治療の歴史など多岐にわたって、患者エピソードを交えながら語られる良質の臨床ノンフィクションである。

実臨床で即戦力となる薬の使いかたや疼痛コントロールについて書かれているわけではないので、そういうものを期待している人には不向きだろう。オリヴァー・サックスの著書や『病の皇帝ガン』といった医療系ノンフィクションを読むのが好きな人なら、本書も楽しみながら読めるはず。

原因不明な痛みの治療を求められることもある精神科医としては、ここに書かれていることが今後なんらかの参考になる日が来るかもしれない。ゆっくりと脳内発酵を待とう。

参考までに各章で扱われている疾患やテーマを挙げておく。

片頭痛
幻肢痛
三叉神経痛
椎間板ヘルニア
出産
慢性関節リウマチ
手根管症候群
心臓発作
感覚欠如
麻酔
詐病
末期がん
疼痛管理

2017年11月28日

精神科ケースレポートのような淡々とした描写が心地良い短編集 『犯罪』


ドイツの小説家(弁護士でもある)による連作短編集。タイトル通り、すべて犯罪がらみのものばかりだ。

事実をもとにしているようで、劇的トリックや感動オチといったものはほとんどない(皆無ではない)。このあたり、同じく弁護士で、犯罪がらみの小説を書くアメリカのジェフリー・ディーバー(『リンカーン・ライム』シリーズ)とは趣が異なる。

感傷的な描写をせず、淡々と描かれていく人間模様、犯罪の裏側に、ぐいぐいと引き込まれてしまう。少し脚色された精神科ケースレポートを読むような感覚で、非常に面白かった。ただ、ハラハラドキドキするような小説が好みという人には向かないかもしれない。

2017年11月27日

池井戸潤を好きな人なら楽しめそうな小説 『トライアウト』


主人公の可南子は38歳のシングルマザーで新聞記者。8歳の息子「孝太」とは遠距離親子である。タイトルからはプロ野球メインの話かと思ったが、実際にはあまり野球は出てこない。トライアウトの場面もあるにはあるが、それもあまり本題ではなかった。

ではなぜタイトルに「トライアウト」を用いたのかと少し疑問だったが、可南子という女性の人生における再起、復活をかけた「トライアウト」と考えれば、なるほど納得がいく。

面白くて一日で読んでしまったが、一日で読める分量ということでもある。したがってストーリーは面白いが、表面をさらっと撫で上げたような中身でもある。池井戸潤が好きな人、特に『ルーズヴェルト・ゲーム』が面白かったという人なら楽しめるのではなかろうか。

ちなみに、著者はなんと看護師だったらしい。

2017年11月24日

なぜ患者を身体拘束するのか

「なぜ患者を拘束・抑制するのか」

計見一雄先生の答えがシンプルで、自分の中での非公式な指針にしている。

「患者に近づくため、触れるためだ」

さらに、身体拘束を外すときの、計見先生の声かけも好き。

「外すから、殴るなよ」

精神科の診療や看護に集中するには、殴られるかもしれないという「雑念」が邪魔になる。もちろん、精神科に従事する人はみな、殴られる可能性があることを「覚悟」はしている。しかし、その「覚悟」と「殴られるかもしれないという雑念」は似て非なるものである。

「覚悟」と「雑念」。

この違いを感覚的に分からない医師が主治医になると、スタッフは苦労し、時に泣かされる。

「覚悟はある、しかし雑念が邪魔」

この感覚を分かるかどうかは、医師としての臨床経験ではなく、人としての感性にかかっているのかもしれない。


計見先生の言葉がどの本に書いてあったかは失念したが、臨床系の本はそう多くないのですぐ見つかるだろう。たぶん、この本だったとは思う。

2017年11月22日

診察室での「きく」について

診察室での「きく」は主に3つ。

1.診断や経過確認のため、症状や家族歴などを尋ねるときの「きく」。
2.真摯な姿勢としての「きく」。
3.「どうしてそう思ったんでしょうね?」など質問を投げかけることで、患者のこころに「種をまく」ような、治療のための「きく」。

1には知識が、2には人間性が、3には経験が、主に求められる。

知識がなくても2はできるし、知識があっても2ができるとは限らない。

2017年11月21日

世界に民主制が誕生する前後をエンタテイメントにした小説 『パルテノン』


映画化された小説『ジョーカーゲーム』の柳広司による短編二つと中編一つが収められた作品。

3編とも、舞台は紀元前5世紀のアテナイ。特に民主制の始まりとパルテノン神殿の建造をテーマにした中編の表題作「パルテノン」が読み応えがあり面白かった。

これまでに読んだ柳広司の「実在人物が主人公」という小説は、ただのエンタテイメントではなく、なにかしらテーマを持たせてある。そして、それが重すぎないのが読みやすくて良い。

2017年11月20日

皮膚科医なんて簡単さ!?

同期の皮膚科医と会った際、この機会に皮膚科について教わろうといろいろ聞いてみたが、結局のところ、「(患者の皮膚を)実際にみないと分からない」という結論に落ち着いてしまった。このあたり、精神科と似ている。

そんな流れの中で、同期は、
「皮膚科は、抗真菌薬(水虫の薬)塗るか、ステロイド使うかのどっちかだから」
と笑っていた。これは同期に限らず、多くの皮膚科医がときどきやる自虐ネタで、研修医に対しても入局の勧誘で使われることがある。

しかし、この言葉にだまされてはいけない。それを言うなら、ボクサーだって「右手か左手を使えば良いだけ」なのだ。でも実際には、どちらの腕をどのタイミングで、どれくらいの強さで出すか、あるいは守りとしての引き際の見極めなどが勝敗を左右する。

皮膚科医が自らの仕事を自嘲的に語ったとしても、それはやはりプロの領域の話である。

2017年11月17日

精神科診療における日記の効用

あるコーチングの本によると、思考は話し言葉より40倍から80倍の速さで流れるらしい。だから、言語化しない思考は高速で過ぎ去ってしまい、頭には残らない。

診察室で「ゴチャゴチャ考えすぎてしまう」と訴える人は多いが、その「ゴチャゴチャ」に具体性のあることは少ない。言語化していないので、悩みの中身はただただ流れ去り、「いっぱい悩んだ」という形跡だけが残っているのだ。

精神療法やカウンセリングの効用の一つは、この「ゴチャゴチャ」を言語化することだ。というより、言語化できた時点で問題の大半が解決するようなケースさえ珍しくないのではなかろうか。

さて、精神科やカウンセリングで「日記を書く」ことを勧められた人がいるかもしれない。この日記は、主治医が読んで分析するためというより、頭の中の「ゴチャゴチャ」を言語化するトレーニングという意味が大きいだろう。

「ゴチャゴチャ」「グルグル」「モヤモヤ」「あれこれ」「なんだかんだ」

これらは患者が「いっぱい悩んでいる」ことを伝えるために用いることの多い表現だが、診察室ではそれらを具体的な言葉にしてもらうよう促す。また、日記などを通じて日常でもそういう訓練をしてもらう。(※)

このように、精神科診療やカウンセリングにおける日記は「自分の思考を言葉にするため」である。決して、主治医やカウンセラーを喜ばせるためではない。だから「一生懸命書いたのにサラッとしか読まれなかった」という愚痴がこぼれるうちは、日記の役割が正しく認識されていない。

ただし、そうやって「愚痴を言語化できた」ことはすごく良いことである。日記に目を通す主治医やカウンセラーの様子を見て「イヤーな気持ち」になるだけでなく、「何がイヤー」だったのかを言葉にしてみる。「なんとなくイヤー」で済ませない。

そうこうするうちに、「ゴチャゴチャ」「グルグル」「モヤモヤ」「あれこれ」「なんだかんだ」と、大雑把で適当で安易に表現してきた「頭の中の悩みごと」を、もう少し具体的な言葉にできるようになるかもしれない。そうして、
「自分はこれで悩んでいたのか」
という気づきにつながれば良い。

例えるなら、「ゴチャゴチャ」「グルグル」「モヤモヤ」「あれこれ」「なんだかんだ」という「頭の中の悩みごと」は、夜道を独りで歩いているときの暗がりや正体不明の音みたいなものである。ライトを当てたり音の正体を確かめたりするだけで、「なぁんだ」と楽になることも多い。

自分の診療で患者に日記を勧めたことは数回しかない。そして、実際に書いてきた人は一人もいない。精神科やカウンセリングに対して、ファストフード的でお手軽な癒しを求めている人には不向きな方法ではあるだろう。精神科やカウンセリングでは、敢えて今風に言えば、「鉄腕ダッシュのTOKIOみたいに基礎からコツコツやる」と思ってもらうほうが良い。

ここまで、頭の中の「ゴチャゴチャ」を言葉にすることの効用を書いてきた。診療における日記については、俺自身が効用をきちんと伝え切れていなかったことも大いに反省すべきところである。こうやって書いている自分自身が、このように文章にしたことで、日記の効用をもう少しうまく患者に伝えられるようになったのではないか、という気になっている。


※この点においては、ツイッターやブログでわりと具体的なグチを書いている人は、悩みかたとしてかなり洗練されていると思う。みなさん、文章化しましょう。

2017年11月16日

バランスのとれたSFを書く小川一水による短編集 『妙なる技の乙女たち』

学生時代、ケーブルテレビで放送されていた『スタートレック』を欠かさず観ていた。ある日、友人に勧めたところ、「子どもだましのSFはちょっと……」という反応だったので、その魅力を伝えるために熱弁をふるった。ところが実は、俺自身も初めてスタートレックを観るまでは、この友人と同じように考えていて、まったく興味を持っていなかったのだ。ある日たまたま観てみると、登場人物が魅力的で、毎回のテーマもしっかりしており、単なる宇宙冒険ドラマではないことに気づいてしまった。

SF小説も同じで、単なる空想科学小説を面白いとは思えない。あくまでも空想科学を舞台にして、人間を描きながらテーマを提示するようなものであって欲しいし、もちろん読みやすさも大切だ。

そして、舞台設定の上手さ、人物描写の巧みさ、読みやすさが三拍子そろっているのが小川一水。俺と同じ1975年生まれということもあって、密かに応援している作家でもある。

