2016年3月31日

グロテスクな部分あり注意!! 『死体の犯罪心理学』


東京都の監察医であった上野正彦による、犯罪に巻き込まれた人たちの遺体状況から読み解く犯罪者心理の本。

いわゆる「メッタ刺し」や「バラバラ殺人」と聞くと、凶悪な犯人像を思い描かせるが、実際には気弱な人による犯行ということが多いそうだ。相手からの反撃が怖いからこそメッタ刺しにしてしまい、また恐怖心から死体を遠くにやりたくて、そのためにバラバラにする。そう言われると、ナルホドと頷いてしまう。

ただし、著者自身が本書で何度か「自分は精神・心理の専門家ではないので分からないが」と書いているように、読んでいて「それは明らかに違う!」とツッコミを入れたくなる部分もあったが、全体としては非常に興味深く読めた。とはいえ、被害者や遺族のことを思うと、胸が苦しくなるような話ばかりである。

記憶に新しい事件が多く、しかも犯人が捕まっていないものがいくつかあり、そういう連中が今も社会をウロウロしているのかと思うと背筋が寒くなる。グロテスクな内容が苦手な人だと、ちょっと気持ちの悪くなる箇所もあるので注意が必要。

2016年3月30日

生活保護の福祉担当者と受給者をめぐる連作短編集 『死神』


生活保護を担当する福祉職員たちを主人公にした連作短編集。篠田節子はストーリーの組み立ても上手く、また人物描写も巧みなので読んでいて飽きることがない。

これまで読んできた篠田作品のほぼ全てで、ホロッとなることはほとんどなかった。本作でも、生活保護をめぐる厳しい現実と、呆れるくらいだらしない人たちの様子をビシビシと、時にはこちらが痛快になるほど切って捨てるように書き上げる。その思いきりの良さに好感が持てる。

また、本作にはホラーのような話も少しだけ入っており、それが「どうだ怖いだろう」と押しつけてくる感じではなく良いスパイスになっている。今後も良い作品を書き続けて欲しい、好きな作家の一人である。

2016年3月29日

自閉症の当事者にも、家族にも、援助者にも読んでみて欲しいお勧めの本 『自閉症スペクトラムのある人が才能を活かすための人間関係10のルール』


著者のテンプル・グランディンは自閉症で、コロラド州立大学で教鞭をとっている。彼女は家畜施設の設計をする動物学者としても有名で、アメリカの家畜施設のかなりの部分に彼女の設計が取り入れられているそうだ。

もともと彼女のことはテレビのドキュメンタリーで観たことがあり、以前から興味があった。自分の全身を締めつける道具を開発して、そこに挟まっていると落ち着くのだと言っている姿が印象的だった。

もう一人のショーン・バロンも自閉症である。

本書では、まずテンプルとショーンがそれぞれの生い立ちを語るところから始まる。そして、その冒頭だけで「自閉症は多様である」ということがよく分かる。それから各ルールについて、互いの考え方・感じ方を述べてある。

2800円とやや高価だが、ページ数は430ページにもおよぶ厚めの重い本で、分量からすると割高感はない。また、使われている言葉は平易で、翻訳も読みやすく、苦労なく読み終えることができ、充分に参考になることを考えると、質的にも相応の値段と言える。

参考までに「10のルール」を引用しておく。ただし、実際に中身を読まないと、きちんと理解することは難しいだろう。
  1. ルールは絶対ではない。状況と人によりけりである。
  2. 大きな目でみれば、すべてのことが等しく重要なわけではない。
  3. 人は誰でも間違いを犯す。一度の失敗ですべてが台無しになるわけではない。
  4. 正直と社交辞令とを使い分ける。
  5. 礼儀正しさはどんな場面にも通用する。
  6. やさしくしてくれる人がみな友人とはかぎらない。
  7. 人は、公の場と私的な場とでは違う行動をとる。
  8. 何が人の気分を害するかをわきまえる。
  9. 「とけ込む」とは、おおよそとけ込んでいるように見えること。
  10. 自分の行動には責任をとらなければならない。
自閉症の当事者にも、家族にも、援助者にも読んでみて欲しいお勧めの一冊。

