2017年8月18日

プライマリな呼吸器内科医の診断アプローチを学びつつ、良質な医療ノンフィクションとしても楽しめるオススメ本 『私は咳をこう診てきた』


スゴい本だ。

非専門、というより、内科に詳しくない精神科医が読んでもよく分かる。

難解になりがちな深い専門領域に踏み込まず、治療についても薬剤名を記すことなく、ひたすら「診」ることに絞り込み、ケースレポートという形式で、診察から診断までの思考の流れやアプローチが語られる。「咳」を「診」ることに特化しているので、ほぼすべての症例において同じ手順、同じ思考の流れが繰り返される。にもかかわらず読んでいて飽きないのは、それぞれの患者の生活・社会背景がしっかりと描写されているからだ。また、これによって、本書が良質の医療ノンフィクションにもなっている。

咳診療における具体的な治療については記載がない。専門書のように細かい鑑別診断が網羅されているわけでもない。これは決して辞書のように用いる本ではない。本書の価値は、非専門家が通読でき、勉強になり、啓発されるところにある。

精神科の外来患者には、「見知らぬ他者との関わりを強く拒絶する人たち」が少なくない。そういう人たちが「頭が痛い」「めまいがする」「咳が出る」「皮膚にできものが」というとき、内科や皮膚科の受診を勧めても「いや、いいです……」「めんどう……」と拒否されることが多い。精神科も内科も皮膚科も同じ建物の中にある総合病院でさえこうだ。精神科クリニックや精神科病院なら、なおさらこの傾向が強いだろう。そうして放置され、後日になって「あのとき、ちゃんとチェックしておけば良かった」という結果にはしたくない。

そういうわけで、精神科医「なのに」ではなく、むしろ精神科医「だから」こそ、定期的にこういう本を読むようにしている。

値段も手ごろで、非専門家には超絶オススメな本。

2017年8月17日

躁うつ病でもあった北杜夫が描く奇人・変人な精神科医たち 『どくとるマンボウ医局記』


「どくとるマンボウ」という言葉はずいぶん以前から見聞きしたことはあったが、それがどういう本なのかは知らなかった。まして作者が精神科医とは……、しかも躁うつ病を発症した精神科医とは想像だにしていなかった。

読んで知ったのだが、北杜夫の父は斎藤茂吉らしい。そして著者は、父である斎藤茂吉のことを「異常性格」と評していた。そういえば、夏目漱石も精神科的な問題を抱えていたらしいし、中島らもは躁うつ病とアルコール依存症があったし、海外の文豪にもてんかんや精神疾患のある人がいた。

こういう文豪や偉人たちの病気の話は国語や歴史では習わないけれど、追加情報としてもっと積極的に教えても良いのではなかろうか。そのとき子どもたちに伝えたいメッセージは、

「病気の有無にかかわらず、人は自ら成したことで評価される」

ということだ。歴史的人物の病気の話になると、ヘレン・ケラーや野口英世のように、
「こういう病気があったのに、それを乗り越えたスゴい人」
となりがちだし、その逆に、
「こういう病気があったからこそ、こんな素晴らしい仕事ができた」
ということにもなりかねない。

そうではなくて、彼らは「彼らが成したこと」で評価されている、ということを伝えたい。
「だったら、最初から病気の話なんて持ち出す必要はないだろう」
そんな意見もあるかもしれない。それも一理あるが、子どもたちには、
「あなた自身や家族で病気の人がいるかもしれないけれど、それでその人の価値が損なわれることも、逆に価値が高まることもなく、ただ行ないが評価されるのです。そして、あなたが誰かのことを判断するときも、持病の有無で評価を上下させないように」
ということを、偉人たちの病気の話を通じて学んで欲しい。

本書は、北杜夫が慶應大学病院の神経科(精神科)医局に在籍していた期間に出会った医師や患者にまつわるエッセイである。特に患者よりも精神科医のほうに奇人・変人が多くて、これは日常臨床(?)の感覚とも合致している。変人が多いと言われる医師の中でも、精神科というところは(以下自粛)。

2017年8月16日

子育て中の人は涙腺ゆるむ! 『水やりはいつも深夜だけど』


短編集で、最後の1編は女子高生が主人公だが、残り4編はいずれも子育てしている女性と男性が主人公である。その4編の内容をさわりだけ紹介。

『ちらめくポーチュラカ』
5歳の男の子を育てる30歳女性が主人公。夫の仕事は順調で裕福で、食事やオヤツやコーディネイトの写真を定期的にブログにアップし、一定の人気も得ている。充実した育児ライフを送っているように見える彼女だが、実は中学時代の女友だちからのイジメ体験を引きずっており、ママ友たちとの関係を上手く築けないでいる……。

『サボテンの咆哮』
主人公は、息子を幼稚園に通わせる「俺」。「共働きだから当然でしょ」という妻の言い分で、日曜日は子どもの世話から夕飯の仕度までを引き受ける。ただし、
確かにうちは共働きだ。妻はこのマンションから歩いて五分くらいのところにある実家の工務店の経理を手伝っている。共働きとはいっても、フルタイムで働いているわけじゃない。章博が幼稚園から帰ってくる時間には、仕事を終え、そのまま自宅に戻る。それほど忙しいわけでもないだろう。その言葉を何度のみこんだことだろう。
こころの中に、そんなシコリを抱えている。

『ゲンノショウコ』
主人公の女性には精神障害の妹がいて、我が子の成長を他の子と比べてしまい、ハラハラドキドキしている。そんな彼女のママ友のなかに、上の子が障害を抱えている人がいることを知り……。

『砂のないテラリウム』
子育てに追われる妻のこころが自分に向いていないことに、言い知れない寂しさを感じている男性が主人公。そんな彼に若い女性からのアプローチがあり、揺さぶられる彼の感情を描いている。

5編すべて「すごいハッピーエンド」ではないが、将来への希望が薄紙を通して透けて見えるような感じで、とても好感のもてる短編集だった。

子育て中の人は涙腺ゆるむよ。

2017年8月12日

大ざっぱな宗教観で、ゆるりと生きつつ、大切なことは守っていきたい

宗教を「熱心に」やる人には違和感をおぼえることが多い。

たとえば、キリスト教を「熱心に」信仰している人の中には、ミサやクリスマスその他の宗教行事にはやたらこだわったり、聖書の勉強会に真面目に通ったりするのに、そもそもの「人を愛し許す」という部分がスポンと抜けている人が目につく。やたら戒律にこだわって、こころが伴わない、みたいな。

きっとほかの多くの宗教で、原理主義や、それに近いようなことをやっている人はこういう感じだ。

不倫報道の渦中にある女性芸能人はモルモン教徒で、タバコは吸わない、コーヒーを飲まないという厳しい戒律があるようだが、家族を大切にし家族を裏切らない、という、ほとんどすべての宗教で重視されていることが抜けているようだ。

ある「熱心なキリスト教信者」は、夫とけんかして、頬を叩かれたので叩き返したらしい。そしていわく、
「聖書には、右の頬を叩かれたら、左の頬を叩きなさい、と書いてあるから」
彼女の間違いはともかくとして、「聖書に書かれているから叩き返す」というのは思考停止状態だし、そもそも「人を叩く」というのが教義からズレるような……。

宗教行事には大ざっぱで、日ごろの信心なんて大したことないのに、お盆に集まりわいわい騒いで、特に初盆なんかでは故人を偲んでたまに涙ぐんだりして、やっぱりご先祖さまは大切だよなーくらいの、ゆるい宗教観でやっている人たちが好きで、自分もそんな感じである。

面白い寓話を紹介しておこう。

高名な坊さんが弟子たちと旅していると、橋のない川のそばで立ち往生する女性に出会った。
「水かさが増していて、渡れないのです……」
坊さんは躊躇うことなくサッと女性を抱えて川を渡ったが、それを見ていた弟子たちは納得いかない。モヤモヤしながら旅を続け、何時間も経ってついに皆で指摘した。
「師よ、女人に触れるとは……」
すると坊さんはキョトンとした顔で、こう言った。
「なんじゃ、お前たちの頭は未だに女を抱えておったのか」

信仰心の篤い人と、宗教に熱心な人の違いは、こういうところかもしれない。


坊さんの寓話は、本書のあとがきに書いてあったように記憶している。

2017年8月10日

統合失調症患者が主人公で、しかも描写が巧みという、非常に珍しい小説 『増大派に告ぐ』


主人公はおそらく統合失調症である。実在する患者の内面世界を正確に分かることはとうてい不可能だが、著者の描写は特に前半部において非常に巧みで、患者にはこのように聞こえ感じられるのかもしれないと思えた。中盤から後半にかけては、その描写力が若干息切れしたようだが、全体としては、「著者の身内に統合失調症の人がいるのかもしれない」というくらい真に迫っていた。

物語は、この統合失調症の31歳男性と、酒乱DVの父のもとで生活する14歳の少年を、交互に描いて展開する。男性の狂気と正常。少年の正常と狂気。それらの間を行きつ戻りつ、ときに混じり合って境目が分からなくなりながら、終盤に向けてチンタラと疾走感ゼロで進んでいく。

この疾走感のなさは、文章における比喩の多さが原因である。とはいえ、決して陳腐な表現の羅列というわけではないので、飽き飽きしたりイライラしたりすることはなかった。ただ、それはあくまでも俺の感覚なので、やはりこの比喩の氾濫を好きになれるかどうか、受け容れられるかどうかが、本書の評価の分かれ目になるだろう。

物語のラスト、弱者と弱者が交わった結果として、その着地点は、決してバラ色ではない。精神障害者は一方的にイジメられる存在ではなく、ときには誰かを傷つける。DV被害者もただ殴られるだけでなく、どこかで誰かに牙をむく。

本書を読みながら、THE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』にある、こんな歌詞を思い出した。
弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく
ところで、本作は日本ファンタジーノベル大賞の受賞作ではあるが、実はファンタジー要素はどこにもない。ファンタジーのように感じられる文章表現であっても、それは実在する病気のシビアな症状である。統合失調症の患者や症状について詳しそうな著者が、幻覚妄想を描写した小説を敢えて「ファンタジーノベル」として応募したのだとしたら、そこにこそ著者の主張が込められているのかもしれない。そして、それを審査員が正しくくみとって評価したうえでの受賞であれば、とても素晴らしいことだと思う。