小川一水を初めて読んだのは『老ヴォールの惑星』という短編集だったが、その中の一つ『漂った男』には鳥肌がたった。SF食わず嫌いの人には、何はともあれこの短編だけでも良いから読んでみて欲しい。こんなんアリかよ、という面白さである。


さて本書であるが、全8話が収められている。舞台は今より少し未来で、宇宙エレベーターが完成した時代。それぞれタイトル通り若い女性が主人公だ。第一話『天上のデザイナー』がやや軽いタッチの話だったので、読み終えるかどうか悩んだ。というのも、俺のイチオシSF作家ではあるが、すべてを手放し大絶賛というわけではなく、過去に読んだラノベで途中リタイアしたこともあるからだ。

幸いにも第2話からは雰囲気が少し変わって、結果としては全部読んで「面白かった!」と言えるものであった。

2017年11月15日

初診時に労う

うつ病でも、統合失調症でも、その他の病気でも、初診時に本人や家族を労う。

「ここまでよく独りで耐えましたね」
「皆さんの支えがなかったら、きっと今より大変だったでしょう」

数秒で済む簡単な一言が、数十年に渡る治療を決定づけることもある。

その逆に……。

「なんでこんなになるまで放っといたの!?」
なんて無神経な言葉を投げつける医師も、残念ながらいる。

言われた家族はショックだし、「こんな」と言われてしまった患者は辛い。

こういうトラブルメーカーが、フリー医師として全国の病院を巡っている。当院にも過去にいて、それ以来、フリーの精神科医を非常に警戒している。

2017年11月14日

『リスカ』『OD』という言葉

診察室に来た女子中学生から、「リスカ」「OD」という言葉を聞いた時にはビックリした。その時に、こういう、ともすれば手軽でファッショナブルな響きさえある言葉が広まるのは危険だなと感じた。彼女にどこでそういう言葉を知ったのかと尋ねたら、「ネットで」ということだった。

こうした中高生にとってのネットは、パソコンではなくスマホである。夜遅くまでベッドの中でスマホをいじっているのだ。当然、不眠につながるし、朝どうしても起きられない。これが不登校のキッカケにもなる。

これらはネットの功罪のうち、罪にあたるだろう。

2017年11月13日

それでも飲むなら飲めば良い! 『酔うと化け物になる父がつらい』


本当に良い本だった。

この本に出てくる「父」は、いわゆる「酒乱」ではない。いつも飲み仲間と楽しく飲んでいる。だから酒席に誘われることも多い。家族への暴言や暴力もない。中小企業の社長として、それなりにきちんと仕事もしている。外から見れば、「酒飲みの良いオヤジ」である。

しかし、それでも。

酒が、家族を苦しめている。

「自分は楽しく飲んでいるから大丈夫」
「たまに二日酔いになるけど、仕事に支障はないからOK」
「酔っても家族に暴言暴力を向けることはない」
「つまり自分は愉快な酒飲みなのだ」
と思っている人でも、一度はこの本を読んでみて欲しい。きっと少しだけ酒に対する見方が変わるはず。

そのうえで、好きで飲む人は飲み続けたら良い。

俺はこの酒飲み世界から「イチ抜けたー!」である。

2017年11月10日

病院の待ち時間を改善、あるいはクレームを減らす方法

ホリエモンこと堀江貴文氏が病院の予約と待ち時間について文句を言っていた。


ごもっともな意見ではあるのだが、医師の立場から現状を説明しておきたい。

まず、この問題の根本的な解決策はずっと以前から存在している。
「予約枠を少なくし、どんな状況にも融通をきかさない」
これ一発で即解決だ。ただし、そうすると患者が予約をとる段階で「予約が一杯」と断られることが激増するだろう。また、午前中しか病院に来れない人にも、「午前はどこも空いていません。16時半なら大丈夫です」という対応をせざるを得なくなる。そのかわり、皆さんが大嫌いな「待ち時間」はほとんどなくなる。

例えばうちの外来は、当初30分で5人枠だった。しかし、それでは入りきらないので30分8人枠になってしまった。朝一からギュウギュウ詰めである。30分で8人みるのは不可能なので、少しずつ時間がおしていく。後の患者の待ち時間は延びていく。そして次回の予約をとる時に、
「(朝一の)9時半はもう一杯だから、10時で良いですか?」
と頼んでみるが、
「いや、9時半で」
そうピシャリと言われてしまうことが多い。押し問答している時間が勿体ないので、8人枠に9人目を入れることになる。

医療側としては、「融通をきかせて、そのかわり待ち時間が長くなる」か、「待ち時間を減らすために、徹底的に融通をきかさない」か、正直どちらでも良いのである。なぜなら、どちらにしても、「待ち時間が長い!」と怒られるか、「少しくらい融通をきかせても良いじゃないか!」とキレられるか、そういうクレームの来るのが目に見えているからだ。

少し考えを発展させてみる。制度上の問題はさておいて、長い待ち時間の解決策として、「順番を一人ぶん繰り上げるのに1000円負担する」というのを考えた。その1000円は、繰り下げられた人の診療費から差し引くのだ。30分早くみてほしければ、5~10人くらいを飛ばすだろうから5000円から1万円が必要だ。

こうすれば、医療者はクレームが減り、長く待つのが嫌な金持ちはいくらか払って時間を買えるし、待てる人は自分の時間を1000円に換金できる。皆が少しずつハッピーになれる。これには、「朝一で並んで次々と後ろの人を抜かせて稼ぐ人が出るのでは?」という反論もあるだろうが、よく考えてみて欲しい。朝一に並んだら、ほとんど待たずに診察に入るので稼ぎようがない。お金を出して追い抜くほうも、3人待ちくらいなら我慢するだろう。逆に30人待ちを3万円払ってすっ飛ばすような人も稀だろう。そしてこの1000円は払い戻し制ではなく、あくまでも「診療代から引く」だけなので、早く並んだからといって、その人が儲けるわけではない。もちろん、病院の利益も変わらない。

こんなシステムを作ったところで、利用する人はほとんどいないかもしれない。しかし、それでも良い。要は、待たされる人に「状況を自分で選択させる」ことが重要なのだ。「金を払って早くみてもらう」という選択肢があるにも関わらず、「金を払わずに待つ」ことを選んだ。この感覚があるだけで、待ち時間に対するクレームは大幅に減るだろう。病院側としても、もしクレームがあっても「こういう選択肢がありますよ」と提示すれば済むので助かる。

このあたりの考えは、渋滞を研究した下記の本に大きく影響を受けている。

この本で述べられていたことで参考にしたのは、「都市部の渋滞をどう解消するか」について。都市部で渋滞している車の多くは駐車場を探してグルグル回っているらしい。駐車場は安値合戦となっているが、渋滞緩和のためには駐車場代を大幅に上げるよう提案している。そうすると車が減って渋滞は解消され、バスなどの公共交通機関の利用者が増え、利用者が増えると運賃やルートなどの利便性が改善されるのだ。

なんにしろ、堀江さん、良い思考ネタをありがとう。

<関連>
あなたの集中力と注意力が試される! 白いチームのパスをカウントせよ!! 『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?』

<参考>
なんかいい具合に病院の待ち時間ネタが炎上しておるな。

2017年11月9日

あなたの集中力と注意力が試される! 白いチームのパスをカウントせよ!! 『となりの車線はなぜスイスイ進むのか?』

まずはこの動画を見て、30秒足らずの間に白いチームが何回パスをするか正確に数をカウントしてみて欲しい。さて、一回目で正解に辿りつけるかどうか、あなたの集中力と注意力が試される。




これはバスケットボールとゴリラを使った面白い実験だ。被検者に、白いユニフォームと黒いユニフォームを着たチームのバスケットの試合を見せ、パスの回数を数えてもらう。そして試合後、こう質問される。
「何か変なものを見なかったかい?」
ほとんどの被検者は気づかないが、実はコートの中でゴリラの着ぐるみが動き回っていたのだ。

この実験からも分かるように、人間の認知力には、集中すればするほどこういう落とし穴があるのだ。(似たようなことを、明るすぎる懐中電灯は周囲を暗く見せるでも書いているので参照)

ちなみに、この動画の実験で、
「黒いチームのパスを数えてください」
と指示すると、ゴリラの発見率が上がるということも分かっている。なんとも興味深いと感じるのは俺だけじゃなかろう。

そして、種明かしをされた後に動画を見直すと、いくらパスに集中しようとしてもゴリラが目に入ってしまう。つくづく人間の認知力の奇妙さには驚かされる。


時々、高速道路で事故車から降りて歩いていた人が車にはねられるというニュースを見聞きする。上記ゴリラの実験のように、道路と標識と他の車に集中しすぎると、通常はいるはずのない「歩行者」を認知できなくなる。だから、こういう事故が跡を絶たないのだろう。

本書はユーモラスで「あるある」的なタイトルとは裏腹に、内容は交通に関していろいろな面から考察してある。『影響力の武器』などの本で、経済学と心理学をミックスして『行動経済学』としたように、本書は『行動交通学』といった趣きがある。

それぞれの章ごとのタイトルが秀逸なので掲載しておく。

・私はなぜ高速上の工事区間でぎりぎりまで車線合流しなくなったのか
・どうしてとなりの車線の方がいつも速そうに見えるのか?
・あなたが自分で思っているほど良いドライバーではない理由
・どうしてアリの群れは渋滞しないのか(そして人間はするのか)?
・どうして女性は男性より渋滞を引き起こしやすいのか?
・どうして道路を作れば作るほど交通量が増えるのか?
・危険な道のほうがかえって安全?

翻訳がちょっとぎこちないところがあるし、時どき退屈になってしまう部分もあったが、それなりには楽しめた。そして運転することがちょっとだけ怖くなる、そんな本。

ただ、再読することはないだろうし、家族に勧めるわけでもないので図書館寄贈。

2017年11月8日

統合失調症の患者は何を言っているか分からないから難しい?