2016年3月28日

残念ながら、チープな設定がチープな展開を決定づけたと言わざるをえない 『歓喜の仔』


『包帯クラブ』で天童荒太を知り、また感銘を受けたので『悼む人』『永遠の仔』『家族狩り』なども読み、この小説家は寡作ながら良いものを書くと思っていた。しかし、残念ながら本書はとても良い作品とは言い難い。

特に中盤過ぎ、幼稚園生である妹の香が仲間と福島まで新幹線で行くくだりは、どうでも良いような出来事がダラダラダラダラと詳述され、読むのが非常に辛かった。また、小学校入学前の子どもたちの行動としてはあまりに不自然というか、ませているを通り越して非現実的なほど大人びていて、こんな子どもたちはいないよ、と苦笑するばかりであった。

とはいえ、さすが天童荒太。17歳の長男・誠の心理描写にはグッと迫るものがあった。小学6年生の次男・正二については、やや大人びているものの、非現実的とまではいかない程度。

音楽(耳)を失った長男、色(目)を失った次男、匂い(鼻)を失った長女という設定が、なんだかロールプレイングゲームのキャラ設定みたいで、すでにその時点で全体がチープになることが決定されていたのではないかと思うような話だった。

中盤以降は斜め読みで辛うじて読み終えた本で、まったくもって勧められない。

2016年3月25日

勤務医は「水」のような存在であるべし

ひどく喉が渇いている人の目の前に「飲料」と書かれた自販機がある。ただし、買ってみるまで何が出てくるか分からない。水か、お茶か、コーヒーか。もしかすると、炭酸ジュースかもしれないし、暖かいコーンポタージュかお汁粉が出るかもしれない。酒の可能性だってある。

病院を受診した患者にとって、医師との出会いはこの自販機のようなものである。だから、若手医師はまず無味無臭の水になること、そして水のままでいることを意識しておかなくてはいけない。炭酸飲料みたいに刺激的な先輩や、上質のコーヒーのように味わい深い大先輩に憧れることがあるかもしれないが、そんなところは目指さなくてよろしい。というより、勤務医である限りは、なるべく水であり続けるほうが良い。

もしもコーンポタージュのような診療がしたければ、開業して自らの味を追い求めていけば良い。そういう診療所は万人向けにはならないにしても、美味しいコーンポタージュを飲みたい人が集まるクリニックになるはずだ。

たとえ努力して水のような医師になれたとしても、熱いぬるい冷たいと文句を言ってくる人は必ずいる。お好みに合わせて温度を変えたとしても、今度は軟水だ硬水だとクレームをつけられるだろう。だから、熱くて飲めなかったり、冷やしすぎて凍ったりしない限り、細かい注文に惑わされる必要はない。

渇き人には、普通の水こそ何よりありがたいのだ。

当たりハズレのない平凡さ。

それは、勤務医にとって大きな武器になる。

2016年3月24日

一般向けとしても良書であるだけに3200円という値段が残念。 『誤診のおこるとき』


味も素っ気もない、ちょっと古臭ささえ感じるカバーである。改訂版前の初版が1980年であるから中身も……、と思いきや、ぐんぐん読み進められる簡潔明瞭な文章と、読み進みたくなる内容の面白さで、あっという間に読み終えてしまった。

初版時の副題は「早まった了解を中心に」であったそうだが、これは今現在も充分に通用するテーゼであるし、敢えて「精神科診断の宿命と使命」に換える必要はなかったのではないかと思われる。

改訂版では大幅に加筆修正をしてあるようだ。改訂執筆当時に70代後半であっただろう著者の山下先生のバイタリティには、ひたすら感服するばかりだ。若手から中堅の精神科医が読むのに適している本で、山下先生も初版の前書きで、
若い精神科医、あるいは精神医学に興味を持つ学生諸君が、休日のつれづれに寝転んだまま一日で読み終えて、翌日からの診療にすぐ参考になる本という難しい課題を念頭に置きながら、この小冊子を書いた。
と述べられているそうだ。医師以外が読んでも充分に楽しめる本であるが、難点を一つ挙げるなら3200円という値段である。これが半額くらいまで安ければ、一般の人たちにまで読者層を広げられたと思うだけに残念。