2017年8月9日

教えそのものより、マフィアのエピソードに目がいってしまう…… 『最強マフィアの仕事術』


アメリカ5大マフィアの一つ、コロンボファミリーの幹部だったマイケル・フランゼーゼによるビジネス系の自己啓発書。元マフィアの教えだから、どれだけ過激なことが書いてあるのかと期待して読んだが、中身はいたって堅気、まっとうなものだった。それもそのはず、著者はとうにマフィアからは足を洗っているのだから。そのかわりマフィアから命を狙われもしたようだが。

誠実さ、勤勉さ、それから法を守ることを、他書より強く推奨しているが、あとはその他の本とそう大差ない。ただ、彼が経験した裏社会でのエピソードが面白くて、ついつい最後まで読んでしまった。自己啓発としてより「そっち系」の楽しみのほうが大きかったくらいだ。

2017年8月8日

死神の千葉、大活躍!! 『死神の浮力』


前作『死神の精度』は緩やかにつながる短編集だったが、今回は前作ファンにとっては嬉しい長編。死神の調査期間である7日間を、一日ごとに死神の千葉、主人公の山野辺寮の視点で描かれている。

山野辺夫妻は一人娘を殺害されている、という胸の痛い設定。死神の千葉は、そんな辛い境遇にある山野辺が「可」なのか「見送り」なのかを調査しにやって来ている。7日間の調査の結果、「可」なら翌日に死亡する。「見送り」なら一定期間の寿命が保証される。

本書のテーマの一つは「サイコパス」。娘を殺した犯人がサイコパスなのだが、どこかでこのキャラクターは見たことがあると思ったら、宮部みゆきの『模倣犯』だった。あの犯人も強烈なサイコパスだったが、本書の犯人である本城も負けず劣らずの冷淡さだ。

ネタバレになるから、これ以上はもう書けない。とにかく面白かったのでお勧めだ。

※平成29年8月7日時点で、文庫よりkindleのほうが倍近い値段という異常な価格設定となっている。リンクは画像の関係上kindleに貼ってあるが、安く読みたい人は文庫を。

2017年8月7日

ボケることは哀しく、苦しく、ときに滑稽。若年性アルツハイマーの男性を描いた小説 『明日の記憶』


泣いた。

本書の主人公は若年性アルツハイマー型認知症である。著者の文章が巧みで、徐々に記憶を失っていく感じがよく表現されている。

たとえば、小説の中で主人公がつける備忘録。最初は漢字が多くて誤字もなかったのに、日が経つにつれて漢字が減り、少しずつ誤字が増えていく。特に、文中に誤字を初めて(だと思う)登場させたときの方法が上手い。まず、備忘録で「案外」と書くべきところを「安外」と間違えてしまう。このままだと変だなと思いつつもスルーする読者がいるかもしれない。そこで、その次のページの地の文で「案外」が使われている。読んでいる読者は、まず「安外」を見て違和感をおぼえ、読み進んで「案外」と書いてあるので、「安外」は主人公の誤字だと確信できる。

この備忘録がどんどんと退化していく感じは、『アルジャーノンに花束を』を彷彿とさせる。有名な小説だが、一応おおまかな内容を書いておく。主人公は精神遅滞のチャーリーで、アルジャーノンはネズミの名前だ。アルジャーノンは実験的な脳の手術を受けて、非常に頭の良いネズミになる。この手術を人間で試した第一号がチャーリーだ。チャーリーはみるみる知能が上がる。ところが、ある日を境にしてネズミのアルジャーノンがどんどん退行していき、最後は死んでしまう。それを見て、チャーリーは自らの運命を悟る。これらが「チャーリーの日記」という形式で描かれる。原書で読んだのだが、最初は俺でも分かるような文法や綴りの間違いが多く、精神遅滞の人の英文という感じだった。辞書なしでもスラスラ読めたのに、知能が上がるにつれ内容がだんだんと高度になり、とうとう辞書なしでは読めなくなった。そして、最後はまたどんどん幼い感じの日記に戻っていく。この表現方法には衝撃を受けた。

そういうわけで、『明日の記憶』で用いられた「衰える備忘録」という手法は、特別に目新しいものではなかったが、小説の中でうまく挿入・利用されていた。

ストーリーに関しては多くを書くまい。ラストシーンより、途中のある場面で胸がぐっときた。

認知症小説(?)の隠れた名作には、清水義範の『靄の中の終章』という小説がある。『国語入試問題必勝法』という本におさめられた短編小説だ。また、『吾妹子哀し』も認知症の妻をかかえた夫を主人公にした素晴らしい小説である。



2017年8月4日

下の子ほど「器用」で「順調」で「要領が良い」!? 「もどかしさ」とこころの余裕

三女ミィが、いつの間にか自力で座れるようになっていた。どうやら、長女より次女が、次女より三女が器用なようだ。なるほど、よく言われるように、「下の子は要領が良い」のかもしれない。

いや、はたして本当にそうなのか?

もし仮に、子どもの能力がほとんど同じだとしても、子どもをみる親の環境は、一人目、二人目、三人目のときで大きく変わる。一人目のときには、体力・気力・時間といった「子育て資源」のすべてを一点集中できる。まめまめしく観察し、些細な不調におろおろし、小さな成長に大喜びする。そして、成長停滞期になるとじりじりとした「もどかしさ」をおぼえる。

こうしたことは、二人目、三人目になると分散していく。一人目のときに比べれば、どうしても観察の頻度や密度は下がってしまう。成長停滞期に「もどかしさ」を感じることもない。もっと正確に言うと、「もどかしさ」に目を向ける余裕がない。「もどかしさ」がないぶん、「できた!」と「できた!」の間が短く感じられ、そのぶん器用に見える。

一人目よりも二人目、二人目よりも三人目が「器用」で「順調」で「要領が良い」のは、実はそういうことではないのか?

そこで、ふと思う。

医師と患者の場合はどうだろう?

研修医が終わり、受け持ち患者が増えるにつれて、自分の診断力や治療が少しずつ上達していくのは確かなはずだ。ただ、子育てで一人目より二人目、二人目より三人目が「順調」に感じられたように、受け持ち患者が増えることで「治療停滞期のもどかしさ」を感じる余裕がなくなるということはないだろうか。そしてその結果、「順調」という錯覚を起こしていることがあるかもしれない。

「もどかしさ」を感じられる余裕。

こんな視点があると、いろいろな場面での「もどかしさ」にも親しみを感じられるようになる、かも?

2017年8月3日

両親の面倒を最期までみますか? 自分や家族の介護や死に想いをはせるノンフィクション 『満足死 寝たきりゼロの思想』


両親の面倒を最期までみますか?

この問いに「ハイ」と答えたのは、イギリス人が50%、ドイツ人が62%だったのに対して、日本人は75%と高かった。ところが、実際に親が寝こんだときに最期まで面倒をみたかどうかを調査すると、イギリス人が40%、ドイツ人が50%だったのに対して、日本人はわずか20%だったそうだ。

本書はノンフィクション作家の奥野修司が、高知県佐賀町で「満足死」という取り組みをしていた疋田医師に密着取材したものである。疋田医師は50歳で佐賀町に移り住み、90歳で引退するまでの40年間、へき地医療に従事する中で、患者本人が満足して他界する「満足死」というものを追求した。

似て非なるものに「尊厳死」があるが、尊厳死より「患者本人の主観」を重視したのが「満足死」である。

疋田医師は歯に衣着せずこう言う。
「だいたい嫁をはじめとして、家族がお世話してくれるのは一ヶ月です。バカ息子でも一ヶ月はしてくれます。一ヶ月すぎると、早う死んでほしいとは言わんけど、粗末に扱われると思ったほうがよろしい。これが二ヶ月、三ヶ月になると、現実問題として、お世話する側に困る人が出てくる」
また、疋田医師は「人間は三度死ぬ」という話で、健康でいることの大切さを説く。三度の死は、まず「他人に貢献できなくなる社会死」、次に自分の生活を維持できなくなる「生活死」、最後に心臓が止まる「生物死」。そして、「生活死」と「生物死」の間をいかに短くするために健康を保って、衰えたと思ったらポックリを目指そうというわけだ。「生活死」と「生物死」の間がおおおそ1ヶ月くらいだと、「ポックリ逝った」という印象になるようだ。

自分や家族は、介護や死とどう向き合うのだろうか。どういう介護をして、あるいはされて、どこでどうやって死ぬのだろうか。はたして自分は「満足死」できるだろうか。家族を「満足死」させられるだろうか。いろいろなことを考えさせられる本だった。

2017年8月2日

なんでも「さん」付け 『バカ丁寧化する日本語 敬語コミュニケーションの行方』

以前、テレビを見ていたら、ある政治家が、

「小沢グループさん」

と言っていて、ゲンナリというかウンザリというか、気持ちの悪さにその政治家の名前を憶えることさえ忘れて、ただただオエーッと思っていた。

なんだ、この「さん」付けブーム。

そういえば、政治家って「自民党さん」「民主党さん」とも言うよなぁ……。彼らはそれが変だとは思わないのかね。もしかして「さん」を付けるほうが礼にかなっているとか丁寧だとか思っているんじゃないだろうな。

製薬会社の人たちは、互いの会社名を「さん付け」で呼び合う。これは日本企業の昔からの慣習だし、そこまで違和感もないのだが、ある薬剤説明会で、

「ドネペジルさん」

と言っていたのには驚いた。ドネペジルというのは、認知症の薬『アリセプト』の一般名である。これはもうどう考えても行きすぎだ。例えるなら、東芝がプラズマテレビのレグザを売り込んでいて、一方でシャープが液晶テレビのアクオスを推している時に、「プラズマテレビさん」「液晶テレビさん」と言い合っているくらいに変である。せいぜい、お互いに「東芝さん」「シャープさん」と言い合うか、せめて「レグザさん」「アクオスさん」くらいが限度だ。いや、それでもかなり変か。

俺は少し前からネット上では「患者」に「さん」を付けないことにした。最初は簡便性を重視したのだが、面白いことに、「さん」を付けないほうが患者個人から離れることができ、客観的とまではいかないまでも、少し距離を置いた振り返りができるようになった。まして「様」なんて現実でも絶対につけない。

だいたい、俺みたいな精神科医から「様」付けで呼ばれた患者は、見放されたと思って落ち込むよ、きっと。


2017年8月1日

依存症治療は難しい 『依存症』

酒は好きだ。しかし、酒がないとやっていけないほど、日々に倦んでいるわけでもない。むしろ、酒を飲まない日の方が読書や映画など、自分の時間を楽しめる。子どもたちと一緒に生活するいま、以前ほどには飲んでもいられない。
アルコール依存症者の妻たちもおそらく何百回とこう詰問したはずだ。
「どうしてそんなに酒が飲みたいの」と。
眠れないから、仕事の付き合いだから、食欲増進のため、思ったことが言えるから、寂しいから、頭にくることが多すぎるから……さらには「女房の顔がブスだから」というものまである。
実はこんな質問は愚問なのだ。
彼らはもう理由なく飲んでいるのであって、このような理由は単に周囲を納得させる後づけに他ならない。