先日、内科医である院長が酒席で、
「統合失調症の患者さんは何を言っているか分からないことがあるから、精神科ってのは難しいなと思うよ」
と言っていた。これは院長なりの精神科医に対する労いの言葉であり、精神科患者に対する他意はないはずだ。ただ聞いていて、「うーん、そうじゃないよなぁ」と思った。

幻聴や妄想について語り続ける患者は、恐らく世間で思われているほどには多くない。医学生や研修医を外来に同席させて診察を済ませ、さっきの人は統合失調症だよと教えると、
「え!? あの人も!? すごく普通だと思いました……。教科書でつかんだイメージと全然違いますね……」
という反応が多い。自分が医学生・研修医だったときも同様の感想を抱いたものだ。

連合弛緩や支離滅裂といったところまで状態が進むと、言っている意味はほとんど分からなくなる。だが、彼らがなんだか困っているということは伝わってくる。考えてみたら内科でも、口に出して「頭が痛い」と言う人から、脳卒中で意識消失している人まで幅がある。それでも内科医にとっては「今やるべきこと」「今やってはいけないこと」というのが見えている。精神科も同じだ。幻聴や妄想が激しかろうが、連合弛緩や支離滅裂に陥っていようが、やるべきこと、やるべきでないことは、おおよそ分かるものである。

2017年11月7日

沖縄の小島を舞台に、のんびり楽しく生きる19歳と86歳の女性二人を描くファンタジー 『バガージマヌパヌス わが島のはなし』


主人公は19歳の綾乃、そして彼女の親友であるオージャーガンマー。オージャーガンマーとは、大謝(おおじゃ)家の次女、という意味らしい。

生まれつき霊能力があり、神さまにユタとして見込まれてしまう綾乃。若いころにユタになるようお告げを受けたのに、それを断ったオージャーガンマー。そんな二人の、のんびりした怠け者生活が読んでいて心地良い。

文章は神視点。俺は神視点が苦手だが、本書には神視点が似合っているし、また、この世界観を描写するには神視点がどうしても必要だったのかもしれない。第6回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しており、Amazonレビューも非常に高いのだが、正直「うーん、そこまでかなぁ……?」という感じ。

2017年11月6日

浅田次郎が1970年代の若手自衛隊員を描く短編集 『歩兵の本領』


1970年代の自衛隊に「入ってしまった」若者たちを主人公にした短編集。それぞれの物語は独立したものだが、登場人物たちはゆるやかにつながっている。

本書の中では、新米隊員は先輩から当たり前のように殴られ、蹴られる。現在の自衛隊で同じような体罰をやっているとはとうてい思えず、想像もできない話だが、きっとそういう時代もあったのだろう。

浅田次郎は文章やストーリー運びが非常に巧みなので、時に読者を感動させようとする「あざとさ」すら感じてしまうことがある。本書では、そういうあざとさがあまりなく、わりとスッキリしていて良かった。

2017年11月3日

努力の結果は「成功」だけか?

精神科医として考える「うまく生きるコツ」というか秘訣というか、そういうものがいくつかある。その中の一つが、
「自分にできないことは、素直にできないと認めてしまう」
精神科の診察室にやってくる人の中には、これがなかなかできない人が多い。

能力は、残念ながら万人に公平に割り当てられてはいない。得意不得意は誰にでもあるし、自分の中で一番得意なものが、全体から見れば平均以下ということだってある。残酷ではあるが、どんなに努力しても実らない、それも運不運の問題ではなく、もともとの器が足りないということが確かにある。

しかし、努力は決して無駄にはならない。「努力した」ということ自体が、何らかの形でその人のその後の人生を支えるからだ。

努力の結果を「成功」だけに限るなら、努力した人のうち一握りの人しか報われないことになる。いっぽう、「成長」にも価値を感じられる人にとっては、報われない努力なんてほとんどない。

そしてまた、時には「努力」を放棄する生き方も、アリだと思う。

2017年11月2日

入院親和性、外来親和性

精神科の患者には、入院親和性、外来親和性というものがあるような気がする。これらは片方が高ければ、もう片方が低いというような関係ではなく、両方とも高い人もいれば、逆にどちらも低いという人もいる。

ある患者は、入院している間は文句一つなく淡々と生活するのだが、退院するとプッツリと消息が途絶えてしまう。そして病院外でトラブルを起こしては保護され入院、ということを繰り返していた。こういう人は、入院親和性が高く、外来親和性が低い。

別の患者は、入院すると他患者に因縁を吹っかけたり、医師や看護師に脅しをかけたり手に負えず、結局、本人の執拗な退院希望に家族が折れて退院。これでもう病院に来なくなったかというとそうでもなく、外来を欠かすことがない。こういう人は、入院親和性が著しく低くて、逆に外来親和性が異常に高い。

これが実際の治療に役立つ考えかたかというと特にそういうわけでもなく、ただそういう親和性というものがありそうだなと思った話である。

2017年11月1日

あのダーウィンが主人公のミステリ! 『はじまりの島』


映画化もされた小説『ジョーカー・ゲーム』の著者・柳広司によるミステリ。主人公は『種の起源』で有名なダーウィン、舞台はガラパゴス。

柳広司は他にも歴史上の人物を主人公にしたミステリを書いている。前回読んだのはロスアラモスでの原子爆弾開発をテーマにした『新世界』で、これは原爆を落とされた街の描写が生々しく、反戦小説として後世に伝えていきたい名著だった。

さて本書であるが、ダーウィンが主人公なだけあって(?)、テーマは「人間とはなにか」といったところ。とはいえ、あくまでもエンタテイメント小説であり、決して哲学書ではないので、そこまで深刻なものではない。重いテーマをうまく盛り込んだミステリ、という感じだ。

完全にエンタテイメントに徹している『ジョーカー・ゲーム』シリーズに比べて、この邸プのミステリには、どうやら柱となるテーマがあるようだ。他の本も読んでみようと思う。

2017年10月31日

キャスティングや雰囲気はサム・ライミ版のほうが好きだが、チャラい感じのスパイダーマンもそれはそれで良い感じ 『アメイジング・スパイダーマン』


サム・ライミ監督の『スパイダーマン』に比べると、ちょっと軽薄な感じでよく喋るスパイダーマンだが、こちらのほうが原作に近いらしい。確かにDlifeで放送されているアニメのスパイダーマンもペラペラとよく喋る。本作で気になったのは、スパイダーマンのときと素顔のときとでキャラがだいぶ違うこと。素顔ではそうたくさん喋らないハニカミ屋で、決して明るい性格というわけでもないのに、スパイダーマンになると身振り手振りをまじえた饒舌家。これも原作でこういう設定なのかな? マスクをかぶると大胆になる、というのは人として決して変なことではないので、これが設定であればナルホドという感じ。

細かいツッコミどころは多々あったが、そこはアメコミ映画なので目をつむろう。しかし、ラストは……。

ヒロインであるグウェンの父・ジョージが死の間際、パーカーに対して切実に「娘にはもう近づかないでくれ」と頼んで約束したのに、最後の最後で「守れない約束もある(ニヤリ)」なんて軽くナシにしてしまう。おいおいおいおい……。

でも、この結末、一緒に観た妻は「わたしは好き」と言っていたし、感覚の違いがあるのかなぁ。特に俺は、ジョージ目線というか、可愛い娘を危険から守りたい父親の気持ちが痛いほど分かるだけに……。愛する娘のパートナーとして、俺こんな男イヤだ……。

こういう難点はあったものの、スパイダーマンの動きや映像はかなり良かった。クモの糸で飛び回るシーンは、サム・ライミ版も含めて、気持ち良いの一言に尽きる。

2017年10月30日

戦時の軍医たちを描いた大作かつ名作 軍医たちの黙示録『蠅の帝国』『蛍の航跡』 


第二次大戦中に軍医として生きた人たち、つまり医師としての大先輩を描いた短編小説集。短編小説とはいえ、それぞれけっこうな分量があり、二冊含めるとかなりの大作だった。

戦時中の話なので、暗いストーリーや陰惨な描写はもちろんある。ただ、短編の中には、コミカルな展開、ユーモラスなエピソード、目頭が熱くなるような人間模様を描いたものも含まれている。

いずれも、著者が膨大な資料を読み込んで小説化したものである。当時の先輩、先生たちが、どのような医療をされていたのかを知るうえでも、大変勉強になった。

医師なら一生のうち一度は読んでおくべき本だろう。

2017年10月27日

パーキンソン病、ひとまずこれ一冊! 『パーキンソン病の診かた、治療の進めかた』


精神科医でありながら、祖母のパーキンソン病を見逃してしまった。

農業で鍛えた身体をもち、気も張っていた彼女が、少し前から「調子が悪い」「声も出ない」といったことを言うようになっていた。電話で話しながら、
「心配ない、声は充分に聞こえているよ。歳をとっているんだから、若いころみたいにはいかないものさ」
そういうふうに慰めていた。

一年ほど前のある日、糖尿病でかかりつけの病院に行ったところ主治医が不在で、たまたま代診したのが神経内科の医師だった。そして入室した祖母を見るなり、
「あなた、パーキンソン病がありますよ」
そう言ったのだという。そして抗パーキンソン病薬の内服が始まった。治療効果はてきめんで、翌日には「歩きやすくなった」「声が出るようになった」と喜んでいた。

このエピソードは大きなショックだった。精神科と神経内科は別物だが、遠い親戚くらいには思っていた神経内科医の「目」に、改めて畏敬の念を抱いた。そして、精神科医でありながら身近な祖母のパーキンソン病を見逃すだけに留まらず、「歳のせい」と言って慰めていたとは……、深く反省と後悔。

その後悔があるので、パーキンソン病を「診断して治療ができるように」とまではいかないまでも、もしかしたらと疑うことができて、神経内科受診を勧めて、治療につなげられるような精神科医になりたいと思った。これまでに、患者で一人、付き添い家族で一人、パーキンソン病の疑いがあることを指摘して治療にもっていくことができた。

さらに知識を得るべく、パーキンソン病についての良い本を探していて本書に目がとまった。内容は臨床編と基礎編に分かれており、特に臨床編は具体的・実践的であった。文献を明示した「根拠ある治療」だけでなく、著者の想いや配慮なども書いてあったのが良かった。たとえば、
「ご主人が患者さんの場合、奥様に色々症状のことを言われるのが嫌」
という項目で、「また背中が曲がっているわよ」「またよだれがおちるわよ」などの言葉が辛いものであることを指摘している。同じく女性が患者の場合には、夫に対して家事をそれとなく手伝ってあげるよう促すなど。こういう著者の「臨床哲学」に触れられる本は、勉強になるだけでなく面白いから大好きだ。

後半の基礎編のほうは、ちょっと専門に入りすぎていて流し読みになってしまったが、非専門医なら、パーキンソン病の診断・治療については、ひとまずこれ一冊でOK!