2016年3月23日

「てんかん診療には自信がありません!」と、自信を持って言えるようになる不思議な本 『ねころんで読めるてんかん診療::発作ゼロ・副作用ゼロ・不安ゼロ!』


不思議な本である。

何が不思議かというと、てんかん診療に関する本なのに、読み終えると、

「てんかん診療には自信がありません!」

そう自信を持って言えるようになるのだ。ところが、これまた不思議なことに、「自信がない」と自信を持って言えるようになったのに、実際のてんかん診療に関しては、今までよりも安心して取り組めるようになる。

こんな珍妙な体験は初めてだ。

著者の中里先生は東北大学てんかん科の教授で、ツイッターでも精力的に情報発信されている。また、発信だけでなく、患者側からの情報も収集されており、個別に返信したり、新たな情報発信のキッカケにしたりされている。東北大学の教授であるにも関わらず、どこのウマの骨とも分からないような俺の発言や質問にも応じてくださる。かなりエネルギッシュな先生である。

本書の冒頭で中里先生が、
「てんかん診療は、てんかん専門医でさえ一人で解決することは不可能」
と言い切っておられる。この言葉が、てんかん診療に携わる一般精神科医をどれほど勇気づけることか! 

それから、本書を読めば、一般医が専門医に紹介した時には、「過去の治療歴の問題にも驚くことなく」患者を暖かく迎えて精査してくれることも分かる(精神科医として他科の向精神薬の使い方に辛辣な自分を反省)。てんかん治療が上手くいかない時、自分一人で抱え込んだり、長期間にわたって粘ったりする必要なんてない。気負いすぎた善意や余計なプライドで、患者の人生の邪魔をしてはいけない。

こうしたことを、「ねころんで読める」くらい平易に、時間さえとれれば1日かからずに読み終えるくらいコンパクトに、そして一般医の自尊心を決して傷つけることのないように温かく解説してある。

てんかん診療に従事せざるをえない一般医には必読の書であるし、題名を略した『ネコテン』の愛称で広く普及することを願う。

<関連>
患者・家族が読んでも非常に分かりやすい専門書 『「てんかん」のことがよくわかる本』

2016年3月18日

嫉妬妄想に対する精神療法

夫から嫉妬妄想を抱かれている初老の女性が単独で初診。夫を連れてくることはできないので、自分の悩みを聴いて欲しいということだった。

「みのもんた外来」とでも名付けたくなるような、語らせて、頷いて、尋ねて、頷いて、聴いて、頷いて、最後にこちらが語りかける、そんな診察だった。

こういった夫の嫉妬妄想で困っている女性に対しては、
「人間は歳をとると、一番大切なものに妄想を抱くんですよ。だから、男性は奥さんが浮気しているという“嫉妬妄想”になっちゃう。ちなみに、女性は財布とか通帳とかを盗まれるなんていう“もの盗られ妄想”が多いみたいですね」(※)
と、少し茶目っ気をこめた声で話す。するとハッとしたような顔をして、「実は……」と二人の古き良き時代、とても愛されていた時の思い出などを話される。

こうした嫉妬妄想の治療は薬物療法がメインだが、あえて精神療法のようなものを取り入れるなら、

1.妄想にウンザリしている妻に、「あなたが好かれているからこそ」であることを伝える。
2.「夫は、『大好きなあなたから浮気されている』と確信して苦しんでいる」ということを知ってもらう。
3.妻のウンザリしている態度や雰囲気は夫の不安感を強め、ますます妄想を強固なものにする恐れがある。
4.その反対に妻の余裕と親しみは夫の安心につながり、妄想を和らげる効果があるかもしれない。

こういう具合に、妄想を抱かれているほうへの慰撫と提案になるだろうか。

今回の診察も、夫の辛さにも気づいてもらえて、妻の涙とともに終了。
「心に余裕ができました」
「その余裕を、ぜひ、ご主人さんにも持ち帰ってあげてください」
それ以後、彼女は診察に来ていない。二人で仲良く暮らしていらっしゃると願いたい。


ちなみに、夫の嫉妬妄想が改善したせいで、逆に寂しくなっちゃう奥さま方も少なからずいて、ほほえましいやら難しいやら(笑)


※ あくまでも精神療法の一環としての「半分冗談」というやつだが、半分は真理が混じっていると思う。

2016年3月17日

生と死、健康と病気、それから安楽死について

後輩が20歳の若さでガンで死んだの見て安楽死は必要だと思った

癌の安楽死を認める → ALSは? → 認める → 以下膨大な数の疾患は? 