思えば、酒量が増えたのは医学生時代であった。それまでも酒は飲んでいたが、医学生になって友人や後輩たちと飲むことで、「飲み過ぎる楽しさ」というものを覚えてしまった気がする。
アルコールと出会うまでの人生がどのようなものであったかによって、飲酒の快感は変わってくる。
しらふの時でもまあまあ楽しい人間関係が持て、そこそこ自惚れも強い人がアルコールを飲んで得る快感と、しらふの時は自分にまったく自信がなく人と会う時も緊張が強い人がアルコールを飲んで得る快感とはどちらが強いだろうか? 
変化の落差の大きいほうが強いだろうことは容易に想像できる。
日本は、アルコールに関しては非常に寛容な国である。世界一と言っても良いくらいのようだ。
そのかわり薬物に対する取り締まりは厳しい。世界でただ一つの国にしか見られないアルコールの自動販売機(これが日本にしかないという現実を知らない人が如何に多いか)はそのようなアルコール容認文化の象徴である。つまり嗜癖の対象をアルコールという薬物に一点集中させることで、他の薬物の乱用を相対的に防いできたといえないだろうか。
俺も、酒の自販機が日本にしかないとは知らなかった。でも確かに、これまで行ったどの国にも酒の自販機はなかった。というより、自販機自体がそんなに多くなかったが……。

本書に、著者がカウンセリングで用いている依存症チェックが紹介されている。

1.ある人Aが習慣的に○○を行なう。
2.それによってある人Bが困る。
3.それを知りつつ、ある人Aはその行為○○がやめられない。

○○に入るものは何でも良い。身近で思い当たる人はいないだろうか。

ちなみに、著者が所長を勤める原宿カウンセリングセンターは、30分のカウンセリングで6000円。高いと思う人もいるかもしれないが、弁護士相談料だって同じくらいである。こころの悩みは、そんな安くお手軽に解決できるものではないのだ。

2017年7月31日

日航機墜落事故を新聞記者の目線で描いた名作小説 『クライマーズ・ハイ』


日航機墜落事故については、これまで何冊も本を読み、ここでも何回か語ったことがある。事故の日、小学4年生だった俺は、生まれて初めての飛行機に乗った。しかも一人で東京に向かった。叔父の家に着いてしばらくして、テレビで事故の速報が流れた。地元の親戚はみんな慌てたらしく、俺の安否を確かめる電話が何件もかかってきていた。俺を東京に送り出すことにした母は、「なんで子ども一人で飛行機に乗せたんだ!」なんて責められたらしい。子どもだった俺は「乗る飛行機も行き先も違うんだから、大丈夫に決まってるじゃん」なんて思っていたが、娘ができたいまなら当時の大人たちの気持ちが分かる。

さて、本書の著者である横山秀夫は、元新聞記者である。しかも、日航機墜落事故があった当時に、群馬県の地方新聞である上毛新聞の記者であった。名作家が直接に体験したことをもとに書いているので、怒りや哀しみや焦燥感がピリピリと伝わってくるような描写だった。

知人の地方新聞記者と『クライマーズ・ハイ』の話題になったとき、「あんな感じですか?」と尋ねたら、「そうそう、あんなですよ」とのことだった。文章を読んだり書いたりするのは好きだが、とてもあんな修羅場のようなところで生き残っていけるとは思えない……。若いころにうっかり新聞記者なんか目指そうと思わなくて良かった、と、記者への敬意をこめてそう思う。

2017年7月28日

盲信禁忌! 『医者は認知症を「治せる」 かかりつけ医に実践してもらえるコウノメソッド』

同僚先生のところに「コウノメソッドをやってください」と希望してきた人がいたらしい。そのときに初めて存在を知り、ネットでちょっと調べて、「ふーん」でスルーしてきた。とはいえ、中身をまったく知らないで無視するのもどうかと思い、読みやすそうな新書を購入。


提唱者である河野先生の考えの柱となる部分にはほぼ全て同意できる。認知症の症状を「中核症状」と「周辺症状」に分け、さらに「陽性症状」と「陰性症状」とに分類して、薬物療法をそれに合わせて変える。これはことさら特別なことではなく、河野先生でなくても認知症診療を一定数以上やっている医師なら当然のように分かっていることだ。河野先生の考えが特別に斬新で革新的ということはない。

河野先生の素晴らしい点を挙げるなら、
認知症治療はご家族のためにこそある。
「介護者保護主義」
患者さんと介護者とどちらが一方しか救えないときは、迷わず家族を救います。
こうやって自らの診療スタンスを明言しているところだ。治療者がこういう言葉をかけることで介護者は大いに救われるし、こころの余裕を少しだけ取り戻せるだろう。そのささやかな余裕が、介護する際のゆとりにつながり、患者への優しさになる。その優しさが患者を少し安心させ、その安心は周辺症状をわずかながら改善する。そういう好循環は大いにありえる。こう書くと簡単なことのように見えるが、実際に患者と家族という二者を前にして、「介護者を優先します」と言い切るのはなかなかできるものではない。

また「アリセプト一辺倒の処方」や「患者をみないで添付文書どおり増量」に対する批判はまったくもってその通りだと思う。このあたりまでは、読みながら大いに頷けることが多かった。河野先生に親近感さえ抱いたほどである。

ところが、認知症のタイプ別処方になったところで、ちょっと距離をおきたくなった。具体的な処方は無料公開されているPDFのコウノメソッド(PDFに直結しないようグーグル検索結果をリンク)に書いてあると思うので触れないが、ちょっとどうかなぁという部分が散見された。

河野先生の言う「認知症は治せる」は確かに正しい。ただし、これは本書にもあるように、「記憶障害や人格変化といった中核症状が進むのはやむをえないが、幻覚や妄想や暴言・暴力といった周辺症状は改善できる」という意味である。そして、「コウノメソッドで認知症は治せる」もおおむね正しいだろう。しかし、「コウノメソッドでしか認知症は治せない」となると間違いである。コウノメソッドでなくても、認知症医療に真摯に取り組んできた医師であれば、同等の効果をもたらす治療は充分に可能である。患者家族がここを見誤って「コウノメソッドでないと治らない」と思い込むと、治せる機会を逃したり、余計な負担を背負い込んだりすることになるかもしれない。

だから、「盲信禁忌」である。

ついでに、河野先生のクリニックを検索すると評判を見ることができた。こういう口コミを鵜呑みにするわけではないが、人気が出て患者が集まって忙しくなると、診療はどうしてもこうなっちゃうだろうなぁ、とは思う。

2017年7月27日

将棋ブームだから読んだってわけじゃないからね! 『運を育てる』『勉強の仕方』


『運を育てる』というタイトルには怪しげなセミナー臭を感じるが、プロ棋士である米長邦雄・元名人による勝負運に関する考察・エッセイである。

もう一冊の『勉強の仕方』は、中高生向けのうさん臭い自己啓発本のようなタイトルだが、一冊まるまる米長邦雄と羽生善治との対談である。

こういう別の分野で活躍しているプロの本を読むのは、精神科医としても、父親としても、得られるものがある。

どちらも将棋のことを知らなくても読めるし、肩の力を抜いた読書時間になった。

2017年7月26日

この自己啓発本を原作にしたハリウッド映画が創れるんじゃないかというレベル 『アメリカ海軍に学ぶ「最強チーム」のつくり方』


アメリカ海軍一のダメ軍艦「ベンフォルド」に艦長として配属されたアブラショフは、任期2年の間にベンフォルドを「海軍でもっとも優秀な軍艦」にしてしまったという。

彼の用いた手法がリーダーシップ論として語られるのだが、骨子としては特別に目新しいことが盛りだくさんというわけではない。それなのにグイグイ読んでしまったのは、それぞれのエピソードが面白かったから。まるでハリウッド映画(それもダメチームが優勝するまでを描く典型的なストーリー)を観ているようで気持ちよかった。

好むと好まざるとに関わらず「リーダー」という立場にならざるをえない人たちには、値段は手ごろで分量が適度で中身も面白い本書を強くオススメ。

<こちらもオススメ>
リーダーの立場にある人は必読!! 『リーダーを目指す人の心得』

2017年7月25日

日本における西洋医学の礎を築いた偉人・松本良順を描く小説 『暁の旅人』


松本良順、と言われてもピンとこない人のほうが多いだろうが、日本における西洋医学の礎を作った偉人で、日本初の軍医でもある。誰でも聞いたことはあるはずの「新選組」の隊士を治療したと聞けば、思わず「へぇ」と思うかもしれない。それ以外にも、滋養のために牛乳を普及させたり、健康増進のための海水浴を定着させたりと、公衆衛生においても業績を残している。

司馬遼太郎の『胡蝶の夢』を読んで以来、松本良順、それから司馬凌海に対しては畏敬の念を抱いていた。吉村昭も松本良順についての小説を書いているということを知り、早速入手して読んでみた。

『胡蝶の夢』に比べると分量は大幅に少なく、駆け足な展開。それでも松本良順の人となりが分かる良い本だった。

2017年7月24日

為末大さんの「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」を弁護しつつ、一つ指摘しておきたい

為末大さんが炎上している。きっかけはツイッターでのこの発言だ。
為末さんのこの発言を敢えて弁護するが、彼はあくまでも「自己責任かつ極端な不健康生活」を対象にツイートをしたのだろうと思う。

ただ、そこで彼に振り返って欲しいのは、いわゆる「アスリート」のストイックなトレーニング生活は、決して健康生活ではなく、むしろ「自己責任かつ極端な不健康生活」になりうるということ。

たから、為末さんは、
「不健康な人の保険料は健康な人も負担している」
これをアスリート仲間にこそビシッと言って、こう付け加えるべきなのだ。
「あなたたちがストイックで不健康なトレーニングに打ち込めるのは、保険料を負担している多くの健康な人たちのおかげなのですよ」

為末さんに反対する人は多かった。そして、『言うに事欠いて「一定数いてもいいが」ですか』という意見に対して彼は、
と答えていた。だが、これはブーメランのように、
「国民の全員がアスリート生活したらもたない」
と返ってくるのではないか。男性が全員力士、女性は全員マラソンランナーの国は、確実に滅びるはずだ。