ところで、本書を読んで知ったのだが、農薬への長期暴露はパーキンソン病のリスク因子なのである。若いころから農婦として生きてきた祖母が発症するのもむべなるかな、である。

2017年10月26日

刑事たちの寡黙で粘り強い生きかたに圧倒される 『警視庁捜査一課殺人班』


こういう本を高校時代や経済学部のときに読まなくて良かった。きっとかなり影響されて、「刑事になる!」なんて言い出したかんじゃなかろうか。どう考えても俺には向いていないけれど……。

警視庁、つまり東京の「県警」にある捜査一課殺人班を丁寧に取材したノンフィクション。いくつかの殺人事件が発生して解決されるまでの経緯を描きながら、組織の構造、刑事たちの仕事ぶり、内面にまで踏み込んだ良書。

2017年10月25日

不眠の改善ポイントを一つに絞ると……

不眠治療では、薬を処方する前に患者がやるべきことがいくつかある。ただ、初診でそれらすべてを伝えても患者は覚えきれない。そこで、生活習慣の改善を3大鉄則として患者に勧めてきた。

1.毎朝、土日や休日も含めて決められた時間に起きる。
これは、前夜に寝つけずに夜更かししても、あるいは徹夜をしても関係なく、とにかく朝は決められた時間に起きる、ということ。

2.昼寝をしない。
「夜眠れなかったから昼寝しよう」はダメ。昼寝をするから夜眠れなくなる。だいたい、昼寝で1時間とか2時間とか、ひどい場合だと3時間以上とか、それだけ寝たら、夜は眠れなくて当然である。

3.眠れないからとベッドの中でウダウダせず、30分眠れなかったら布団から出る。
携帯でネットしたり、本を読んだり、テレビを観たりせず、眠れないなら布団から出て眠くなるまで何かして過ごす。


診察室では、夜眠れない、昼寝もできないという不眠症の人は意外に少ない。たいがいの不眠は「昼夜逆転」で、本人もうっすらそれに気づいている。そして、その眠れなさを薬でてっとり早く治そうと考えて精神科に来る。そんな生活習慣の乱れた人が、いきなりこの3つを言われても実践できそうにない。

そこで、最近はどれか一つ、やれそうだと思うものを選んでもらう形式にトライしている。それでも、なかなか期待通りにうまくはいかないけれど……。

2017年10月23日

原作ほど独善的ではないが、勧善懲悪的な描写が残念 映画『アメリカン・スナイパー』


クリス・カイル本人の自伝を原作にした映画。自伝では「悪者をやっつける」という独善っぷりが目立ち、まったく非のない市民を傷つけたことに対する反省の弁も一切ないものだったが、映画のほうではその独善ぶりはかなり薄められていた。

この映画を戦争賛美と責める意見もあるようだが、それはあまり感じなかった。むしろ、クリスの弟が軍隊に嫌気がさしたと吐き捨てるシーンもあるくらいで、決して戦争を煽ったり美化したりはしていないほうだろう。ただ、独善性は薄められているものの、「悪者をやっつける」という典型的で残念な構図が用いられていたのは確かである。

その最たるものが、非常に優秀な敵スナイパーの存在だ。映画の中では、彼にも家族がいて、オリンピックの射撃選手だったことを示す写真が出るなど、彼が「ただの敵スナイパー」ではなく「ムスタファという個人」であることが一応の申し訳程度に描かれてはいた。とはいえ、思い出す限り、彼は一度も言葉を発さず、家族とのやり取りも描かれていなかった。観客がムスタファに感情移入する要素は、ほとんどないと言って良い。

いっぽう、クリスのほうは少年時代から私生活がふんだんに描かれ、父との関係、弟との仲、妻との出会いや愛や葛藤、同僚兵士との友情など、感情移入できる部分が多々ある。クリスの自伝が原作なのだから、それは当然のことではある。

しかし、考えてみて欲しい。シリアの代表選手だったムスタファが、なぜイラクで人を撃つスナイパーなんてやっているのか。きっとムスタファにも「彼のみが語ることができる自伝、物語」があったはずなのだ。

さらに言えば、原作にムスタファと交戦したという記述はない。ムスタファという元オリンピック選手の一流スナイパーがいて、それを米軍の誰かが倒したということが書いてあるだけだ。そのムスタファを、映画ではわざわざ特別な敵役として登場させ、何人もの米兵を無慈悲に殺させ、そして最後にクリスに見事な退治を遂げさせる。

なんだこれ……。

この映画は「戦争賛美」でこそないものの、そして原作ほど独善的ではないものの、やはり一方的な「勧善懲悪」映画ではある。ムスタファさえ出さなければ、あるいは、ムスタファをもう少し丁寧に描いていれば、この映画は「互いに家族と守るべき信念のある者同士が殺し合う戦争の悲惨さと虚しさ」をうまく訴えられたのではなかろうか。そして、ムスタファをはじめとしたイラク兵士たちを軽視した本作がそれなりの評価を受けるところが、いかにも無邪気な保安官アメリカ、まさに監督イーストウッドが主人公を演じた『ダーティ・ハリー』の国という感じである。


<関連>
「イラク人のために戦ったことなど一度もない。あいつらのことなど、くそくらえだ」 政治的に大義名分を与えられて他国に乗り込む優秀な兵士は、これくらい独善的な単純バカでなければいけないということか…… 『アメリカン・スナイパー』

2017年10月19日

『暴れる精神障害患者に鎮静剤投与は違法』 まず警察へ!!

『家族が突然に興奮して暴れ出したら、救急車よりも先に警察へ通報をするべきだ』にも書いた通りであるが、下記事例の場合、相手が刃物を持っていたわけで、その状況で医師に診察を依頼する感覚のほうがおかしい。また、そんな依頼を受けて、のこのこと往診に出向いた医師にも責任はあるだろう。
『暴れる精神障害患者に鎮静剤投与は違法』
「問診が不足」「注射なしでも搬送できた」と医師敗訴

暴れていて会話が成り立たない精神障害患者に対し、医師は病院に送るために押さえ付けて精神安定剤を投与しました。裁判所は、注射をせずとも搬送できたとして、医師の注射を違法であると認定しました。

<事件の概要>
1998年2月、町議会の議員であった男性Aは、町長に対して、52歳の妻から暴力をふるわれたことを話した。町長は、以前にも腹部を刺されたなどの話を聞いていたことから、町の「しあわせ課」に相談したらどうかと助言した。
Aは町役場を訪れ、町職員3人に対し、妻が暴力をふるって自分の身が危ない旨を相談し、妻を医師に診察してもらうことにした。Aは職員に同行してもらい病院医師の聴取を受けたが、病院医師は「妻本人を診察しないと最終的な判断はできない」として、往診可能なB精神科開業医を紹介した。
なお、病院の求めに応じて町職員が作成した書面には、妻の行動について(1)妻は長男出産後あたりから異常と思える言動が目立ち始めた(2)8年前、妻は上半身裸でいきなりカセットテープの束でAを殴りつけた(3)Aが家に入ろうとすると妻は刃物を持って暴れる(4)妻は暴力団員に「Aを殺してほしい」と依頼した(5)妻は三角関係のもつれから関係者と公道でカーチェイスを演じた――ことなどが書かれていた。
Aは長男とともにB医師の医院を訪れ、妻がAを包丁で刺したことや、物を投げたりしたこと、カーチェイスを演じたことなどを話し、妻を入院させたいとの希望を伝えたが、B医師は「妻を直接診察しないと入院の必要性を判断できない」旨答えた。
同日夜、Aは町長宅に「妻が刃物を振り回し、とても家の中に入れない。自分の身が危ない」と言ってやって来た。町長は町職員を介してB医師に「早く往診してほしい」旨を伝えた。そのため、Bは翌日の16時ころに往診することを決めた。翌日16時ころ、Bは移送先の病院の医師に「今から注射をして連れて行く」旨伝えた。病院の医師は「診察に支障があるから注射をせずに連れて来てほしい」旨を話したが、Bは「刃物を持っているからとても無理」などと答えた。
AはBと長男、町職員3人とともに自宅へ向かった。Aは長男と一緒に妻に対して医師の診察を受けるよう話したところ、妻がAの顔を叩いたため、Aは「何するんや」と叫び、長男と協力して妻を押さえ付けた。騒ぎを聞いてB医師と町職員3人が家の中に入ると、妻はソファ上に押さえ付けられていた。
Bは妻に医師である旨を話して問診しようとしたが、妻は興奮しており、会話が成り立つ状態ではなかった。AはBに対して妻を落ち着かせてほしいと依頼したため、Bは町職員3人に妻の体を押さえるよう指示し、イソミタール、レボトミンおよびピレチアを注射した。
注射後おとなしくなった妻は病院に搬送され、病院医師の診察を受けた。診察の結果、妻は心因反応と診断されて、Aの同意のもと医療保護入院することになった。
これに対して妻は、精神安定剤を注射して無理やり病院に連行したことは違法だとして、2003年4月、町とB医師を相手取り、1100万円の損害賠償を求めて提訴した。

<判決>
裁判所は、市(町村合併後の自治体)とB医師に対し、連帯して110万円の損害賠償を支払うよう命じた。
裁判所は、精神障害患者の病院搬送に関し、「本人を移送するために、保護者となるべき者の同意のもとで、本人の行動を制限する措置を取ることも、その方法が社会通念上相当と認められ、かつ必要最小限のものである限り許されるというべきである」との一般的基準を示した上で、「精神安定剤の投与については、(中略)身体の拘束などのほかに適切な方法がない場合に限られると解するのが相当である」との見解を示した。
その上で、「原告を診察するためには、まず、Aおよび長男と妻を引き離し、妻の興奮が静まるか否かを見極めながら、十分に問診を尽くすことが必要というべきである。それにもかかわらずB医師は、問診を試みて会話が成り立たないことを確認すると、間もなく妻に本件注射をしており、(中略)十分に問診を尽くしたとは言いがたい」と認定。そして、「Bは、妻が現にAに暴力をふるったり、刃物を振り回したりしている状況を見ておらず、ほかに、問診時において妻に自傷他害の恐れが顕著であるなど、直ちに精神安定剤を注射して妻の興奮を静める必要があったことを示す具体的な事情もうかがわれない」「いかに妻が興奮状態であったとしても、その場には成人男性6人がいたのであるから、精神安定剤を注射しなくても自傷他害の事態を防止し、妻を安全に病院に移送することは可能であったというべきである」などとした。
そして、妻に自傷他害の恐れがあるなど緊急に入院させる必要性は認められず、精神安定剤の注射も社会通念上相当とは認められないとして、注射は違法であるとの判決を下した(京都地裁06年11月22日判決)。