と範囲が広がっていくのが怖い。

苦しくて死ぬのが確実ならば、安楽死は許されるのか? 
死が確実なのは、すべての人間に当てはまる。

ということは、問題は苦しみのレベルか?

では、うつ病はどうだ?
重症だと、首つりや飛び降りなど自殺を選ぶほどの苦しさだ。
それほど苦しいのなら、うつ病患者が望めば安楽死させる方が良いのか?

治る見込みがあるのだから安楽死させるのはおかしい?

だったら統合失調症はどうだ?
治る見込みのない統合失調症患者が、幻覚や妄想に苛まれて自殺を選ぶことは少なくないが、彼らが安楽死したいと言ったら認めるのか?

癌と違って、耐え難い痛みが肉体ではなく、こころの苦しみだからダメなのか?

では線維筋痛症はどうだ?
未だ確たる治療法も見つからず、しかし重症だと痛風以上に、息を吹きかけられるだけで叫ぶほどの痛みを感じるという彼らには、末期がん患者と同じように安楽死の権利があるのか?

そう簡単に答えなんて出ない、というより正解がない。

それでも我々医療者は、生について、死について、健康について、病気について、問い続けなければならない。そういう職業である。

「健康に生きる」
「病いとともに生きる」 
「健康なのに死ぬ」
「病いによって死ぬ」

この中で「健康に生きる」ことだけが絶対正義だと思っている医療者には、自分が病気になってもかかりたくない。

サクラとギター

俺がギター弾いて歌っていると邪魔していた長女サクラも、だいぶ成長してきて、
「一曲だけ歌わせて」
とお願いすると、
「うん、いいよ」
と言って黙って聴いていてくれるようになった。調子に乗ってもう一曲歌おうとしたら、
「もう! うたいすぎ!」
と怒られてしまった。

そんなサクラ、最近はウクレレを持ってギターのマネごとをするようになった。そこで子ども用のギターを買ってあげたいと考え、シマムラ楽器に行ってみたがちょうど良いのがなかった。

昔から俺が個人的に気になっているこのギターを買おうか迷い中。どうやらかなりタフに創られているみたいだし、非常に小さくて軽くてどこにでも持って行ける気軽さも良い。前に楽器屋で弾かせてもらったが、このボディなら音はまぁこんなもんでしょう。

2016年3月16日

境界性人格障害って、やっぱり難しい人たちだ…… 『境界例』


これまで自分自身で患者に対し「境界性人格障害」と診断をつけたことがなかった。というのも、指導医の教えがあったからである。

「ボーダー(境界性人格障害)という診断はなるべくつけない方が良いよ」
「それはどうしてですか? 医師や看護師から偏見に満ちた扱いを受けるようになるからですか?」
「うん、確かにそれもある。ただそれ以上に、診断をつけた自分自身がキツくなってしまうんだよ。ボーダーとつけると、どうしても陰性感情(ネガティブな感情)が芽生えちゃうでしょう。そういう感情を持つと、自分自身がキツくなるよ」

境界性人格障害という言葉が広く定着した現代において、この診断名そのものに、医療者のネガティブ感情を呼び覚ますような響きがあるのは確かだ。というより、境界性人格障害と診断するにあたって、自らの中に芽生える「他の患者にはあまり感じないタイプの陰性感情」を根拠にする医師もいる。

先日、ある若い女性に境界性人格障害という診断をつけた。もちろん診断基準は充分に満たしていたのだが、診断に踏み切った理由の一つは、彼女の言動の端々から自分の中に「これまで感じたことのない不快な気分」を呼び起こされたことである。とはいえ、自分の性格もあるのか、患者自身に対して強い陰性感情を抱くことはないのだが。

少しでも彼女をサポートするのに役に立てばという思いで本書を読むことにしたのだが、これ一冊を読んだからといって治療やサポートがいきなり良くなるということはなさそうだ。

ところで、本書は1998年初版なのだが、それから20年近くが経った今、本書で事例紹介されているような強烈なボーダーという人は今も存在するのだろうか? 少なくとも診察室では出会ったことがないし、風の噂でも行動化が非常に激しい人は聞いたことがない。東京や大阪など大都市でならあり得るのだろうか? それとも、たまたま自分が出会わずにいるだけだろうか?