それから、「不健康な人が一定割合以上になるともたない」というのを突き詰めると、

「一日の睡眠は何時間から何時間まで、食事は身長あたり何キロカロリー、運動時間は何十分、等々、国の発展のため、あるいは国の衰亡を防ぐため、生活を細かく決められ監視される社会」

が見えてくる。まるでオーウェルの小説『1984』のようだ。

おそらく、極端に破滅的な不健康生活(アスリートを除く)をする人は、一定割合以上にはならない。それは、極端にストイックなトレーニング生活を送るアスリートが一定割合以上にはならないのと同じだ。正規分布ではないにしても、「極端」なものが、限られた割合以上にはなることはないだろう。

この話題に関連して「喫煙者からは保険料を多くとるべきだ」という意見についても考えてみる。この意見にはいくぶん賛成でもあるが、「不健康なことを自己責任でやっているから」という理由なら、「月のランニング距離がXキロメートル以上の人」など過度のトレーニングをやっている人からも保険料を多くとるべきだという理屈にならないだろうか……。

個人的には、「不健康生活が医療費を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と警鐘を鳴らすよりは、「コンビニ受診が医療を圧迫しているぞ、このままだともたないぞ」と指摘するほうが事実に近いのではないかと思う。


<参考>
為末大氏「不健康に暮らす人が一定数いてもいいが、その人の保険料は健康な人も負担している」が炎上の件

2017年7月21日

学生、研修医、看護師からベテラン精神科医まで、幅広い層で得ることが見つかるはず! 『統合失調症のみかた、治療のすすめかた』


ツイッターでの情報発信も精力的にされている松﨑先生による「統合失調症の赤本」である。統合失調症の「みかた」と「治療のすすめかた」の二部構成となっており、まさにタイトルのとおりだ。

病気や治療の説明に際して「こういう声かけをしてみては?」「こんな言葉選びはどうかしら?」と具体的に記載されていて非常に実践的である。いずれも患者にとって「侵襲性のない」ものであり、また医師と患者が「普遍的に共有できる感覚」を巧みに言語化してある。しかも、どれをとっても「優」しくて「易」しい。

こういう具体的かつ普遍的な「やさしい言葉」を、日本の精神科医・患者にもたらした第一人者は中井久夫先生だろう。ここで松﨑先生と中井先生を引き比べると、全国の中井久夫ファンや松﨑先生ご自身から叱責を受けそうだが、敢えて一点だけ強調して述べておきたい。

中井先生が示された言葉は普遍的で、現在の精神科医療でもまったく色あせない。とはいえ、精神科の治療は少しずつ進化しており、中井先生がほとんど言及されていない治療法、治療薬もある。「持効性注射剤」がその代表で、これは2週間あるいは1ヶ月に1回の注射で済む治療法だ。これを患者に勧めるにあたって、「薬は1年に365回、注射は1年に12回」「薬を続けることは月1回の注射に任せ、あなたには人生そのものを頑張ってもらいたい」といった、松﨑先生の言葉が参考になる。これらは、中井先生の「薬の飲み心地はどう?」「頭の中が忙しくない?」といった言葉と同じく「次世代に語り継がれていく言い回し」になるのではなかろうか。

褒めてばかりだと良いレビューとは言えないだろうから、最後に敢えて難点を3つ挙げておく。

1.値段が高い。学生でも得るところの多い本であり、また学生や研修医のうちにこそ読んで欲しい内容が含まれているだけに、税込4104円は少々ハードルが高い。俺のこれまでの読書歴で、価値ある内容をふんだんに含んでいるのに、おそらく値段のせいで売れずに埋もれてしまった絶版本を何冊も見てきた。本書がそうならないことを祈る。

2.誤字・脱字チェックが甘い。これは編集者・出版社サイドの責任だ。松﨑先生と個人的にやり取りして、本書完成までの苦労話の一端を教えていただいた。具体的な内容は書かないが、版を重ねることがあるなら、誤字・脱字を徹底的に見直して欲しい。

3.付録DVDがない。松﨑先生は英国・米国の世界大会で優勝した経歴を持つマジシャンでもある。筑波大学の授業では手品を披露されることもあるようだが、その妙技を付録DVDで全国の読者にも届けるべきであろう(笑)

2017年7月20日

沢木耕太郎の執念深さに思わず唸る 『キャパの十字架』


ロバート・キャパといえば有名な戦争写真家である、と思っていたが、妻に聞いたら知らないという。それなら、この写真くらいは見たことがあるだろうと「崩れ落ちる兵士」の写真を提示してみたが、やはり初めてのようだ。おお、世代の差か……、性別の違いか……。

崩れ落ちる兵士(写真)

この写真は1936年、スペイン戦争において撃たれた瞬間の兵士の姿を捉えている、という。ずいぶん前に初めて見たときには、「え!? 本当かなぁ!?」と思った。でも表情も姿勢もやたらリアルだし……。昔から同じ疑問を持った人は多かったようで、沢木耕太郎もその一人だった。

そこで沢木は、この写真を含めたキャパの写真をかなり時間かけて眺めては検証し、スペインには3回も足を運び、誰が、どういう状況で撮ったものなのかを明らかにしようと奮闘する。ネチネチネチネチと、微に入り細をうがって徹底的に考え、調べ上げ、得られた情報をもとにして、さらなる考察を重ねていく。その執念深い姿勢には、畏敬の念すら抱いてしまった。

キャパを盲信せず、しかし否定もしない。沢木耕太郎の絶妙なバランス感覚、さすが一流のノンフィクション作家である。

2017年7月19日

心理的な「壁」の話

・なんにでも壁はある
人が何か行動を起こす時には、ほぼ全てに心理的な壁があると考えて良い。食事や風呂に対してさえ心理的な壁はある。ただ、その壁は低すぎるし、乗り越えることが常習化しているので、食事や風呂への心理的な壁を意識することはほとんどない。時々、シャワーを浴びるのが面倒に感じることがあるが、これも腰を上げるまでが大変で、風呂場まで行ってしまえば意外と体は軽快に動く。この「腰を上げたとき」が、心理的な壁を乗り越えた瞬間である。

・越えるごとに壁は低くなる
心理的な壁を一度乗り越えると、次に同様の場面になったとき、壁の高さが以前より低く感じられる。人間にとって、もっとも高い壁は「人を殺すこと」だろう。故意に人の命を奪った者と接すると、彼らがどんなに反省をしていると言われても、怖い。この恐怖感は、彼らの中の「殺人に対する壁」が低いことを無意識に感じているからだろう。この「心理的な壁」の考え方は、身のまわりの色々な場面に当てはめて考えることができる。たとえば不倫、家庭内暴力、万引きを何度もくり返す人たちは、最初の壁を乗り越えてしまったせいで壁が低くなり、次はもっと越えやすくなり、そうして越え続けるうちに壁を壁とも感じなくなってしまったのだ。

・壁を高くする方法はないのか
低くなった壁を、元の高さに戻す方法はないのか。いや、ある。
「とにかく衝動を一度だけグッと堪える」
これに尽きる。この「堪えること」が難しいから、心理的な壁を越え続けてしまうわけで、そういう意味では、この方法自体が矛盾しているのだが、それでも一度グッと堪えることが大切だ。アルコール依存症を例にすると、飲みたい衝動をグッとこらえる。そうして一日を乗り切れば、翌日は「昨日一日がんばった」という事実が、壁を少しだけ高める。こうして少しずつ積み重ねていって、心理的な壁を高くしていく。
「これだけ頑張ったんだから、ここで挫折したらもったいない」

最初のシャワーの例えに戻ると、寒い冬にこたつの中でゴロゴロしていて、思いきってシャワーのために腰を上げ、冷たい廊下を風呂場で歩いて行って、ようやく服まで脱いだのに、そこでコタツへ引き返す人はほとんどいないのだ。

2017年7月18日

「本当の自分」症候群の人たちへ。見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!

「本当の自分」なんてものはない。あるのは「今そこにいる自分」だけである。

そういう目で、以下の記事を読んでみて欲しい。
若者に広がる「キャラ疲れ」とは?~『キャラクター精神分析』

「『私、キャラ変えしたいんです。このままじゃ、自分が馬鹿になりそう』。山陰地方のある中学校に設けられた相談室。夏の初め、臨床心理士の岩宮恵子さんのもとを制服姿の女子生徒が訪れた」

これは昨年11月20日付の朝日新聞朝刊に掲載された「キャラ 演じ疲れた」という記事の抜粋です。この女子生徒は友だちからツッコまれるのを防ぐために"天然キャラの不思議ちゃん"を演じていたそうなのですが、あまりに「本当の自分」とかけ離れたキャラ設定だったため、それに疲れてしまったというのです。

他にも同記事では、"いじられキャラ"を演じてクラスの居場所を確保したり、"毒舌キャラ"と呼ばれていた女子が、実は「まわりに毒舌を期待されて疲れる」と悩んでいるエピソードが紹介されています。しかし、こうした若者たちの多くは他人のキャラに関しては饒舌に説明できるのですが、いざ自分自身のこととなると「よくわからない」と答えるだけだったそうです。

この「わからない」の意味について、精神科医の斎藤環さんは「みんなからどういうキャラとして認知されているかはわかるが、それが自分の性格と言われてもピンとこない」ということだと指摘します。つまり、"いじられキャラ""おたくキャラ""天然キャラ""毒舌キャラ"など、他人から認知されているこうした「キャラ設定」と、自分が「本当は」こうだと思っている人格との間に「ズレ」が生じているというのです。

しかし、どうして彼ら・彼女らはこのような「ズレ」を受け入れてしまうのか。斎藤さんは「キャラを演じているにすぎないという自覚が、かえってキャラの背後にある『本当の自分』の存在を信じさせ、また保護さえしてくれる」からだと言います。要するに、若者たちにとって「キャラ」とは、自分を偽るものではなく、あくまで守るものとして機能しているのです。そして、あまりにそのギャップが大き過ぎると、「本当の自分」がわからなくなってしまい、演じ続けることに疲れてしまうというわけです。

しかし、彼ら・彼女らは「キャラ」を演じてまで守ろうとする肝心の「本当の自分」について、「よくわからない」としか答えられません。何とも皮肉な話ですが、今の若者たちは自分自身を守ろうとすればするほどそこから遠ざかり、ますます「本当の自分」を見失ってしまうのです。
この記事にあるように、たとえば「いじられキャラを演じている自分」がいるとする。それは「本当の自分」ではないのだろうか。いいや、そうではない。そういうキャラを演じることで、何らかの利益を得ようとしている自分がいて、その希望が叶おうが叶うまいが、その行為に疲れようが疲れまいが、そういうことをしている自分が、まぎれもない「自分自身」なのだ。

どういうわけか、「本当の自分」という言葉や、それに類するものは人気がある。○○占いというものが毎年流行るが、中身を見るとあれは占いではなく、分析もどきだ。誕生日、名前、血液型から、「あなたは○○な人です」と書いてあるだけだ。そして、その中で自分が考えている「こうありたい」と一致する部分を見つけて、「当たっている」と感激したり、「本当の自分はこれなんだ」と自己満足にひたったりする。

「自分探し」もそうだ。そんなもの、探すまでもない。鏡を見る必要さえない。息をしてみれば、そこで空気を感じているのが自分である。

心理テストがもてはやされるのも似たようなもので、自分で自分の深層心理を探ってみたり、友人に試してみたり、そこまでして「本当の自分」(と本人が思っているもの)を知りたいものなのか。あえて「本当の自分」という言葉を使うとしたら、キャラ作りをしているのも「本当の自分」だし、それに疲れているのも「本当の自分」。

あなたはあなた自身でしかありえないなのだから、「本当の自分」を見失うなんてことは、絶対にないんだよ。

見ろ、嗅げ、そして息をしろ。そこに自分があるじゃないか!

