2016年3月31日

グロテスクな部分あり注意!! 『死体の犯罪心理学』


東京都の監察医であった上野正彦による、犯罪に巻き込まれた人たちの遺体状況から読み解く犯罪者心理の本。

いわゆる「メッタ刺し」や「バラバラ殺人」と聞くと、凶悪な犯人像を思い描かせるが、実際には気弱な人による犯行ということが多いそうだ。相手からの反撃が怖いからこそメッタ刺しにしてしまい、また恐怖心から死体を遠くにやりたくて、そのためにバラバラにする。そう言われると、ナルホドと頷いてしまう。

ただし、著者自身が本書で何度か「自分は精神・心理の専門家ではないので分からないが」と書いているように、読んでいて「それは明らかに違う!」とツッコミを入れたくなる部分もあったが、全体としては非常に興味深く読めた。とはいえ、被害者や遺族のことを思うと、胸が苦しくなるような話ばかりである。

記憶に新しい事件が多く、しかも犯人が捕まっていないものがいくつかあり、そういう連中が今も社会をウロウロしているのかと思うと背筋が寒くなる。グロテスクな内容が苦手な人だと、ちょっと気持ちの悪くなる箇所もあるので注意が必要。

2016年3月30日

生活保護の福祉担当者と受給者をめぐる連作短編集 『死神』


生活保護を担当する福祉職員たちを主人公にした連作短編集。篠田節子はストーリーの組み立ても上手く、また人物描写も巧みなので読んでいて飽きることがない。

これまで読んできた篠田作品のほぼ全てで、ホロッとなることはほとんどなかった。本作でも、生活保護をめぐる厳しい現実と、呆れるくらいだらしない人たちの様子をビシビシと、時にはこちらが痛快になるほど切って捨てるように書き上げる。その思いきりの良さに好感が持てる。

また、本作にはホラーのような話も少しだけ入っており、それが「どうだ怖いだろう」と押しつけてくる感じではなく良いスパイスになっている。今後も良い作品を書き続けて欲しい、好きな作家の一人である。

2016年3月28日

残念ながら、チープな設定がチープな展開を決定づけたと言わざるをえない 『歓喜の仔』


『包帯クラブ』で天童荒太を知り、また感銘を受けたので『悼む人』『永遠の仔』『家族狩り』なども読み、この小説家は寡作ながら良いものを書くと思っていた。しかし、残念ながら本書はとても良い作品とは言い難い。

特に中盤過ぎ、幼稚園生である妹の香が仲間と福島まで新幹線で行くくだりは、どうでも良いような出来事がダラダラダラダラと詳述され、読むのが非常に辛かった。また、小学校入学前の子どもたちの行動としてはあまりに不自然というか、ませているを通り越して非現実的なほど大人びていて、こんな子どもたちはいないよ、と苦笑するばかりであった。

とはいえ、さすが天童荒太。17歳の長男・誠の心理描写にはグッと迫るものがあった。小学6年生の次男・正二については、やや大人びているものの、非現実的とまではいかない程度。

音楽(耳)を失った長男、色(目)を失った次男、匂い(鼻)を失った長女という設定が、なんだかロールプレイングゲームのキャラ設定みたいで、すでにその時点で全体がチープになることが決定されていたのではないかと思うような話だった。

中盤以降は斜め読みで辛うじて読み終えた本で、まったくもって勧められない。

2016年3月23日

「てんかん診療には自信がありません!」と、自信を持って言えるようになる不思議な本 『ねころんで読めるてんかん診療::発作ゼロ・副作用ゼロ・不安ゼロ!』


不思議な本である。

何が不思議かというと、てんかん診療に関する本なのに、読み終えると、

「てんかん診療には自信がありません!」

そう自信を持って言えるようになるのだ。ところが、これまた不思議なことに、「自信がない」と自信を持って言えるようになったのに、実際のてんかん診療に関しては、今までよりも安心して取り組めるようになる。

こんな珍妙な体験は初めてだ。

著者の中里先生は東北大学てんかん科の教授で、ツイッターでも精力的に情報発信されている。また、発信だけでなく、患者側からの情報も収集されており、個別に返信したり、新たな情報発信のキッカケにしたりされている。東北大学の教授であるにも関わらず、どこのウマの骨とも分からないような俺の発言や質問にも応じてくださる。かなりエネルギッシュな先生である。

本書の冒頭で中里先生が、
「てんかん診療は、てんかん専門医でさえ一人で解決することは不可能」
と言い切っておられる。この言葉が、てんかん診療に携わる一般精神科医をどれほど勇気づけることか! 