<解説>
暴れていて会話が成り立たない精神障害患者に対し、病院に送るために押さえ付けて精神安定剤を投与することは許されるのか。このケースでは、違法であると判断されました。
医療保護入院とは、治療や保護のために入院を要すると精神保健指定医によって診断された場合、保護者の同意により、本人の同意がなくても精神科病院に入院させることができる制度です。1998年当時、指定医の診察を受けさせるための移送手続についての規定は存在しませんでした。
移送には原則として患者本人の同意が必要となりますが、裁判所は、保護者となるべき者の同意がある場合は本人の同意がなくても精神科病院に移送することは可能、との見解を示しています。この見解は、患者が適切な医療を受けられるようにするという精神保健福祉法の趣旨からしても、正しい判断でしょう。
では、移送のために精神安定剤を投与するのはどうかといえば、今回の注射に対しては「社会通念上相当と認められず、かつ移送の目的を達するのに必要最小限のものとはいえない」と判断しました。
裁判所が重視したのは、(1)精神障害か否か確認するための問診ができていないこと(2)患者が女性で、現場に6人の成人男性がいたことから、精神安定剤以外の方法による抑制措置も可能であったこと(3)自傷他害の恐れが顕著とはいえないこと(4)移送先病院の医師が精神安定剤の投与に消極的な見解を示していたこと――などのようです。
確かに、押さえ付けた時点で興奮が認められただけでは精神障害があるという判断をすることはできません。しかし、医師であることを告げても興奮状態で会話が成り立たない状況であったことからすると、「患者と家族を引き離し、興奮が静まるか否かを見極めて十分に問診を尽くさなければならない」との裁判所の判断は、少し形式的すぎて、現場での緊急性をあまり考慮していないように思えます。また、興奮状態にある患者を無理に押さえ付けたまま移送することは、かえって患者の安全を害することにもなりかねないでしょう。
医療保護入院について、患者の同意を欠く場合の移送手続が定められていないことも、裁判所の判断に影響を及ぼした可能性は否定できませんが、この裁判所の判断は、やや精神科医師に酷な印象を受けます。

【執筆】蒔田覚=弁護士(仁邦法律事務所)
http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/series/dispute/201209/526539.html

2017年10月18日

教科書ではない、ヒント集だ! 『森を見る力 インターネット以後の社会を生きる』


『ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ』でファンになった橘川幸夫による、ネット時代を生きる人たちに向けた「ヒント集」。これを決して教科書だと思ってはいけない。時代は常に変わっていき、本書の内容もすぐに時代遅れになる。ただ、ヒントとして考えたことや身につけたことは、きっとこれから先を生きる糧になる。

橘川氏はツイッター(@metakit)ブログでも情報発信されているので、気になる人はチェック。

2017年10月17日

鵜呑みにせず、飲み会ネタくらいに考えておきましょう! 『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』


脳科学者が雑誌に連載したエッセイをまとめたもので、それぞれのエッセイに追記を加筆してある。面白くはあるのだが、全体的には眉をツバで濡らしまくって読んだほうが良いような部分もある。

単行本初版が2006年。10年以上前なのだから情報が古くても仕方ない、というわけでもない。たとえば睡眠について「人の体内時計は25時間周期」という記述があるが、1999年にハーバード大学で厳密に行なわれた研究では24時間11分という結果で、日本での追試でも24時間10分だった(『8時間睡眠のウソ』より)。本書を読む人は「出版される7年前の研究さえスルーされている箇所がある」ということは認識しておくべきだろう。

そういうわけで、決して鵜呑みにせず、合コンでウンチク披露するくらいに留めておくほうが良い。

2017年10月16日

東日本大震災で人知れず活躍した人たちを讃えつつ、民主党を無能集団として徹底的にこき下ろす佐々節全開の本 『佐々淳行の危機の心得 名もなき英雄たちの実話物語』


「危機の心得」と銘打ってはあるものの、実際には「名もなき英雄たちの実話」のほうがメインである。リーダーシップ論や自己啓発系の本だと期待して読むと、ちょっと肩すかしをくうだろう。

実話を集めてはあるものの、ノンフィクションとして読むにはそれぞれの内容はあっさりしすぎていて、ぐっと引き込まれるようなものは少ない(皆無ではない)。

功労者を現場で速やかに昇進させる「フィールド・プロモーション」について知ることができたのは良かった。といっても、自分が誰かを昇進させる立場になることは絶対にないんだけれど。

佐々氏の民主党大嫌い節が全開で、無能集団として徹底的にこき下ろすのが読んでいて痛快ではあった。

2017年10月7日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (4)


全体的には治療者向けの本ではあるが、自分自身、あるいは家族・友人がBPDという人が読む価値は充分にある。

ただし、書いてある症状・性格を自分自身に当てはめて考えないように。何を隠そう、俺自身がその罠にはまりかけ、「あぁ、俺ってBPDなのかもしれない」という気持ちになったのだ。

さて、BPDの根底にあるもの、それは「安心感の欠如」である。本来であれば、0歳から5歳くらいの間に養育者から与えられるべき安心感を、身体的・性的な虐待、ネグレクト、離婚などで、充分に与えてもらえないことがある。こういう家族を、機能がうまく作動していないという意味で「機能不全家族」という。その後、小学校に入ってしばらくの間、安心感の欠如は症状として表面には出てこない。この時期を潜伏期、潜在期、あるいは「ギャング・エイジ」とも言う。同世代の同性とグループを作って遊ぶ時期で、わりと安定していることが多い。ところが、思春期に入ると、情動の不安定性が噴出する。幼児期の「安心感の欠如」のツケがまわってくるのだ。

最後に、アメリカのエール大学精神科のリッズ教授が挙げる『健康家族の三大条件』について記載しておく。

  1. 夫婦間同盟 なにがなんでも妻を守ってあげる。
  2. 世代間境界の確立 祖父母に口出しさせない。
  3. 性別役割の明確化 父は男性モデル、母は女性モデルになる。

これには、特に3番に関して異を唱えたくなる人もいるだろう。あくまでも参考程度と割り切り、知っておいて損はしないと思う。

それから2について。子どもの責任は、成長して最終的には子ども自身がとるとしても、それまでの最終責任は親が担う。その最終責任を負うことのない人(祖父母や親せき)に余計な口出しをさせない、というのが「世代間境界の確立」である。

以上、かなり少ない分量の抜粋・要約であったが、この本に関してはこれで終わり。

2017年10月6日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (3)


今回は、SET(支持、共感、真実)のどれかが欠けた場合についてである。

支持が充分に伝わっていないと、BPDの人は、
「自分を心配していない」
「自分との関わり合いを避けている」
と言って、こちらを非難する反応を示す。
「私のことなんてどうでも良いのね!!」
と彼らが責める時は、たいてい「支持」がうまく伝わっていない。

共感がうまく伝わらないと、
「あなたには私の気持ちなど分からない」
と、自分の気持ちが理解されていないという感覚を引き起こす。そして、BPDの人たちは、「分かってもらえない」という理由を掲げて、コミュニケーション拒否を正当化する。

最後に、真実がうまく伝わらない場合であるが、さらに危険な状況が生じることになる。支持と共感だけが伝わってしまった場合、BPDの人たちは、相手の容認を自分にとって最も都合の良い形で解釈する。そして、自分にかかわる責任を相手が引き受けてくれると勘違いするか、そうでなければ、自分の考え方、感じ方が全面的に受け容れられ支持されていると誤解してしまう。まっすぐ向き合う姿勢での「真実」が伝わらないと、BPDの人たちは相手にしがみつこうとする態度をいつまでも続けてしまうことになる。

今回はここまで。

2017年10月5日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (2)


BPDの人とのコミュニケーションの取り方が「SET」として紹介されている。これはセント・ルイスにある病院で開発された方法で、

支持(Support)
共感(Empathy)
真実(Truth)

の、それぞれの頭文字を取ったものである。

まず、支持について。
これは「相手を気遣っている」という個人的な気持ちを表明することである。例えば、
「あなたがどんな気持ちなのか、私はとても心配しています」
「君が苦しんでいるのを心配している。愛しているから力になりたい」
といった感じである。ここで大切なのは話し手自身の気持ちで、心から力になりたいと思っていることを伝えること。

次に、共感について。
これは、相手の混乱した気持ちを受け止める姿勢を表すことである。決して同情と混同してはいけない。なかなか難しいのだが、本書に従うと、共感の良い表現は、
「どんなにつらいことでしょう」
「君はこれまで苦しんできたんだから、もう耐えきれなくなったんだろう」
「これ以上、先へ進んでいく気力をなくしてしまったんだね」
であり、逆に悪いのは、
「かわいそうに……」
「どんなにつらいか、よく分かります」
といったもの。支持と違い、あくまでも強調されるのは相手の気持ちであり、こちらの感情ではない。共感は非常に分かりにくいが、「相手の憤りや悲しみや混乱した気持ちを言葉にしてあげる」といったところだろうか。決して、こちらの感情を言葉にすることではない。

最後に、真実について。
これは、現実と言っても良い。
「あなたに関わる最終的な責任は、あなた自身にしかとれない」
このことを明確に伝え、
「こちら側に、どれほど力になろうとする気持ちがあっても、最終的な責任は、あなた以外の誰にも肩がわりすることはできない」
ということを表明する。支持がこちら側の気持ちを、共感が相手の気持ちを、それぞれ主観的に述べるのに対して、真実では、今の問題を認識させ、解決に向けて何がなされるべきかを述べることが主体となる。ただし、非難・叱責というかたちになるのは避けなくてはならない。例えば、「だからこういうことになったんだ」や「自分のまいた種なんだから……」といった言いかたは良くない。