2017年7月14日

ある事件の精神鑑定

ある事件の精神鑑定をやることになったときの話。録音された脅迫電話のテープを聞いて欲しいということで、検察から捜査官(?)が携帯用のカセットプレイヤーを持って来た。

再生すると、

「むぉぅしむぉうし、くぉちぃらぁわぁ……」

と、酔っぱらったような、ラリっているような、とても変な声。なるほど、これは不気味な脅迫電話だ。と思ったら、捜査官は「あれ?」という感じで、何度もプレイヤーを確認している。いろいろ試した挙句、

「あぁ……あぁ、あぁ、あぁ……はいはい」

一人で納得して、捜査官、苦笑。そして席を立ち、

「すいません、電池買ってきます」

電池切れかよ!

2017年7月13日

転院するときの紹介状は「おまじない」

患者が遠方へ転居するときに紹介状を作成する場合、最後のほうに「クラシック音楽を愛好されています」「植物好きで穏やかなかたです」「太郎というビーグルを飼って可愛がっておれれます」などの情報も書いておく。たとえ短くても、なるべくそういうことを加えるようにしている。

これは「転院先でもよくみてもらえますように」という祈りを込めた「おまじない」である。

紹介状にこういう一文があるだけで、受け取った医師はその人の日ごろの生活や前医との関係、前の病院の診察室での雰囲気を感じることができる。そして、ちょっとだけ「初診患者への親しみ」みたいなものが芽生える、かもしれない。少なくとも自分なら、そうなると思う。まだそんな紹介状をもらったことはないが……。

このおまじないは、「薬は飲んでいますか?」「眠れていますか」「ごはん食べていますか?」という話だけをしていてもできず、普段の診察で「病気以外の話」をどれだけしてこれたかが問われる。

2017年7月12日

伝えること、伝えるために努力すること

先日、カルテに、
「上記の内容を、あれこれ言葉をかえながら時間をかけて説明したが、理解力乏しく伝わらない」
と書きかけて、末尾を「伝えきれなかった」に訂正した。

相手の理解力の問題で伝わらないのではなく、こちらの伝達力のせいでうまく伝えきれない。

そう考える癖をつけないと、この先ずっと「伝わらない」ままだろう。

日常生活では、5歳の長女と3歳の次女に同じことを伝えるのにも、それぞれに合わせて言葉や口調を変えている。同じ家で生活し、たった2歳しか違わない娘二人に対しても説明のしかたは変わるのだから、異なる生活基盤、幅広い年齢を相手にした診療で、伝わるように工夫を重ね努力するのは当然のことだ。

2017年7月11日

あなたの何げない一言が人を変える

俺は小さいころからよく笑う子どもだったそうだ。もともとの顔が笑顔に近いのだろう。母からは、からかい半分に「仏さん顔」と言われ続けていたし、笑顔でいるのは良いことだとずっと思っていたのだが、小学校のある日を境にして自分の笑顔に対する感覚が変わってしまった。

経緯は忘れたが、5年生のときに担任の女教師から、
「ニコニコとニヤニヤは違うのよ」
ピシャリとそう言われたのだ。11歳の俺には衝撃的だった。そのときの俺は、笑っているつもりなど決してなかったからだ。むしろ真顔だった。多感な年ごろにとって、「ニヤニヤ」というのはイヤらしくて不快な響きがある。だから「俺の顔ってニヤニヤしているのか……」と落ち込んだのだ。

それ以来、どうも笑顔、というか真顔に自信が持てなくなった。どんなに真剣は顔をしていても、「ニヤニヤしていると思われているんじゃないだろうか」という不安がつきまとった。こうして俺は、真顔になろうとするときには、恐る恐る丁寧に真剣に気合を入れて、ちょっと睨むくらいの心構えで真顔をつくるようになってしまった。

そんな俺に次の転機が訪れたのは20歳のときだ。飲み会の席で、
「小学校の時、こんなこと言われたんだよねぇ、ニヤニヤしてるかなぁやっぱり」
と言ったところ、ある人から、
「怒った顔してるより全然いいじゃん」
と返されたのだ。「ニヤニヤなんかしてないよ」と否定するのではなく、「ニヤニヤしていても怒った顔より全然いい」というポジティブな意見は、俺にとっては大いなる救いであった。それからは、「ニヤニヤしていても良いんだ!」という強い思いをもって生きている。そのせいか、よく人に道を尋ねられる。旅行先でも聞かれる。病院の中でも呼び止められる。大いに得しているとは言えないが、少なくとも損はしていないと思っている。

小学校の教師も、大学時代の友人も、どちらも何げなく言ったことだろうが、それが俺の人生のありかたを大きく変えたことは、きっと二人とも知らないはずだ。これは俺自身が誰かに言葉をかけるときにも同じことが言える。願わくば、相手を良いほうに変える言葉を多く発していきたいものである。

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2017年7月10日

「イラク人のために戦ったことなど一度もない。あいつらのことなど、くそくらえだ」 政治的に大義名分を与えられて他国に乗り込む優秀な兵士は、これくらい独善的な単純バカでなければいけないということか…… 『アメリカン・スナイパー』


良質な反戦書である。その理由は最後に述べる。

海兵隊に向けて手榴弾を投げようとする非戦闘員(?)のイラク人女性を撃つシーンから始まる。

そんな衝撃的な描写に引き込まれたが、読み進めるにつれて、独善的な考えを臆面もなく語ることに苦笑を禁じえなくなった。イラク人の戦闘員を「敵」と表現するのは戦争だから当然としても、「悪者」という単語や「悪者をやっつける」という言い回しが頻出するのには驚いた(原文でどうなっているかは不明だが)。「敵にとっては、自分たちこそが“悪者”かもしれない」なんて考えは微塵もない。無邪気に、純真に、まっすぐに、自分たちの敵は「悪者」だと確信している。「優秀な兵士」とは、これくらい「単純バカ」でないといけないのかもしれない。

こんな文章も出てくる。
イラク人のために戦ったことなど一度もない。あいつらのことなど、くそくらえだ。
一兵士としての率直な気持ちなのだろう。とはいえ、ここまであっけらかんと正直に語られてしまうと、あの戦争は誰が誰のために殺したり殺されたりしたのか、そんなことを考えて目まいがしそうになる。

何十人も人を殺すうちに、頭の中でなにかがおかしくなっていくのだろうか。こういう記述もある。
人を殺すのも、それが職業となればそのやり方に創意工夫を凝らすようになる。
(中略)
「まだ拳銃では殺してなかったか? それじゃあいっぺんやってみるか」
(中略)
それがゲームのようになることもあった。
読んでいて一番イヤな気持ちになったのは、逃げた戦闘員を追いかけ単独で民家に突入した場面だ。そこには一人のイラク人男性がポカンとした表情で突っ立っていた。著者は伏せるように命令するが、男性はどういうわけか命令に従わない。そこで著者は殴り倒して取り押さえるのだが、男性の母親が現れてなにやらわめき散らす。ようやく通訳がやって来て、男性には知的障害があるということが判明する。

著者は謝罪したのだろうか? そういう記載は一切ない。それどころか、続く文章ではジョークや笑い話のようなものが記されている。こんなことが許されるのだろうか? 出版前にチェックした軍関係者や編集者は、これを読んでなにも思わなかったのだろうか?

戦争・殺し合いという極限状態で上記のような事態が起こるのはやむを得ない。その場で謝罪する余裕がないのもしかたがない。しかし、少なくとも、執筆時には安全な場所にいたはずだ。だったら、謝罪の一文くらい書いても良かろう。本の中で著者は「非戦闘員を射殺したことは一度もない」と繰り返すが、その労力の一部でも使って、「自分が傷つけた市民への謝罪」を書くべきだったのではなかろうか。「非戦闘員を殴り倒した」ことは確実にあるわけだから。

イラクに住む言葉の通じないその男性に向けて、本の中で謝罪文を書いてなんの意味があるのだ、と反論されるかもしれない。それならば、本の最初に記している「亡くなった友人に心の底から祈りを捧げる」なんて文章にも意味はないではないか。

さて、本書が良質な反戦書という理由についてだ。本書は読み手を惹きつけるが、最終的には戦争に対して不愉快な気分を抱かせる。そこが素晴らしい。戦争反対を強く訴えかけるような本があったとしても、読む気になれない内容では意味がないのだ。本書のように、少し眉をひそめながらも最後まで読み通してしまうものこそ「良質な反戦書」と言える。映画のほうは「戦争賛美だ」「いや反戦映画だ」と賛否あるようだ。クリント・イーストウッドがどのように映画化したのか、確認してみなければならない。

著者のクリス・カイルは本書執筆の一年後に射殺された。

最後になるが、160人の「悪者」を射殺した無邪気なクリス・カイルが、父母を愛し愛された息子であり、弟を持つ兄であり、夫であり、二児の父であり、退役後には傷痍軍人のための活動を熱心にやっていたということも記しておきたい。