本書で面白かったのが、成田善弘先生(精神科の世界ではわりと有名)の体験談。
たまにですが、本当にわれを忘れて怒っちゃうことがあるでしょう。こちらがなんべん止めても、むこうが相変わらずナイフでリストカットをする。とうとう患者のほっぺたを一発張っちゃったというようなことがあるんです。
マジかい……(笑) そこまではやれんなぁ。


ちなみに本書の中身は河合・成田だけでなく、いろいろな先生の小論で構成されている。

2016年3月15日

同僚のカルテを興味本位で覗く、そんな困った人たち

病院スタッフが精神科を受診したり入院したりした時に、その人のカルテをどうするべきかという問題が出てきた。電子カルテ化によって、紙カルテ時代よりも興味本位での閲覧が容易になった。医療者として、そして知人・友人・同僚としてのモラルの問題であり、そういう部分でルーズな職員を抱えていると、いつか病院全体の大問題に発展しかねない。モラルだけでなくリスク管理という点からも、疎かにしてはいけないことである。

この件について、同僚先生は電子カルテを設定変更して閲覧制限をかけるようにすべきという案を出した。実際、同僚先生に外来でかかっている病院職員の場合、特殊な操作でそういう記録方法をとっている。それに対して、俺は他患者と同じように記載している。この最大の理由は、
「その人が身体的な救急で受診した時に、精神科のカルテもきちんと把握してもらう必要があるから」
一刻を争うような時に、
「精神科を通さないとカルテが見られません!」
という事態は避けたい。だから設定変更による閲覧制限ではなく、患者カルテの閲覧ログを照会し、そこで見つけた不届き者を個別に叩きつぶしていく方法が良いだろうと考えた。

さて、実際に閲覧ログを出してみると数名が網に引っかかった。当日のうちに彼らが所属する部署長を呼び出して事情を説明し、該当者へ指導してもらうように依頼した。指導されたことが噂として広まれば、各人の自主規制意識も高まるだろう。

ところが、問題は一筋縄ではいかなかった。

電子カルテには、練習や運用チェックのための「ダミーID」がある。そのIDでログインすれば「電子太郎」という匿名での操作になる。当院では、電子カルテが導入された時にみんながそのIDで練習した。そして、ログ照会でも足がつかないように、そのIDを使って閲覧している狡猾な奴がいるということが判明したのだ。その容疑者Xにとっては残念なことに、どのパソコンから使ったかも分かるようになっていて、すぐに使用場所が特定された。しかもその場所は、かなり特殊な人たちしか出入りしないところなので、容疑対象者はほんの数名に絞られた。そこから先の特定まではできないが、部署長への指導は入るので、さすがにもうそんなことはしなくなるだろう。

現在のところ、情報管理室ではログ照会の権限を医師のみに限定している。俺としては、照会権限を全職員に与えるという案も持っている。こうすることで、不届き者たちに「勝手に見ると、本人にバレる」という危機感を持たせるのだ。ただし、これはこれで、院内の人間関係がギスギスしそうで不安でもあるが……。

精神科に限らず、例えば皮膚科や婦人科などで写真を撮ることはあるだろうし、それを同僚が興味本位で見ているかもしれないというのは気持ちの悪い話である。今後もビシビシ摘発していく必要があるだろう。

2016年3月14日

精神科医の巨星・中井久夫のわりと一般向けの話が多いエッセイ集 『精神科医がものを書くとき』


精神科医なら知らない人はいない巨星・中井久夫先生による、わりと一般向けなものが多いエッセイ集である。本書の中で俺が読んだものを以下に挙げておく。
  • 精神科医がものを書くとき
  • 宗教と精神医学
  • 統合失調症問答
  • 統合失調症についての自問自答
  • 精神保健の将来について
  • 微視的群れ群
  • 危機と事故の管理
  • エピソード記憶といわゆるボケ老人
  • 「いいところを探そう」という問題
  • 家族の方々にお伝えしたいこと
  • ストレスをこなすこと
中井先生は、日ごろからすごく広い分野に興味を持って眺め、それを人の体やこころ、精神疾患と治療といったところで応用できないかと考えていらっしゃるような印象を受ける。「中井久夫」にはなれないし、なろうとしてもいけないが、こういう裾野の広さ、引き出しの多さを身につけようとすることは決して悪いことではないと思う。