今回はここまで。

2017年10月4日

全体的には治療者向けだが、自分自身、あるいは家族・友人が境界性人格障害という人も読む価値は充分にある! 『境界性人格障害のすべて』から (1)


境界性人格障害を、以下、疾患名の略語であるBPDと記す。

BPDに関する詳しい説明は本書を読むか、Wikipediaでも参照してもらうとして、ここでは、この本に書いてあったことで印象深かったことを記す。

BPDの人には、完璧主義者が多いが、逆に積み上げてきたものを一気に手放す傾向もある。それは、BPDの特徴である「理想化とこき下ろし」という態度と根底は同じである。本書の例え話で分かりやすかったのは、
足を痛めた人がそうするように、BPDの人たちは足を引きずって歩くことを学ばなくてはいけません。ベッドに横たわったままの状態では、筋肉が委縮して収斂してしまいますし、逆に運動が激しすぎれば、傷ついた足をいっそう悪化させてしまいます。そのかわりに、足を引きずりながら、体重をかけすぎないように痛めた足をいたわりながら、徐々に力をつけていかなくてはいけません。BPDの治療についてもそれと同じように、力のかけ方を配慮しながら前に向かっていく姿勢が大切です。
という部分。できるところまでは徹底的にやり、それができないのなら、すべて放棄する。その極端な思考を少しずつ変えていくことこそが大切なのだ。このことは別の例え話でもしてある。
自分につける成績に、「優」か、そうでなければ「不可」の、どちらかしか選ばないのです。(中略)配られたカードでプレーするのを嫌がるBPDの人たちは、毎回パスを宣言して掛け金を失いながら、いつかはエースが四枚揃うチャンスを待っています。確実な勝利が保証されなければ、配られた手札でプレーをしようとは考えません。状況が前向きに変わり始めるのは、上手にプレーすれば勝つこともできるのだと気がついて、自分の手札を受け入れられるようになったときなのです。

今回はここまで。

2017年10月3日

オッパイとドパミンと産後うつ

姪っ子に授乳していた妹が、

「オッパイを飲ませていると、なぜか分からないけれど、哀しい気持ちが襲ってきて涙が出てくる」

と言っていて妙に納得した。これから書くことは、大脳生理学的に正しいかどうかは不明だし、また仮説というわけでもなく、ただ俺が「納得した理由」である。

いきなり変な話になるが、統合失調症の治療にはドパミンを遮断する薬を使う。そしてこの薬の副作用に「乳汁漏出」というものがあり、男性でもオッパイが出てくることがある。

さて、お母さんから乳汁が出るためには、プロラクチンというホルモンが増える必要がある。そしてドパミンは、このプロラクチンの分泌を抑えている(正確にはもう少し複雑だが省略)。だから、薬でドパミンが遮断されたら乳汁漏出が起きるわけだ。そして、赤ちゃんにオッパイをあげる授乳期には、このドパミンが減少する。

ドパミンというのはうつ病にも関係していて、喜びとか満足感とか、そういったものを司っていると言われている。もの凄く単純化して言えば、統合失調症ではドパミンが出過ぎていて、うつ病やパーキンソン病では足りなくなっている。シンプルに、ドパミンとオッパイ、ドパミンと喜びの関係を大雑把に眺めてみると、授乳期にうつ病になる「産後うつ」というものが腑に落ちた。

もう少し広げて考えれば、もしかすると進化の過程では、「授乳で快感を得る」というのは不利だったのかもしれない。なるべく早く離乳させるほうが有利な気はする。

ただし、産後に全員がうつ病になるわけではないので、上記が全例で当てはまるわけでないことは言うまでもない。そもそも最初に書いたように仮説ですらない。

以上、まったくの与太話。

2017年10月2日

セカンドオピニオン、特に医師にとってのセカンドオピニオンについて

セカンドオピニオンについて思うところがあったので書いておく。

患者から「他医にセカンドオピニオンをもらいたい」と希望された場合、「はいはい」と安易には応じない。まず現行治療への疑問や不安をしっかり確認する。

診断や治療開始の時点で患者や家族の強い納得が必要という場合は、こちらから「セカンドオピニオンをもらいに行きませんか」と勧める。

「セカンドオピニオンをもらいに行く」という行動は、患者や家族にとって金銭的にも時間的にも精神的にも大なり小なり負担であるということを、「セカンドオピニオンをもらいに行きたい」と言われた医師は認識しておかないといけない。

セカンドオピニオンをもらいに行くことが、本当にその患者や家族のためになると思えば、ためらうことなく送り出す。デメリットのほうが大きそうなら、そう考える根拠も含めて説明し、現行治療や診断についての疑問や不安を解消することに努める。

ぶっちゃけた話、「セカンドオピニオンもらいに行きたい」と言われた時、まったく何も検討せず「どうぞどうぞー」とやるほうが主治医は楽である。

しかし本当は、どうしてセカンドオピニオンを求めたくなったのか、いまの診断や治療への不安や不満は何か、セカンドオピニオンをもらいに行くことのメリットとデメリットなどを語り合うほうが有意義なのだ。ただし、主治医はとても大変。

「診断や治療に自信がないからセカンドオピニオンに行かせたくないんだろう!!」

と考える人もいるが、実際にはその逆。自信があって、
「行っても、きっとここと同じことを言われるだけ。お金と時間のムダになる」
と思っているからこそ、説明して、場合によっては引き止める。自信がない時には、むしろこちらからセカンドオピニオンを勧めるくらいだ。

セカンドオピニオンを求められる医師にしても、
「この人、こんな遠くから来たけど、いまの主治医のもとで治療継続するんだろうから、あまり極端な変更もできないよなぁ」
など考えると思う。変更したからには自分のところで引き受ける覚悟のある医師もいるにはいるけれど、医師に覚悟があることと、患者のアクセシビリティが一致するとは限らない。

たとえば、田舎の病院から都会の病院へセカンドオピニオンをもらいに行き、セカンド医師が
「今後はわたしに任せなさい」
とすべて引き受けて診断や治療を変更して通院開始したとする。しかし、急に悪くなった時に頼れるのは、交通手段や時間の関係から元々の田舎病院ということも多々ある。そして、元主治医が治療の大幅変更とその悪影響を見て仰天する、ということもある。

逆に、自分がセカンドオピニオンを求められた場合、紹介状がしっかりしていて診断・治療にも同意であれば、
「良い先生にみてもらっていると思いますよ。信じて治療を続けましょう」
と答えるだろう。

もらった紹介状がずさん、でも診断・治療には同意という場合、
「今のところは大丈夫そうです。でも、もしまた今度何か疑問や不安なことがあったら、遠慮なくご相談に来てください」
くらいに言うだろう。

セカンドオピニオンを求められて、主治医の診断・治療に同意できない場合の対応がちょっと難しい。紹介状の中身が濃い薄いにもよるが、基本的には「うちに転医するかどうか」と「緊急・急変時にはどこに行くか」を確認して、「うちに転医、急変時もうち」ということなら少しずつ方針変更することになると思う。

最後に。

医師にとって、
「セカンドオピニオンをもらいに行きたい」
と言われた場合に大切なのは、それを「現行の診断や治療に関する不安や不満を聴きとるチャンス」ととらえること。

「診療情報提供書の発行マシーン」になり下がってはいけない。

2017年9月29日

ミスや事故を防ぐことには、最先端の治療と同じ価値がある

アリセプト8mg内服している入院患者について、主治医が「アリセプト中止」と指示を出したところ、アリセプト5mgは外されたが、後発品ドネペジル3mgは続行していた、というミスがあった。

スタッフからは「アリセプトとドネペジル中止」と指示がないと分からないという苦情も出た。

さて、みなさんのご意見はどうだろう?

精神科で働いているのだから、精神科系の薬については商品名だけでなく一般名も把握しておくべきだ、という意見がある。たしかにその通りだが、そう指摘するだけでは今後のミス防止にはつながりにくい。

5mgは先発品、3mgは後発品となっている当院の在庫状況にも問題がありそうだ。おそらく先発品5mgの院内在庫がなくなってから後発品に切り替わるのだろうが……。それがいつになるのかハッキリしないし、アリセプトだけでなく、他の薬剤でも同様の状況である。

電子カルテによる処方歴はどう表示されるかというと、
Rp1
 アリセプト5mg 1錠
 ドネペジル塩酸塩OD錠3mg(アリセプト) 1錠
※半角カタカナは変換ミスではなく、カルテ仕様そのまま。

カッコ内に半角カタカナとはいえアリセプトと書いてあるのだから、それを見落としたのならスタッフの問題だろう、という意見もある。大いに一理あるが、やはりそれも、再発防止という点では益の少ないものである。「塩酸塩OD錠」という部分は俺でもアレルギー反応を起こしそうで、それ以下の部分がカッコ内も含めて無視されそう、という気もする。

同じ薬でも、用量により先発品と後発品が混ざっていることが多いせいで、こういう事故につながるのだろう。表記を商品名に統一できないのなら、いっそすべて一般名表記にするほうが、こういう事故は防げるはずだ。

「スタッフ勉強しろ」「スタッフちゃんと画面見ろ」

こういうのは事故の再発防止策とは言えない。

スタッフにミスをさせないためには、どういう指示の出しかたが良いのか。そして、良い方法が見つかったら、それをどうやって全体のシステムに取り込むか。こうしたことはリーダーとしての医師の仕事でもあると思う。

たとえばうちの精神科では、注射する部位について「右」「左」ではなく、「みぎ」「ひだり」と書くようにしただけで、左右の取り違え報告がゼロになった。

医療は薬や機器や手技がどんどん新しくなり、過去の方法のままやると事故につながったり、過去の方法そのものが「ミス」であったりする。だから、医療におけるミスや事故を防ぐための学問は地味ながら、どんな時代でも「最先端医療」なのである。

元プロ野球選手・監督の落合博満は、

「点数をとる強打者と、点数をやらない守備の名手は、同じくらい評価されるべきだ。守備で1点をとらせないことは、攻撃で1点とるのと同じ価値がある」

というようなこと書いていた。

同じことが医療ミスや事故の防止にも言える。

ミスや事故を防ぐことには、最先端の治療と同じ価値があるのだ。

2017年9月28日

ある未来を選ぶことは、別の未来を捨てること

少し古い2012年のニュースで「妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が導入することがわかった」というのがある。これはかなり物議を醸した。