160人を射殺した「スナイパー」は、クリス・カイルという人間の一部でしかないのだ。

2017年7月7日

正常と異常の境目にある「夕暮れ症候群」

時間を報せる地区放送が7時、12時、17時45分に流れる。我が家の飼い犬である太郎は、このうち夕方の放送にだけ反応して遠吠えする。日中は平気でも、夜が近づくにつれ不安になって、仲間と声をかけあいたい気持ちが高まるのかもしれない。

ふと、患者さんたちの「夕暮れ症候群」に想いを馳せる。

「夕暮れ症候群」とは、特に認知症の人に多い現象で、夕方になるとソワソワして落ち着かなくなり、ちょっとしたことで声を荒げたり、自宅にいるのに「家に帰る」と言い出したりすることだ。こうした「夕暮れ症候群」は、症状だけを見ると異常である。こういう「通常はないはずのものがある」異常というのは目につきやすい。

しかし、本質的には動物にもある「暗闇を恐れる本能」だろうし、暗闇を恐れることは自然なことである。「夕暮れ症候群」は、その人の心身で「時間感覚」がある程度保たれていて、つまり時間感覚に関しては正常であるということを示しているのかもしれない。

ちょっと与太話にはなるが、学生や会社員などで日中は一人でいても平気なのに、夜が近づくにつれて人恋しくなって、つい、
「飲みに行こう」
なんて声をかけてしまう人というのは、認知症になったら「夕暮れ症候群」で周囲の手を焼くタイプなのかも……。

2017年7月6日

大雑把な福祉の網目からこぼれた人たちの犯生記録 『累犯障害者』

2006年1月7日、JR下関駅が放火によって全焼した。逮捕された福田容疑者は、「刑務所に戻りたかったから、火をつけた」と語った。彼は知能指数66、軽度の精神遅滞であった。
「ところで、どうして火をつけてしまったんでしょうか」
「うーん、店の前に置いてあった紙に、ライターで火をつけて、段ボール箱の中に入れただけ。そしたら、いっぱい燃え出した。駅が燃えると思わんかったから、驚いて逃げた」
手振りを交えて、一生懸命に説明しようとしてくれているが、これでは、答えになっていない。「どうして」というような抽象的な質問は避けるべきだったかもしれない。
「刑務所に戻りたかったんだったら、火をつけるんじゃなく、喰い逃げとか泥棒とか、ほかにもあるでしょう」
そう私が訊ねると、福田被告は、急に背筋を伸ばし、顔の前で右手を左右に振りながら答える。
「だめだめ、喰い逃げとか泥棒とか、そんな悪いことできん」
本気でそう言っているようだ。やはり、常識の尺度が違うのか。さらに質問してみる。
「じゃー、放火は悪いことじゃないんですか」
「悪いこと」
即座に、答えが返ってきた。当然、悪いという認識はあるようだ。
「でも、火をつけると、刑務所に戻れるけん」

精神遅滞、精神障害を抱える人の中には、何度も犯罪をくり返す人がいる。そういう人たちを、「累犯障害者」という。仕事柄、精神遅滞の人と接する機会は多い。さらに、俺がやった精神鑑定における知能検査で精神遅滞が明らかになった人もいる。

彼らの中に「刑務所の中が安住の地」と感じる人がいる一方で、自分たちが刑務所にいることすら分かっていない人たちもいる。
「おいお前、ちゃんとみんなの言うこときかないと、そのうち、刑務所にぶち込まれるぞ」
そう言われた障害者が、真剣な表情で答える。
「俺、刑務所なんて絶対に嫌だ。この施設に置いといてくれ」
悲しいかな、これは刑務所内における受刑者同士の会話である。
また、いま自分がどこにいて何をしているのか分かっていないだけでなく、言葉によるコミュニケーションすら理解できない人もいるようだ。こういう人たちから、どう取り調べをして、どんな裁判をした結果が懲役刑だったのだろうか。

筆者の山本譲司氏も実際に懲役刑を受けている。彼は佐賀県出身で、早稲田大学教育学部を卒業。その後、菅直人の公設秘書、都議会議員2期を経て、1996年に衆議院議員となった。2000年9月、政策秘書給与の流用事件を起こし、翌年2月に実刑判決を受けた。

2004年に起きた宇都宮の誤認逮捕事件。誤認逮捕された精神遅滞の元被告とのインタビュー。
「私も拘置所に入っていたことがあるんですよ。暑い時期だったんで、体中から汗が噴き出てました。でもいまの時期は、本当に寒いでしょうね。あそこの中は寒かったですか」
そう訊ねると、俯いたまま答える。
「うん、寒かった」
さらに、もう一度質問してみた。
「でも、建て替えで新しくなっているところもあるようですし、あそこにいたんだったら、そんなに寒くなかったかもしれませんね」
「うん、寒くなかった」
今度は、反対の答えが返ってきた。だが結局は「オウム返し」なのだ。これでは、取調べのなかで、いくらでも供述を誘導されてしまいそうだ。
こういう人に、どういった取調べが行なわれていたのか、確かに疑問だ。俺自身も何度となく警察から事情聴取を受けたことがある。患者が起こした事件や事故に関して、患者がどういう病気でどんな薬を飲んでいたかなど聴かれる。そのあと警察が供述調書を作成し、その中身を確認してから、印鑑を押す。書いてある内容は、たしかに俺が言ったことではあるのだが、どうも微妙なニュアンスが伝わりきれていないのだ。

また、精神鑑定で被害者や目撃者の証言を読むことがあるが、
「こんな事件を起こした容疑者を厳しく罰して欲しい」
と書かれた供述調書を見ると、本当にそんなこと言ったのかな、と疑わしく思う。
「目撃して怖かったでしょ?」
「はい」
「そうだよね。厳しく罰して欲しいかな?」
「はい」
こんな感じで警察が誘導しているのではないだろうかと勘ぐってしまう。

2004年の『矯正統計年報』によると、新受刑者総数32090人。そのうち22%にあたる7172人が知能指数69以下の精神遅滞で、測定不能の1687人を加えると、3割弱の受刑者が精神遅滞として認定されるレベルである。付言するなら、これは精神遅滞者が犯罪を起こしやすいということを示すものではない。公的福祉がきちんと機能していないことが原因の一つとして大きいだろう。
人類における知的障害者の出生率は全体の2-3%といわれている。内閣府発行の障害者白書によると、平成18年時点で精神遅滞者は45万9千人。
日本の総人口の0.36%に過ぎない。
欧米各国では、それぞれの国の知的障害者の数は、国民全体の2-2.5%と報告されているのだ。
要するに、45万9千人というのは、障害者手帳所持者の数なのである。
現在、なんとか福祉行政とつながっている人たちの数に過ぎない。
本来なら、知的障害者は日本全国に240万人から360万人いてもおかしくないはずである。
結局、知的障害者のなかでも、その8割以上を占めるといわれる軽度の知的障害者には、福祉の支援がほとんど行き届いていない。現状では、軽度知的障害者が手帳を所持していても、あまりプラスはなく、単なるレッテル貼りに終わってしまうからだ。
さすが早稲田の教育学部卒業の筆者だけあって文章は読みやすく、国会議員をしていたからか、事例の紹介や問題提起の仕方が巧みだった。筆者の今後の活躍に期待したい。

2017年7月5日

薬を減らすのがスローペースな理由

長年処方されていて、しかも患者が律儀に飲んでいる薬に関しては、引き継いだ時にどんなに無意味に思えても、絶対に突然中止してはいけない。

患者の体は、その薬を「常に在るもの」として動いているので、突然の中止は体にとっての「急性欠乏」として思わぬ症状を引き起こす。

たとえば、「過感受性精神病」というのがある。長期に精神病を治す薬を飲んでいる人が、急に薬を減量・中止すると、精神病が再発・増悪するというものだ。

せっかく善意から多剤大量を改善しようとしているのに、その方針が過激すぎると、結局は精神病症状の悪化を招いて、
「前医の処方は正しかった」
となりかねない。

減量は良いこと、だが慎重に。

いま、多剤大量になっている入院患者の薬の減量を試みている。これが亀のペースなのは、こういう理由からである。

それから治療薬は、前医との(良くも悪くも)「絆」となっている可能性にも思いを馳せなくてはならない。少なくとも精神科医なら、その配慮を忘れてはならない。

その人の治療歴は、その人の人生の一部である。これを尊重していれば、
「いらない薬だからやめます」
そんな軽い態度で処方内容をコロリと変えるなんてことはしないはずだ。

2017年7月4日

躁うつ病とアルコール依存症だった中島らもの「共病記」 『心が雨漏りする日には』


「心の雨漏り」
さすが、コピーライターでもあっただけに、中島らもは秀逸な言葉を作るものだと感心した。

本書は躁うつ病とアルコール依存症だった中島らもによる闘病記ならぬ「共病記」。教科書に出てくるような、躁うつ病とアルコール依存症の典型的な経過である。躁うつ病に関しては、まず父親も躁うつ病という家族歴がある。それから初診時の診断は「うつ病」で、抗うつ薬を内服して3日で回復という過剰改善(処方されたのがリタリンだったというのも理由かもしれないが)。それから、躁うつ病とアルコール依存症は親和性・併存率が高く、著者もしっかり当てはまっている。こういう経過を面白く読めるので、精神科の初学者には勉強にもなるだろう。

また、反面教師としての精神科医も出てくる。初診時、うつ病と診断した後に「ゲーテもうつ病だった」なんて愚にもつかないことを言い、著者に言われるままにリタリンを処方。最後のほうに出てくる処方内容は混沌としている。そのせいで著者が悩まされた副作用体験も、やはり勉強になるはずだ。

何回も「勉強になる」なんて書くと硬い本だと思われるかもしれないが、誰が読んでも楽しめる内容だし、躁うつ病やアルコール依存症の人や家族が読んだら、「うん、これ分かる!」ということもあるんじゃなかろうか。面白かったですよ。

2017年7月3日

ナチス・オリンピックを舞台にしたスポーツ・ノンフィクション 『オリンピア ナチスの森で』


1936年8月、ナチス政権下のベルリンで開催された第11回オリンピックを舞台に、日本人アスリートたちの勝利や敗北、歓喜や苦悩を描いたスポーツ・ノンフィクション。選手たちが主役ではあるが、挿話的に、オリンピック報道に携わったマスコミ関係者たちに関しても1章を割いてあり、こちらも面白かった。

古い時代の人たちばかりで、選手は誰ひとり知らなかった。知っている名前と言えば、ヒトラーやゲッベルスといったナチスの人間ばかり。それでもグイグイと読ませる筆致はさすが沢木耕太郎。

2017年6月30日

原因や病名を教えたからといって、それで患者が安心するわけではない

「夜中にドーンともの凄い大きな音がしたんです。 驚いて飛び起きたら、コタツはひっくり返され、障子は外されてそこかしこに倒れていて、花瓶もひっくり返って水がこぼれていました。もう怖くて恐くて……、布団に潜り込んで寝ました。朝、目が覚めたら、全部が元通りに戻っていたんですよ」

もし、高齢者からこんな話を聞いたら、あなたはどう答えるだろう? 