2016年3月11日

治療終了することができた摂食障害

摂食障害の治療は非常に難しいと先輩医師に言われたことがある。これまで自分自身で摂食障害という診断をつけて治療を開始したケースというのは少なく、引き継いだ患者のほうが多い。そんな中で、長く摂食障害に苦しんできた若い女性を引き継いで、その後3年の治療で概ね改善したという嬉しい経験がある。

この人は過食嘔吐型で、「改善への第一歩になったのは、あのやりとりかなぁ」と思い当たることがある。当時、内科医向けの摂食障害の本を通読し終えたばかりで、その中に、
「摂食障害の人は、体は疲れきって悲鳴をあげているのに、心が体を叱咤して鞭打っているようなところがある」
というようなことが書いてあった。

その女性の次の診察の時に話を聞いていて、そういう目でみれば確かに「心が体に厳しすぎる」というような印象を持った。そこで、
「ちょっと自分の体に厳しすぎやしませんかねぇ。ご自分の体からの悲鳴に、もう少し耳を傾けてあげても良いような気がしますよ」
そんなふうに言ってから、しばらくその話題で語り合った。

診察が終わって退室する時、いつもは「ありがとうございました」「お大事に」とやり取りするだけなのだが、その時には彼女から、
「なんだかスッキリしました。すごく楽になったというか。もう少し自分の体をいたわってみます」
そんな言葉が出た。

それから少しずつではあるが、「この2週間では7回吐きました」というのが6回になり、5回になり……と、嘔吐の報告は減っていき、彼女も嬉しそうだったし誇らしそうでもあった。ただし、こちらも浮かれて一緒に喜ぶということはしなかった。というのも、彼女にとって「嘔吐」は心の不調を示すサインの一つに過ぎないかもしれず、「嘔吐は減った、そのかわりリスカが増えた」というのでは決して改善とは言えないからだ。

治療者として本当に嬉しかったのは、彼女の、
「吐いた自分を責めなくなりました」
という一言だった。そうした心の余裕や、自分自身に対する優しさといったものは、こちらも言葉と態度で全面的に支持した。こうして彼女はとんとん拍子に良くなった……、と言いたいところだが、それから治療の終了までには1年くらい要した。

最終的に彼女は、
「飲んでいる薬(抗うつ薬)をやめていきたい」
と希望するようになった。そして最後の診察で、
「今でもたまには吐くし、これからも時には吐くかもしれないけれど。でも大丈夫。そんな気がします」
そう言う彼女の少しだけ自信を取り戻したような顔を見ながら、俺はカルテに「終診」と書き込んだ。

えっ!?
まだ吐いているのに!?
これからも吐くかもしれないと言っているのに!?
それで改善したと言えるの!?
治療の終了で良いの!?

そう疑問を抱く人もいるかもしれないが、これはこれで良いのだと思う。

2016年3月10日

江戸時代の算学者たち、暦学者たちの熱い想いに胸を打たれる 『天地明察』


冲方丁の『光圀伝』が面白かったので、同じ著者・同じ時代の時代小説である本書を読んでみた。やはり面白くてグイグイ読み進んだ。

江戸時代の算学者たち、暦学者たちの熱い想いに胸を打たれてしまった。こういう古い時代の科学者を小説仕立てで読むのは面白い。もちろん史実と違う部分もあるだろうが、歴史を学ぶためではなく、楽しむために読むのだと思えば問題ない。

2016年3月8日

ギラギラとした殺気を身にまとった偉丈夫として描かれる水戸黄門 『光圀伝』


祖父の影響で、幼少時の月曜8時といえば『水戸黄門』だった。まだストーリーが分からない頃には、単にチャンバラが格好良くて、袴や二本差し、そしてチョンマゲに憧れたものである。今や天然チョンマゲになりつつあるというのに……。

ある程度ストーリーが分かるようになると、今度は勧善懲悪にスカッとするようになった。『水戸黄門』は小学校の高学年まで観ていたが、その頃は『必殺仕事人』がローカルで再放送されていて、黄門様やスケさん、カクさんのような穏やか懲らしめより、ハードな仕置きをするダーク・ヒーローたちに心酔するようになっていった。