ふと思うのだが、「ダウン症の子なら、わたし生みたくない」と考えて中絶した女性は、その後に健康な子を産んで、その子が成長していく過程で、「こんな言うことをきかない子は欲しくなかった」とか、「こんな成績の悪い子だとは思わなかった」とか、「こんな不良になる子だなんて……要らない」とか、そういうふうにならないのだろうか。いや、さすがにそれは考えすぎだと思う。まず、お腹の中の生命に対してそこまで割り切れる人も、生まれてきた子に対してそこまで冷淡になれる人もいないだろうと……、信じたい。

変な例え話になるが、ゲームの中に、最初にキャラがランダムで決まるようなものがあって、ファミコン時代には好みのキャラが出るまで延々とリセットボタンを押すなんてことがあった。出生前診断のニュースを見ると、そういうゲームを思い出す。

もちろん、生まれた子どもがダウン症だと経済的・精神的に苦しいという場合はある。例えば第1子がダウン症だった場合、次の子までダウン症だと養育する経済的・精神的負担はきっと想像以上のものだろう。だからそういう場合に限ってはこういう検査を許可する……、というのも難しい話で、経済的・精神的負担というものは客観評価できないから、負担が大きいか小さいかは親の主観でしか決めようがない。どんなに金持ちで時間的に余裕があっても、ダウン症児を育てるだけの「親力」がない人はたくさんいるだろうし、逆に貧しくて忙しくてもダウン症児と向き合える「親力」を持っている人もたくさんいるだろう。

ここで誤解して欲しくないのは「親力」に高低や優劣があるという話ではないということ。「親力」とは、数値で表すものではなく、きっと「種類」だ。足の速い人と勉強のできる人を比べることができないのと同じように、ダウン症児を育てきれる人とそうでない人の「親力」は、種類が違うのだと思う。そして、これまたややこしい話なのだが、そういう「親力」というのは実際に親になってみないと分からないものなのだ。

この手の話題では、「デリケートで難しい問題だ」と締めくくるのが無難ではあるが、それだと何も主張していないのに等しいと思っているので、自分は賛成か反対か、そしてどう考えるかを書かなければなるまい。

出生前の検査という手段がある以上、それを受ける自由は保障されるべきであるし、その結果として増えるかもしれない中絶に関しても、現在の法律に則って行なわれる限りは認められるべきだと思う。ただ、検査そのものについては嫌悪感とまではいかないまでも、違和感のようなものがある。やはり、俺はこの検査の存在には漠然とではあるけれど反対だ。そうは言っても検査は既に存在しているし、前述したように各妊婦の事情を考慮して検査を認めたほうが良いような場合もある。それなら、今できることは、その事情をなるべく客観評価できる基準を作っていくことだろう。

ただ、やっぱり最後にこう思う。

自分にどんな「親力」が備わっているか分からない段階から、ダウン症児と「その子の親である自分」という2人の未来を見限るというのは、ちょっと早計ではないのかな。

<追記>重要
友人である小児科医から一言あり、重要だと思ったので付言しておく。この検査は、ダウン症(21トリソミー)以外に13トリソミー(Patau症候群)と18トリソミー(Edwards症候群)も見つけることができる。下記記事の『重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわかる』というのがこの二つの染色体異常のことである。そして、この二つは生まれてすぐに死んでしまうことがほとんどで、妊娠初期にこの二つを見つけることにこそ検査の意義がある。だから、ダウン症についてだけ議論するのはちょっと違うんじゃないか、ということであった。


<関連>
ダウン症児は親を選んで生まれてくる
座敷わらしの正体

妊婦血液で胎児のダウン症診断…国内5施設で
妊婦の血液で、胎児がダウン症かどうかがほぼ確実にわかる新型の出生前診断を、国立成育医療研究センター(東京)など5施設が、9月にも導入することがわかった。

妊婦の腹部に針を刺して羊水を採取する従来の検査に比べ格段に安全で簡単にできる一方、異常が見つかれば人工妊娠中絶にもつながることから、新たな論議を呼びそうだ。

導入を予定しているのは、同センターと昭和大(東京)、慈恵医大(同)、東大、横浜市大。染色体異常の確率が高まる35歳以上の妊婦などが対象で、日本人でのデータ収集などを目的とした臨床研究として行う。保険はきかず、費用は約20万円前後の見通しだ。

検査は、米国の検査会社「シーケノム」社が確立したもので、米国では昨年秋から実施。妊婦の血液にわずかに含まれる胎児のDNAを調べる。23対(46本)ある染色体のうち、21番染色体が通常より1本多いダウン症が99%以上の精度でわかるほか、重い障害を伴う別の2種類の染色体の数の異常も同様にわかる。羊水検査に比べ5週以上早い、妊娠初期(10週前後)に行うことができる。

(2012年8月29日10時04分 読売新聞)

2017年9月27日

精神科患者が薬を飲むときに感じる不安

統合失調症の治療薬に、ジプレキサ・ザイディスというのがある。この薬の食感(?)を試すため、製薬会社から配られたプラセボ薬(薬効成分が入っていない)を飲んでみた。口に入れるとラムネのような味がすると同時にシュッと溶ける。お菓子と言われても信じるほどだ。

これを何個かもらって、病棟スタッフに試してもらうことにした。しかし、看護師らは逃げ腰および腰で、なかなか飲もうとしない。「薬の成分は入っていない」と繰り返し説明しても、
「怖い」
「気持ち悪い」
「○○さん、お先にどうぞ」
と言って手に取ろうとしない。

入院している患者の中には、薬を飲みたがらない人が多い。そういう人たちに、看護師はあの手この手で説得し、薬を飲むように勧める。患者が、
「その薬には毒が入っている」
と拒絶すれば、
「あなたの体に必要なものが入っているんですよ」
というようなことを言って、とにかく内服するよう言葉を尽くす。

プラセボ薬を飲むことでさえ、スタッフは不安や怖さ、気持ち悪さを感じたのだから、まして成分の入っている薬を飲むことになる患者の心中は穏やかなものではなかろう。そんな気持ちに少しでも気づいてもらえたら良いな、と感じた。

2017年9月26日

精神療法とは、まず聴くこと

愚痴は「こぼす」から良いのであって、あふれて「こぼれる」ようではいけない。ストレス発散を「ガス抜き」と言うこともあるが、これも意図して「抜く」うちは良いが、ガス「漏れ」になってしまっては良くない。怒りを爆発「させる」のと怒りで爆発「してしまう」のも、やはり前者のほうがたちが良い。

要するに、こころの中にあるなにかをコントロール範囲内におけているかどうか、ということ。

もちろん、ときにはあふれる想いをぶつけることも必要なことがあり、そのほうが伝わることもある。たとえばラブレターとか。

では、精神科診察室ではどうか。

愚痴はこぼさせ、ガスは抜かせ、怒りは爆発させてあげる。こぼれる前に、漏れる前に、爆発してしまう前に。

「ただ聞いているだけなのに精神療法を請求されるのが納得いかない!」

と怒っている患者をネットでよく見かける。しかし、そんな人たちの身のまわりで、些細な愚痴でも、やり場のない怒りでも、どんな突拍子のない妄想的なことでも、遮らず、ただ黙って耳を傾けてくれる人が、いったいどれくらいいるだろうか。もし、そうやって聴いてくれるような友人が一人でもいるのなら、きっとその人は精神科をあまり必要としないだろう。

精神療法とは、まず聴くことなのだ。

2017年9月25日

『ねころんで読めるてんかん診療』の中里先生の講演を聴いてきたよー!!

東北大学てんかん科教授である中里先生(@nkstnbkz)の講演会を拝聴に行ってきた。

もともと御著書やツイッターで熱烈ファンだったので、会場に入る前から胸はドキドキ。講演会というより「憧れのアイドルのコンサート」という心境であった。

会場に入ったのは開演から数分後。一般講演が始まったばかりだったが、俺の目は中里先生をロックオン。

あの後ろ姿は中里先生に違いない。

最前列からオーラが届いて、胸の高まりが増す。

普段は裸眼で、運転の時だけしかメガネをかけないのに、この講演会にはメガネ持参。中里先生の後ろ姿をうっとり眺めた。

講演会の中身はめちゃくちゃスゴかった。
内容はもちろんだが、プレゼン・スタイルがカッコ良い。まるでTEDを見ているようだ。中里先生はポインターを使わない。そのかわり、両手をダイナミックに動かしてアピール。

スライドはシンプル。でも奥が深い。医療者同士なら、あの中のスライド一枚だけで、飲み会の一つ二つやれるレベルだ。

講演そのものも素晴らしかったのだが、それ以上に質疑応答が神がかっていた。

極端な話、講演は用意していたものを話すので準備もできるが、質疑応答はアドリブになる。それをこうも見事にコントロールするか、というくらい、「聴く」と「語る」のバランスが見事。

講演の最後、中里先生がなんと『ねころんで読めるてんかん診療』(通称ネコテン)について書いた俺のAmazonレビューをキャプチャ画像で紹介! 鼻血を出して卒倒するかと思った。また、
「このレビュー、文章うまいでしょう。この先生もねぇ、ツイッターで良いこと書いているんですよねぇ」
といったご感想も!!

この時点でオシッコちびったかも……。


いや、オシッコはちびっていなかった。それは講演後のトイレでちゃんと確認した。中里先生にご挨拶する前に、トイレは済ませておこうと思ったのだ。

用を足してトイレを出ようとすると……、アーッ、いま中里先生とすれ違った!!

完全に、芸能人の追っかけ状態である。

そしてついに、情報交換会でご挨拶のチャンス。例えるなら、

「憧れのアイドルのコンサートを聴いて感動したあと、なんと楽屋でお話できる機会をもらった感じ」

中里先生の空き時間を待つ間に舞い上がってしまい、MRさんからも、
「先生の緊張が伝わってきます」
と言われるほどだ。

中里先生と仙台から同行したMRさんによると、
「中里先生も、レビューを書いた先生とお会いできるのを楽しみにされていて、何度となくその話をされてましたよ」
とのこと。

オシッコちびらそうとしてんのか、このMRさんは!!