それから、本書を読めば、一般医が専門医に紹介した時には、「過去の治療歴の問題にも驚くことなく」患者を暖かく迎えて精査してくれることも分かる(精神科医として他科の向精神薬の使い方に辛辣な自分を反省)。てんかん治療が上手くいかない時、自分一人で抱え込んだり、長期間にわたって粘ったりする必要なんてない。気負いすぎた善意や余計なプライドで、患者の人生の邪魔をしてはいけない。

こうしたことを、「ねころんで読める」くらい平易に、時間さえとれれば1日かからずに読み終えるくらいコンパクトに、そして一般医の自尊心を決して傷つけることのないように温かく解説してある。

てんかん診療に従事せざるをえない一般医には必読の書であるし、題名を略した『ネコテン』の愛称で広く普及することを願う。

<関連>
患者・家族が読んでも非常に分かりやすい専門書 『「てんかん」のことがよくわかる本』
『ねころんで読めるてんかん診療』の中里先生の講演を聴いてきたよー!!

2016年3月17日

生と死、健康と病気、それから安楽死について

後輩が20歳の若さでガンで死んだの見て安楽死は必要だと思った

癌の安楽死を認める → ALSは? → 認める → 以下膨大な数の疾患は? 

と範囲が広がっていくのが怖い。

苦しくて死ぬのが確実ならば、安楽死は許されるのか? 
死が確実なのは、すべての人間に当てはまる。

ということは、問題は苦しみのレベルか?

では、うつ病はどうだ?
重症だと、首つりや飛び降りなど自殺を選ぶほどの苦しさだ。
それほど苦しいのなら、うつ病患者が望めば安楽死させる方が良いのか?

治る見込みがあるのだから安楽死させるのはおかしい?

だったら統合失調症はどうだ?
治る見込みのない統合失調症患者が、幻覚や妄想に苛まれて自殺を選ぶことは少なくないが、彼らが安楽死したいと言ったら認めるのか?

癌と違って、耐え難い痛みが肉体ではなく、こころの苦しみだからダメなのか?

では線維筋痛症はどうだ?
未だ確たる治療法も見つからず、しかし重症だと痛風以上に、息を吹きかけられるだけで叫ぶほどの痛みを感じるという彼らには、末期がん患者と同じように安楽死の権利があるのか?

そう簡単に答えなんて出ない、というより正解がない。

それでも我々医療者は、生について、死について、健康について、病気について、問い続けなければならない。そういう職業である。

「健康に生きる」
「病いとともに生きる」 
「健康なのに死ぬ」
「病いによって死ぬ」

この中で「健康に生きる」ことだけが絶対正義だと思っている医療者には、自分が病気になってもかかりたくない。

サクラとギター

俺がギター弾いて歌っていると邪魔していた長女サクラも、だいぶ成長してきて、
「一曲だけ歌わせて」
とお願いすると、
「うん、いいよ」
と言って黙って聴いていてくれるようになった。調子に乗ってもう一曲歌おうとしたら、
「もう! うたいすぎ!」
と怒られてしまった。

そんなサクラ、最近はウクレレを持ってギターのマネごとをするようになった。そこで子ども用のギターを買ってあげたいと考え、シマムラ楽器に行ってみたがちょうど良いのがなかった。

昔から俺が個人的に気になっているこのギターを買おうか迷い中。どうやらかなりタフに創られているみたいだし、非常に小さくて軽くてどこにでも持って行ける気軽さも良い。前に楽器屋で弾かせてもらったが、このボディなら音はまぁこんなもんでしょう。

2016年3月10日

江戸時代の算学者たち、暦学者たちの熱い想いに胸を打たれる 『天地明察』


冲方丁の『光圀伝』が面白かったので、同じ著者・同じ時代の時代小説である本書を読んでみた。やはり面白くてグイグイ読み進んだ。

江戸時代の算学者たち、暦学者たちの熱い想いに胸を打たれてしまった。こういう古い時代の科学者を小説仕立てで読むのは面白い。もちろん史実と違う部分もあるだろうが、歴史を学ぶためではなく、楽しむために読むのだと思えば問題ない。

2016年3月8日

ギラギラとした殺気を身にまとった偉丈夫として描かれる水戸黄門 『光圀伝』


祖父の影響で、幼少時の月曜8時といえば『水戸黄門』だった。まだストーリーが分からない頃には、単にチャンバラが格好良くて、袴や二本差し、そしてチョンマゲに憧れたものである。今や天然チョンマゲになりつつあるというのに……。

ある程度ストーリーが分かるようになると、今度は勧善懲悪にスカッとするようになった。『水戸黄門』は小学校の高学年まで観ていたが、その頃は『必殺仕事人』がローカルで再放送されていて、黄門様やスケさん、カクさんのような穏やか懲らしめより、ハードな仕置きをするダーク・ヒーローたちに心酔するようになっていった。