幻覚の原因はいろいろ考えられる。統合失調症、夜間せん妄、レビー小体病、その他たくさん。

仮にこの人にレビー小体病という診断をつけるとする。診断はそれでまぁ良い。しかし、病名が分かったとして、それをこの人に説明して何になる? 
「レビー小体病というのがあってね、幻視……、えっと、ないものが見えるのね。それで、その病気の人は元気な時には認知症もないんだけど、悪い時には……」
なんてことを説明されて、この人は自分の恐ろしい体験に納得するだろうか。

こういう訴えをする高齢者の多くは、病気の原因を知りたいわけではない。そもそも、病名にあまり興味がないことさえある。ただただ、安心して眠りたい、それだけ。そういう人に、それは幻覚ですよ、現実じゃないんですよ、と言って効果があるか疑問だが、確かにそれは一つの方法ではある。俺は精神科医だから薬は処方するし、これも一つの方法。病気による幻覚だと教えたり、薬を処方したりする他にも、いろいろ安心させる方法はある。例えば家族だったら、一緒に寝てあげるとか。

こういうものは答えがあるわけではないので、お互いのキャラ、相性などを考えてやってみるしかない。正解も不正解もないかわりに、見渡せばヒントは無限大にある。

最後に、俺がある高齢者にかけた言葉で締めくくる。

「それって、狐か狸に化かされてるのかもしれませんね……、大変ですね」

ただの冗談ではなく、診察室でやり取りするうちに、この人にはこういう言葉も有効だろうと感じたうえでの言葉かけだ。患者はなんだか嬉しそうにウンウンと頷いて笑った。付き添った家族も「そうそう」とほほ笑んだ。「狐狸に化かされているのかも」と答えることで、「その体験の原因は分からないけれど、あなたの言うことは事実として受け取っています」というメッセージを送り、さらに「大変ですね」という声かけで彼女の不安な気持ちに寄り添う。

日ごろやる小精神療法は、だいたいこんなものである。

2017年6月29日

プロ野球2番打者の技巧や心意気に感銘を受ける 『2番打者論』


プロ野球ファンではない人のうち、野球関係の本を読んだ数はきっと俺が日本一だろう。甲子園もプロ野球も観ないし、自ら野球をやるわけでもないのに、どうしてこうも野球の本に魅かれてしまうのか。それはきっと、野球にまつわるあれこれが「人生」や「精神科治療」に通じる部分が多いからだろう。ペナントレース、それぞれの試合、打順やポジションでの役割、個々の選手の生きかたや考えかた等々、野球の本を読むと人生についても治療についても多くのヒントが手に入る。

今回は「2番打者」にポイントを絞ったノンフィクション。プロ野球についてはほぼ無知なので、出てくる選手は知らない人ばかりだ。井端弘和、川相昌弘、新井宏昌、栗山巧、上田利治、箕田浩二、小笠原道大、豊田泰光、田中浩泰、本多雄一、田口壮。改めてこうして並べてみても、知っている名前は皆無である。かろうじて川相の名前を聞いたことがあるくらいか。そんな俺でも楽しく読めるのだから、野球関係のノンフィクションは不思議なものである。

2017年6月28日

不登校や登校しぶりの相談について

不登校や登校しぶりの相談について、
「いちは先生の外来を受けさせたいけれど、他の先生にまわされてしまう」
という話を妻経由で聞いた。これについて、不登校治療に関する考えと合わせて妻に語っていたら、できれば他の人にも教えたいから文章にしておいて欲しいと言われたので以下記載。

俺は児童思春期の専門ではないが、なんでもみないといけない状況なので、これまでずっと不登校もみてきた。いまも受診希望を断っているわけではない。ただ、予約なしの場合が多いので、
「何月何日の何時からであれば時間がとれるから予約を入れましょう」
と提案しても、「今日じゃないとダメ」「せっかく来たんだから」と当日希望する親御さんが多いので、それなら空いている先生にみてもらいましょう、ということになるだけである。

都会の児童思春期専門の精神科だと、予約が半年待ちということは珍しくないが、うちはせいぜい数日後である。そしてその「数日が待てない」ということは、子どもが不登校になってしまったことと底のほうで薄らとつながっているかもしれない。これはそれぞれの親御さんに、自分たちの姿勢を少し振り返ってみて欲しいところ。

さて、治療が始まって多少なりとも経過が良くて、学校に少しずつ行けるようになってくると、次回外来の予約をとるときに親御さんから、
「次は学校の授業が終わってからの、夕方4時過ぎでお願いします」
と希望されることが多い。しかし、俺はたいてい断る。

「この子はいま“不登校の治療”というとても大きな仕事をやっているところです。ちょっと学校に行けるようになったからといって気を抜いて、学校優先になって、治療という大切な仕事を二番目に格下げするのはもったいないのではありませんか」
「どうにか学校に行き始めた子にとって、“病院の受診”という大義名分で学校を休める一日はとても貴重な、こころ安らぐ時間ではないでしょうか」
「どうしても学校を優先してしまう、そんな学校第一主義のようなところが親御さんのほうにあって、もしかするとそれが今回の不登校とどこかでつながっているのかもしれません」

そんな話をすると、ハッとしたように何かに気づいて納得する親御さんもいれば、それでも「不登校が治ったのだから」と学校を優先させる親御さんもいる。そのあたりは教育観、人生観の違いもあるだろう。

先に書いたように児童思春期の専門ではないし、自らの治療技術の優劣は判断しようがないが、治療者の大切なポリシーとして、
「不登校はなおった、卒業もできた、でもその後はずっと引きこもり」
というよりは、
「あれこれ考え中退した、そしていまはアルバイトに精を出している」
のほうが良いと考えている。

不登校治療のゴールは「学校に行くこと」ではない。ではゴールはなにかというと、「自分に合った社会へのスムーズな“着陸”」である。学校卒業を「社会へ飛び立つ」と表現することも多いが、実際には、思春期・青春期はフラフラと危なげに空を飛びながら、自分に合った環境の着地点を探す時期である。

そして、不登校児と保護者へのサポートでもっとも大切なのは、「学校に行くことより、将来の着地点探しが重要」と気づいてもらうこと。これに気づくだけで一気に視野が開けて良いほうに向かう子や家族もいる。その次に大切なのが「一緒に考える」。一番最後にくるのが「医師のアイデアや知識を提供する」だが、与えてもらったアイデアや知識なんてものはたいてい現実味がなくて、子や親にも(そして提案した主治医にも)実現イメージがうまくわかないものである。だから不登校治療で主治医やカウンセラーに「具体的な答え」を求めるのは無益なことが多い。

「着地点について、一緒に考え、ともに探しましょう」

これに尽きる。

市川海老蔵さんが「ブログ更新しすぎ」と批判されるのはおかしい。現代の服喪として「喪ログ」「喪イッター」はもっと認知・受容されるべきである!

市川海老蔵、ブログ“更新しすぎ”批判の声に「許してください」

ブログやツイッターによる「喪ログ」「喪イッター」(俺造語)は、現代における服喪の一つとして認められるべき、実に意義のあるものだ。

最愛の祖父や敬愛する放射線科医長が他界した際には、あれこれと文章を書いた。書くことで気持ちが整理され、思い出が文章として刻まれ、数年たって読み返したときにも「書いて良かった」と思える。

辛いときだからこそ、書いて送信して、書いて送信して、コメントもらって慰められて、癒されて、安心して、でも、ふと気を抜くとやっぱり寂しくなって、切なくなって、つらくなって、また書いて送信して、書いて送信して……。

この行為の、どこに責められるべき部分があるというのか。

2017年6月27日

家族参観で、長女と次女の成長ぶりに感心した

平成29年6月25日は、長女サクラの通う幼稚園の家族参観日だった。たまたまサクラの「お当番」の日で、朝から級友の前に出て挨拶や点呼をしていたが、俺や妻のほうは絶対に見ようとしなかった。特に俺の姿を見るとダメなようで、妻には「隠れて!」と言われてしまった……。パパはサクラの勇姿を見たいんだよぅ……。

その後、家族もまじえたレクリエーションがあった。3学年ある園児を全員集めても30人足らずという田舎の幼稚園なので、まだ入園していない次女ユウもサクラと一緒に並んで座ったり参加したり、わりと自由だ。こういうところは田舎の良い点だろう。

先生が前で話をしている間、キョロキョロしたり、隣の子と喋ったり遊んだりしている子も多かったが、サクラもユウもいわゆる「体育座り」をして身じろぎ一つしなかった。これは見ていて感心した。ユウは一学年上の年少さんたちより落ち着いて見えた。修身教育なんて、我が家ではやっていないんだけどな。
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さらに遊びの最後に、みんなの前で自己紹介をするものがあって、試しにユウにマイクを向けてみた。どうせ照れて何も言わないだろうと思っていたら、
「★★ユウちゃんです。よろちくおねがいちます」
なんて言うではないか!!