冲方丁は「うぶかたとう」と読む。少し前、妻に対する暴力で話題になっていた。当時はどんな小説を書く人か知らなかったが、たまたま目についた本書を読んでみて痺れてしまった。冒頭からグイグイ引っ張られ、気がつけば読了という素晴らしい読書体験だった。テレビで知っている『水戸黄門』とは違って、ギラギラとした殺気を身にまとった偉丈夫として描かれる光圀に、戸惑うどころか、むしろ非常に強く魅力を感じた。

テレビの水戸黄門と必殺仕事人を足して二で割ったような、優しさと険しさを兼ね備えた黄門様に出会える一冊。

2016年3月7日

言葉の発達について ~我が子の成長を見ながら気づいたこと~

長女サクラが文字に興味を持ち始めているので、各文字に対応する絵が添えられている50音表を風呂の壁に貼った。

さて、最初のうち、それを見ながら「リンゴのり」「カメのか」「アリのあ」といった具合に教えたのだが、どうも娘にはピンとこないらしい。試しに、
「最初に“あ”のつく言葉は何があるかな?」
と聞いてみると、
「りんごのり」
とトンチンカンな答えが返ってきた。

あれこれ観察して気づいたのだが、どうやら長女は、そしておそらく子どもは一般的に、単語を覚え始める時に、それを音と音のつながりとしてではなく、一つの塊りとしてインプットするようだ。“カメ”は「カ」「メ」ではなく「カメ」であり、“リンゴ”も「リ」「ン」「ゴ」ではなく「リンゴ」という塊りなのだ。当然、「“あ”で始まる言葉」と聞かれても分からない。「最初に○がつく」という概念がないからだ。

ではそこから、音と音とが結びついて単語を形成しているということを、どうやって教えるか、感じ取ってもらえるか。そこで思いつきのクイズ遊びを始めた。
「あ!んぱんまんのー?」
と“あ”を強調して、サクラが「あ!」と答えたら「ピンポーン!」、トンチンカンな答えなら「ブッブー!」である。これを繰り返すうちに、どうやら最初の文字というものの感触をつかみ始めてきたようだ。

しばらくすると、今度はサクラのほうから、
「りんごのー?」
と聞いてくるようになった。そこでわざと「あ」と答えると「ブッブー!」と反応する。また最近では、
「“あ”のつくもの、なーんだ?」
という問題を出せるようになってきた。

ここでまたさらに面白いのは、サクラの出す「ショクパンマンのー?」という問題に「シ」と答えると、
「ブッブー! ショクパンマンは“ショ”でした」
となるところ。

言語発達の世界はなかなかに奥が深くて、親としても精神科医としても頭の体操になる。ここからさらに、言語発達の遅れ、吃音、ディスクレシア(識字障害、読み書き障害)といったところへ考察の幅を広げていければ良いのだが、文字数と時間と能力の壁に阻まれて、今日はこれにておしまい!

2016年3月4日

精神科医とは、患者の心の中の炭酸水を扱うような仕事である

精神科の普通の外来というものは、患者の心の中で泡立っている炭酸水に、毎回の診察で少しずつ真水を注いでいくようなものだ。そうするうちに炭酸水が真水に近づけば治療成功である。

患者が良くなったのは、精神科医が粘り強く真水を注いだ結果かもしれないが、もしかすると単に時間が経つにつれて炭酸が抜けただけなのかもしれない。精神科に悩みを持ち込んでくる人たちの多くにとって、「時間」という薬は遅効性ではあるが、これほど効果のある薬もない。

ただし、蓋を開けなければ炭酸は抜けていかない。もちろん真水も注げない。言い方を変えれば、蓋さえ開けられれば、真水なんて注がなくとも時間とともに炭酸は抜けていくのだ。この「蓋を開ける」というのがどういう形をとるか、それは医師と患者と状況次第だろうが、とにかくまずは蓋を開けること、開けるよう努力してみることだ。

これは簡単なようで難しいが、かといって特別なことを学んだり大げさなことをしてみせたりする必要はない。例え話の連続になるが、炭酸の入った容器を開ける方法は、ペットボトルのようにフタをひねる、ビール瓶ように栓抜きを使う、ラムネのように瓶にビー玉を押しこむなど、挙げていけば発想はたくさんある。いずれもシンプルだ。こういう発想を自分なりに臨床に置き換えてみて、トライ&エラーしていくしかない。人それぞれであろうし、あえて具体例は書かない。