さて、ついにご挨拶。
中里先生にご挨拶した瞬間、
ガシーッ
両手握手!!
あっ……。
オシッコちびったかも……。

そしていろいろお話をさせていただき、最後には持参した『ネコテン』にサインをゲットー!!!


少し冷静になって真面目な話を。

てんかんは、陰陽で言えば「陰」の病気である、現時点では。
「高血圧で薬もらってるんだよー!」
「俺なんて尿酸値が高くてさ(笑)」
と語れるような「陽」の要素はない。

しかし、中里先生の講演、その後のご挨拶を通じて思った。

この先生は、陰を陽にするための先駆者だ!

中里先生の明るさとバイタリティ、情報発信力は、てんかんとてんかん診療に対するイメージを大きく変える。特に「明るさ」は、これまで「陰の病気」として過ごしてきた患者や家族にとっての福音であろう。

ちなみにこの日の講演会。質疑応答で脳外科の若い女医さんが、心因性けいれんとの鑑別にかける期間について質問した。中里先生の著書やツイッターで中里イズムを吸収している俺は、
「鑑別にかけられる期間は、患者の状況による!」
と思った。中里先生の返答も同じだったので、答え合わせとしてホッとした。

憧れの先生ではあったが、実はちょっとイジワルな気持ちもあった。中里先生はツイッターではすごく良いことを書いてらっしゃるし、プレゼンのしかたについてもたびたび語られているけれど、実際はどうなのかなぁ? この目で確かめてみよう、という感じ。

講演を拝聴した結論。

ナマ中里に勝る中里ナシ。

ツイッターで伝わるのは中里先生の魅力や教えの一部に過ぎない、そう強く感じた。

中里先生は、今後どんどんテレビに出なければいけない人だ。
「てんかんあるある」を、明るくおかしく教育的かつ分かりやすく語れる稀有な存在なのだから。


<関連>
「てんかん診療には自信がありません!」と、自信を持って言えるようになる不思議な本 『ねころんで読めるてんかん診療::発作ゼロ・副作用ゼロ・不安ゼロ!』

2017年9月22日

善悪の判断基準を自らの良心ではなくランプに任せてしまうのは、映画の中に限った話ではなく、現実世界に生きる俺たちの中にもあるじゃないか!! 『エクスペリメント』


被験者らを看守役と囚人役に分け、数日のあいだ生活させると、だんだんと看守役は支配的に、囚人役は被支配的な言動となる。そんな実験の話を聞いたことがないだろうか。この映画は、実際にあったその実験を映画化したもので、『es[エス]』というドイツ映画のハリウッド・リメイク版である。

本物の実験は1971年にスタンフォード大学で行なわれたが、被験者らが禁止されていた暴力行為に及んだため危険として中止された。

本作のストーリーは、大方の予想どおりに進んでいく。いろいろとツッコミどころは多かったものの、非常に面白いシーンがあった。

実験前に、看守役にはいくつか指示がなされる。その中には暴力禁止という項目がある。そして、
「指示に反した者がいれば、あの赤いランプが点灯して実験中止になる。その場合、報酬(日給1000ドル)は一切支払われない」
と念を押される。物語が進むにつれて、看守役の一人が特に支配的行動をエスカレートさせていく。囚人役になった主人公の顔を便器に突っ込んだり、皆で小便をかけたりする。明らかな暴力行為だが、赤ランプはまったく点灯しない。ここで看守役の男が自信満々の表情で言う。

「ランプが点灯していないから、ルール違反じゃないんだ。判断基準は、あのランプなんだ!!」

深い。
なんとも深い言葉だ。
看守にこれを言わせるために、監督はこの映画を創ったんじゃないかと思えるくらいだ。

彼らは「模擬刑務所」という特殊な環境だから、こういう心理状態になったのだろうか?

いや、そうじゃない。

今まさに俺たちが生活している日常にだって、似たようなことがあるじゃないか。バレなきゃ良い、いや、バレても罰されないこともある。「暗黙の了解」で、ここまでは違反してもオッケーというのが実際にある。たとえばスピード違反。50キロ制限を60キロで走っていても普通は捕まらない。では、65キロは? 70キロは? どの時点で赤ランプが光るのか。

「判断基準は、あのランプなんだ!!」

自らの良心ではなく赤ランプに善悪の判断基準を任せてしまった彼の弱さ、愚かさは、多かれ少なかれ、現実世界に生きる自分たちの中にもあるのだ。

2017年9月21日

味も素っ気もないタイトルに惑わされるなかれ! ダイナミックに描かれる特殊班捜査に引き込まれる名著!! 『警視庁捜査一課特殊班』


タイトルがシンプルすぎて、あまり人目をひかない。面白いのかどうか不安だったが、読み始めると一気に引き込まれて、ページを繰る手が止まらなかった。

特殊班では、身代金目的の誘拐や企業恐喝などを対象に捜査する。殺人事件と異なるのは、殺人が基本的には「過去のこと」を調べていくのに対して、誘拐や恐喝は「現時点で動いている」事件への対応を求められるというところ。特に身代金目的の誘拐では、特殊班が対応を一つ間違えると、金は盗られ、犯人は逃げ、被害者が死亡するという最悪の事態になりかねない。それだけに、緊張感が尋常ではない。読んでいるほうもドキドキ、ピリピリしてしまうほどである。

多くの事件捜査を詳細かつダイナミックに描いてあり、とんでもない名著に出会えたことに感謝。ただし、のっけから子どもの身代金目的誘拐で、かつ被害者死亡という結末だったので暗澹たる気持ちにもなった。来年度から長女が小学生になるだけに、とても他人事とは思えなかった。

素晴らしい本なので、タイトルをもう少し人目を引くものに変えればいいのに……。なんだかもったいない。

2017年9月20日

『亡国のイージス』からすれば、見劣りしてしまう…… 『川の深さは』


マル暴の刑事を辞め、やる気のない警備員となった主人公を狂言廻しにしたスパイもので、本書の後に発表された大作かつ名作『亡国のイージス』(以下、イージス)へと緩やかにつながっている。ただ、『イージス』という弟があまりに優れているせいで、兄である本書が見劣りしてしまう。

『イージス』に比べれば、分量がおそらく半分にも満たないからか、全体に説明くさくなってしまい、情景描写は不十分で、人物もあまり深めきれないまま終わっている。登場人物は、「あれ? これって名前や役職こそ違うけれど、イージスに出てくるアノ人とアノ人だよね」というくらいステレオタイプ。本書を下敷きにして、より完成度の高い『イージス』を創り上げた、といったところか。

『イージス』レベルのものを期待して読むとガッカリするだろう。

2017年9月19日

魅力的な設定、豪快なストーリーだが、ちょっとパワー不足 『悪夢の六号室』


木下半太の「悪夢シリーズ」は、どれも設定が魅力的でストーリーも豪快である。ドンデン返しも面白いものが多い。

本書ではタイトルにある「六号室」と、となりの「五号室」が舞台になる。エレベーター、観覧車、ステーキハウスなど、舞台をかなり狭く限定するのも「悪夢シリーズ」の特徴で、これは著者が演劇に携わっていることも影響しているのかもしれない。この限られた設定・舞台の中で、登場人物たちが活き活きと動き回るところに「悪夢シリーズ」の魅力がある。

ただ、今回はちょっとパワー不足だった。キャラもドンデン返しもイマイチで、一部に描写の破綻もあったので、良くてせいぜい星3つというところ。

2017年9月15日

アルコール依存症の治療だけでなく、酒と依存症の歴史についても簡潔に学べる! 『アルコール問答』


架空の患者夫婦と、精神科医なだいなだのやり取りという形式で書かれている。アルコール依存症(本書では主に「アルコール中毒」という言葉が用いられている)についての著者の考えだけでなく、酒や依存症の歴史についても考察してあった。分量の少ない新書なので、そう深く突っ込んであるわけではない。簡潔にサラッと学べるのは短所もはらむが大いなる長所である。

次年度からアルコール依存症との関わりが増えそうなので、アルコール関連の本を探すうちに本書を見つけた。なだいなだの本は、まだ経済学部生で、医師になるなんてこれっぽっちも思っていなかった時期に何冊か読んだ。あまりピンとこないというか、パッとしない印象だった。あれから22年がたって、精神科医の大先輩であり、日本のアルコール依存症治療における先駆者として、著書から学ぶことが多いのに驚いた。

本との出会いは、人との出会いと同じく、タイミングや縁というものが大きく関係するのだろう。

2017年9月14日

交通事故の偽装を見破れ! 『現場痕』


交通事故と損害保険をテーマにしたミステリ短編小説集である。主人公は元刑事で、損害保険の代理店・志摩平蔵。愛妻を交通事故で喪ったことがきっかけで刑事を辞め、損保代理店として働いている。元刑事としての観察力や執念で、偽装された事故を追究し、無念の被害者を救い、卑劣な偽装犯を炙り出す。

著者がもともと生損保代理店を経営していたこともあって、損保にまつわることが分かりやすく書いてある。六つの短編はどれもそれなりに面白いのだが、ミステリの伏線や謎解き部分がシンプルすぎたり、冗長だったり説明的すぎたりという欠点はある。また別々の時期に発表された短編をまとめたものなので、主人公をはじめとした主要人物に奥行きが感じられず、その点ではちょっと残念だった。とはいえ、魅力的になりそうなキャラが多いので、いずれ長編小説にしてもらいたいと思うような素敵な一冊だった。

2017年9月13日

医師免許がなくてもなれる「こころ医者」とは? 『こころ医者講座』


アルコール依存症を専門とする精神科医なだいなだによる、「こころ医者」になるための心得を語った本。精神科医になるには医師免許が必要だが、こころ医者には免許が必要ない。大切なのは、「こころ構え」「こころがけ」といった「こころのありかた」である。

人との付き合いかた、接しかたに通底するようなことが書いてあるので、対人援助の仕事についているかどうかや、相手に精神疾患があるかどうかに関係なく、誰が読んでも得ることの多い本である。

身近にアルコール問題や精神疾患を抱えている人がいたり、自らが対人援助職についていたりという人なら、なおさら「こころ」にしみて、良い「こころ医者」になれるかもしれない。