家でのサクラは落ち着きがないし、こちらが言ったことの半分くらいしか聞いていないし、ユウはまだまだ甘えん坊だし、あれこれ心配することが多かったのだが、家族参観で頑張っている二人の姿を見てちょっと安心した。二人とも、ちゃんと成長しているんだね。

2017年6月26日

名人・米長邦雄による人生の勝負指南 『人間における勝負の研究』


名人棋士・米長邦雄による勝負をテーマとしたエッセイ。エッセイにありがちな「何かの雑誌の連載をまとめた」というものではなく、おそらく書き下ろしで、だから一気に読んでも疲れなかった。短文をまとめたエッセイは、まとめて読むと疲れるものである。

読んでいて、ナルホドと思うことも多々あった。精神科医療にも通じると感じる部分もあった。

たとえばプロ棋士は、決して全部の手を読んでいるわけではなく、読まない手、つまり捨てる手の判断が迅速かつ適切なので、読むべき手に時間と集中力をかけられる、という話。あるいは、「カンは、努力・知識・体験のエキス」であるという話。こうしたことは、将棋でも精神科の診察室でも、それから日常生活でも同じことが言えるのではないだろうか。

米長棋士の語る「女性のありかた」については、きっと多々批難されそうではあったが、それもまぁご愛嬌というところ。著者の兄は三人とも東大卒業ということで、きっと地頭が良いのだろう。文章は読みやすく、感心させられるものだった。

2017年6月23日

てんかん、気分障害で用いるバルプロ酸(デパケン、セレニカ等)を内服中の女性にとって大切なこと

てんかんや躁うつ病の治療のためバルプロ酸(デパケン、セレニカ等)を内服している妊娠可能な女性は、児の神経管欠損を防ぐため「少なくとも受胎1ヶ月前」から葉酸を「1日5mg」摂取する必要がある。5mgとは、つまり5000μgであるが、市販のサプリは1日量で400μg。必要量の10分の1もとれないのだ。内服している女性や家族は「必ず」主治医に確認して処方してもらおう。

また、医師においては、バルプロ酸を自分が処方しているわけでなくても、妊娠可能な女性で内服している人を見つけたら、葉酸が処方されているかを確認すべきである。そして万が一にも葉酸の未処方例を見つけたら、処方医に指摘するか、自ら葉酸を処方するかしよう。これは、非常に簡便かつ効率的な「予防医療」である。決して「市販の葉酸サプリを飲んでおきましょう」なんて指導をしないように。

これはあくまでも「バルプロ酸内服中」の女性の場合であって、バルプロ酸を飲んでいない人が葉酸を1日5mgも飲むのは過剰摂取になるので注意。

2017年6月22日

ERの原作にもなったマイケル・クライトンの医療ノンフィクション 『五人のカルテ』


医学生時代、なけなしの金でアメリカのテレビドラマ『ER』のDVDを購入し、何度も繰り返し観た。最初は日本語の吹き替えで、2回目からは英語音声、日本語字幕。何回か繰り返して、今度は英語音声だけにした。そうこうするうちに、医療現場での定番英語ならなんとか聞き取れるようになった(いまはもうダメ)。

当時、原作があると知って本書を読んだ記憶があるが、あまり面白さが分からず投げ出した。今回、15年ぶりくらいに読んでみると、学生時代にはピンとこなかった話でも、現場を多少は知っているからか身近に感じられて、最後まで飽きずに読むことができた。

1970年に書かれたものなので、医療行為の中身はちょっと古い。また、いまのアメリカとでは社会背景もだいぶ違っている。ただ、医療には時代を問わず通底するものがあるので、古文書を読んでいるような気分にはならない。

改めて、『ER』を観たくなった。

2017年6月21日

感動なんてない。ただひたすらの悲哀、憤り、虚無 『津波の墓標』


『遺体 震災、津波の果てに』では、東日本大震災後における遺体安置所でのエピソードを中心に描いてあった。本書では、筆者が当時取材したが文章化していなかったものを記録してある。

中身は、暗澹とした気持ちになるような話ばかりだ。

木の枝にぶら下がっている母親の遺体を見上げる男の子。魚に食べられた遺体を見て以来、魚を食べられなくなった小学生。派遣された自衛隊隊員をアイドルのように感じる若い女性被災者たちと、もてはやされる隊員たちに苛立ちを感じる若い男性被災者たち。どこそこに幽霊が出たと聞くと、自分の家族の霊かもしれないと思って一斉に駆けつける人たち。ピースサインで写真を撮るボランティア、彼らに憤然とする被災者。若い女性ボランティアの体を触るなど理不尽な行為におよぶ被災者。被災地に残る夫、去っていく妻。

マスコミで取り上げられる感動的な復興エピソードの裏には何十万もの悲哀があり、同じだけの憤り、虚無があり、そしてギスギスドロドロとした人間模様がある。そうしたことが赤裸々に語られる。涙よりも、ため息を呼ぶ、そんな本である。

2017年6月20日

「子どもを殺してください」 精神科医ならたいてい一度は言われたことがある…… 『「子供を殺してください」という親たち』


ショッキングなタイトルではある。しかし、実際にこれと似たようなことを言われたことのある精神科医は多いのではなかろうか。

「副作用で死んでも良いから、落ち着くよう大量の薬を出して欲しい」
「楽に死なせるような薬はないですか」
「いっそ死んでくれたら良いのに」

発言者は両親であったり、兄弟姉妹であったりする。本人の前で吐き捨てるように言うこともあれば、主治医と二人きりになった時にボソッと呟くこともある。いずれにしても、たいてい半分は冗談である。しかし、つまり、半分は本気だ。

本書は民間の「精神障害者移送サービス」を経営する押川剛によるノンフィクションだ。およそ半分を割いて7つのケースについて紹介・描写してある。いずれも精神科従事者にとっては珍しくない光景だが、一般の人からすればショッキングな部分もあるだろう。あるいは身近に同様の患者がいる家族なら、「分かる……」と頷いたり、場合によってはこの会社の連絡先を調べたりするかもしれない。

それぞれ極端な例であるため、「精神科患者は危険だというレッテル貼りにつながる」といった批判も浴びているようだ。しかし、「精神科の病気は真面目で良い人がなる」というのも、逆の意味での間違ったレッテルではなかろうか。「真面目な人がなる」というのは耳に心地良いが、実際には誰もがなりうるもので、不真面目な人も、人格に大問題のある人でも、精神科の病気になる可能性はある。だから、本書で紹介されるケースは極端ではあっても、現実の一部であると認めなければならない。

本書の後半では、著者が精神保健福祉に対する思いを語っている。賛否両論とまではいかなくとも、読む人の立場によって賛同したり納得できなかったりする部分があるだろう。

批判も受けている本だが、精神保健医療・行政に少しでも関心を持ってもらえるなら、それなりの存在意義はあるはずだ。また、こういう人たちが家族を支えないといけない状況には、精神保健医療・行政に少なからぬ責任があるはずだ。互いに批難しあっていても進歩はない。患者も家族も救われない。うまく利用しあえる日が来ると良いのだが……。


※本を読むのが苦手という人にはマンガもあるので、試しにどうぞ。こちらもやはり批判は多いけれど。
「子供を殺してください」という親たち

2017年6月19日

家族で北海道旅行

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平成29年6月12日、新千歳空港に降り立ったのは15時ころだったか。レンタカー会社のバスを待つために日陰に入ると……、寒い。いやー、実に北海道らしくて、良い! なんて喜んでいる場合ではなく、娘たちに用意していたジャンパーを着せた。

レンタカーを借り、いざ最初の目的地の苫小牧へ。苫小牧は友人の出身地で、そこを見てみたいと思ったのだ。借りたステップワゴンのナビに目的地を入力すると……、45分くらいかかる……。往復1時間半か……。初日の宿泊地は旭川。しかも富良野や美瑛を経由してなので、スムーズにいっても180km、3時間の旅である。新千歳から直接行っても、到着が19時前、苫小牧に行くとなると21時近くなるかもしれない……、子連れには無理だ―!

ということで、苫小牧は諦めて、いざ富良野、美瑛、そして旭川へ!!

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富良野は見通しの良すぎる一直線がひたすら続いて、交差点に何か盲点というか落とし穴というか、そういう事故が起こるのではないかとドキドキしてしまった。

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道ばたにラヴェンダー、と思ったら、ルピナス、らしい。うーん、花音痴には違いがわかりにくい(^_^;)

ここからの写真は美瑛。特に、タバコの名前のついた丘。

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ようやくホテルに着いたときには、もうクタクタ。
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ホテルWBFグランデ旭川のファミリールーム。ベッドと和室があって、広くて、居心地が良い! 

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朝、ホテルの部屋からの眺め。朝風呂に行った大浴場にはジェットバスがあって、平日のせいか貸し切り状態で、長女と二人で最高の風呂タイムだった。

この日は「あさひやま動物園」へ。道中、写真を撮りながら。

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旭川市にあるのに、なんで「あさひかわ」動物園じゃなくて、「あさひやま」動物園なんだろうなぁ、なんて思っていたが、着いて納得。

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山を利用して作られているので、園内は上り坂だらけ。そのかわり眺めが良い!

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休憩で食べたソフトクリーム。せっかくの北海道旅行だったのに、まともに食べたソフトクリームはこれだけ……。

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下から眺めるペンギンは気持ちよさそうだった。

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長女は動物園より水族館のほうが好きで、あさひやま動物園には水族館のようなところもあって良かった。

動物園を終えて、今度は小樽へ。ナビによると190km弱。2時間のドライブだ。


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日本最北のサービスエリアで休憩。

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ホテルノルド小樽に着いたのが19時半。

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真昼の小樽港。

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小樽運河。

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小宮線跡地。

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次は、おたる水族館。小ぢんまりとして、まわりやすい水族館だった。皮肉ではなく、わりと好き。

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隣接する、これまた小ぢんまりした遊園地。長女も次女も、それに妻も、楽しく遊べた。そんな彼女らの姿を見る俺も、かなり幸せだった。

そして、今度は札幌へ移動。イビススタイルズ札幌に宿泊。
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この日は近くの神社のお祭りで人が多かった。

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翌日は北海道グリーンランドへ。

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この写真を撮った直後、スマホを落としてしまった……。コンデジも持って行ったので写真はあるが、時間の都合上、ブログではスマホ写真のみ。

遊園地に行く前、長女と次女がずっと「オバケやしきにいく!」としつこかったので、真っ先にオバケ屋敷へ。トロッコに乗ってまわるタイプだったが、隣に座った長女は耳をふさいで目を閉じて、完全防御態勢だった(笑) オバケ屋敷は俺も苦手で、ちょっと怖かった。

子ども用のジェットコースター、回転遊具、観覧車など遊びまわったが、途中から小雨が本降りに近くなった。それでもカッパを用意していたので、めげずに遊ぶ我が家。閉園ギリギリの17時まで乗りまくった。俺と妻と二人で、大人用のジェットコースターにも乗った。他のお客さんがほとんどいなかったので待ち時間ゼロ。各遊具の係員のオジサンたちも親切な人たちばかりで、とても良い遊園地だった。

帰りには新千歳空港で買い物をしたが、空港内のショッピングセンターの充実度に驚いた。噂には聞いていたが、ここまでとは予想していなかった。お菓子などの試食もたくさんできて、新千歳空港ショッピングセンターの意気込みを感じた。

これまで沖縄に2回行ったが、妻としては沖縄より北海道のほうが家族旅行として好きな様子。これには俺も同感。6月の北海道で、気候・天候ともに良かったというのもあるだろう。今度は旭川に連泊したいと語り合っている。