うん、実に不親切な結論。

余談ではあるが、開けた瞬間に炭酸が吹き出すということもある。また、時には敢えて容器を振りに振って、炭酸の勢いでフタを飛ばすなんてこともないでもない。

2016年3月3日

これからの時代のビジネス論(?) 『暇つぶしの時代 さよなら競争社会』


『ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ』の著者・橘川幸夫による、これからの時代のビジネス論(?)。

精神科医として具体的な形で役に立てられそうなことはなかったが、こういう広い視点や考え方、ハッとさせられる思考の転換法を教えてもらえると、いつか何かの時に助けになりそうな気がする。また、もし助けにならなかったとしても、それはそれで良いのだ。読書とは、それこそ良い意味での「暇つぶし」を提供してくれるものであり、楽しみとしての読書にまで、常に生産的なものばかりを求めるようになってしまっては辛い。そうは言いながらも、この読書で得たものを活かせる機会がないものか、ついついアンテナを伸ばしたくなってしまうのだけれど……。

これから何かビジネスを始めたいという人は一読して損はないだろうし、現在のビジネスがどうも壁に当たっていると感じている人にも有益だろう。それから、ただ単に暇つぶしとしての読書を求めている人にも、すらすら読めて面白いのでお勧めである。

2016年3月2日

1000円にも満たない投資で、あれこれ考えたり身につけたりできる! 含蓄に富む示唆の宝庫 『治療のこころ‏ 第2 精神療法の世界』


何が良かったかをいちいち書き残しておけないほど、含蓄に富む示唆の宝庫であった。

一つだけ、『「傾聴」の技法化』というタイトルから紹介しておく。

「傾聴」とは、どんな医療の本にも書いてあるが、では傾聴の何が良いのか、どう治療的なのか、そういったことまでは書いていない。確かに傾聴は説明不要で、理屈抜きで良いものである。ただし、理屈がないから、錦の御旗になってしまって技法の向上もない。ほとんど倫理的な努力目標みたいなものになってしまう。

こうしたことを神田橋先生が語って、では「傾聴を技法化するにはどうしたら良いか」ということが書かれている。具体的には本を買って読んでもらうほうが良い。1000円にも満たない投資で、あれこれ考えたり身につけたりできるリターンの多い本である。

2016年3月1日

正確さを犠牲にしなくても、分かりやすい翻訳文はつくれる! 『私の翻訳談義』


これまでに英文を翻訳したのは、大学受験時と、学生時代、それから研修医になって「抄読会」の担当になった時くらいである。いずれも、自分が分かることと、採点者や同僚に通じることが必要で、かつ、それで十分でもあった。すべてにおいて、日本語の美しさはさほど求められなかった。

あるご縁で、精神科に関する英語書籍の下訳をしないかと声をかけていただいた。英語は苦手ではないし、日本語の文章を書くのは好きなので、二つ返事で引き受けた。しかし、実際に翻訳というものをやってみると、これが案外に難物であった。なにも知らない人が読んだ時に、英語からの翻訳文だと意識させないような自然な日本語というのが、なかなか簡単に作れないのだ。

この機会に本書を読んでみると、今やらせてもらっている仕事にとって実に有意義だった。

「英語の構文が透けて見えるような翻訳文は読みにくい」
「名詞中心の英語から、動詞中心の日本語にするためには~」
「正確さを尊重すれば読みにくくなる、というのはおかしい。その場合の正確さとは、内容ではなく英語の構文について言っているにすぎない。だから、読みやすさを重視するために正確さを犠牲にするという考えも間違いで、読みやすくて正確に伝える翻訳は必ずできる」

本書はあくまでも対話形式の「翻訳談義」であって、翻訳テクニックの教則本ではない。主に、著者の翻訳家としての心構えや考え方を中心に語ってある。だから、英文もほとんど出てこない。プロの翻訳家を目指すわけでもなく、テクニックを身につけるような時間もない自分にとっては、本書のような翻訳への心構えを説くような啓発書こそ必要なものであった。

この一冊との出会いに感謝。

本を愛する者は、本の神様に愛してもらえるのだ。