冲方丁は「うぶかたとう」と読む。少し前、妻に対する暴力で話題になっていた。当時はどんな小説を書く人か知らなかったが、たまたま目についた本書を読んでみて痺れてしまった。冒頭からグイグイ引っ張られ、気がつけば読了という素晴らしい読書体験だった。テレビで知っている『水戸黄門』とは違って、ギラギラとした殺気を身にまとった偉丈夫として描かれる光圀に、戸惑うどころか、むしろ非常に強く魅力を感じた。

テレビの水戸黄門と必殺仕事人を足して二で割ったような、優しさと険しさを兼ね備えた黄門様に出会える一冊。

2016年3月7日

言葉の発達について ~我が子の成長を見ながら気づいたこと~

長女サクラが文字に興味を持ち始めているので、各文字に対応する絵が添えられている50音表を風呂の壁に貼った。

さて、最初のうち、それを見ながら「リンゴのり」「カメのか」「アリのあ」といった具合に教えたのだが、どうも娘にはピンとこないらしい。試しに、
「最初に“あ”のつく言葉は何があるかな?」
と聞いてみると、
「りんごのり」
とトンチンカンな答えが返ってきた。

あれこれ観察して気づいたのだが、どうやら長女は、そしておそらく子どもは一般的に、単語を覚え始める時に、それを音と音のつながりとしてではなく、一つの塊りとしてインプットするようだ。“カメ”は「カ」「メ」ではなく「カメ」であり、“リンゴ”も「リ」「ン」「ゴ」ではなく「リンゴ」という塊りなのだ。当然、「“あ”で始まる言葉」と聞かれても分からない。「最初に○がつく」という概念がないからだ。

ではそこから、音と音とが結びついて単語を形成しているということを、どうやって教えるか、感じ取ってもらえるか。そこで思いつきのクイズ遊びを始めた。
「あ!んぱんまんのー?」
と“あ”を強調して、サクラが「あ!」と答えたら「ピンポーン!」、トンチンカンな答えなら「ブッブー!」である。これを繰り返すうちに、どうやら最初の文字というものの感触をつかみ始めてきたようだ。

しばらくすると、今度はサクラのほうから、
「りんごのー?」
と聞いてくるようになった。そこでわざと「あ」と答えると「ブッブー!」と反応する。また最近では、
「“あ”のつくもの、なーんだ?」
という問題を出せるようになってきた。

ここでまたさらに面白いのは、サクラの出す「ショクパンマンのー?」という問題に「シ」と答えると、
「ブッブー! ショクパンマンは“ショ”でした」
となるところ。

言語発達の世界はなかなかに奥が深くて、親としても精神科医としても頭の体操になる。ここからさらに、言語発達の遅れ、吃音、ディスクレシア(識字障害、読み書き障害)といったところへ考察の幅を広げていければ良いのだが、文字数と時間と能力の壁に阻まれて、今日はこれにておしまい!

2016年3月3日

これからの時代のビジネス論(?) 『暇つぶしの時代 さよなら競争社会』


『ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ』の著者・橘川幸夫による、これからの時代のビジネス論(?)。

精神科医として具体的な形で役に立てられそうなことはなかったが、こういう広い視点や考え方、ハッとさせられる思考の転換法を教えてもらえると、いつか何かの時に助けになりそうな気がする。また、もし助けにならなかったとしても、それはそれで良いのだ。読書とは、それこそ良い意味での「暇つぶし」を提供してくれるものであり、楽しみとしての読書にまで、常に生産的なものばかりを求めるようになってしまっては辛い。そうは言いながらも、この読書で得たものを活かせる機会がないものか、ついついアンテナを伸ばしたくなってしまうのだけれど……。

これから何かビジネスを始めたいという人は一読して損はないだろうし、現在のビジネスがどうも壁に当たっていると感じている人にも有益だろう。それから、ただ単に暇つぶしとしての読書を求めている人にも、すらすら読めて面白いのでお勧めである。

2016年3月1日

正確さを犠牲にしなくても、分かりやすい翻訳文はつくれる! 『私の翻訳談義』


これまでに英文を翻訳したのは、大学受験時と、学生時代、それから研修医になって「抄読会」の担当になった時くらいである。いずれも、自分が分かることと、採点者や同僚に通じることが必要で、かつ、それで十分でもあった。すべてにおいて、日本語の美しさはさほど求められなかった。

あるご縁で、精神科に関する英語書籍の下訳をしないかと声をかけていただいた。英語は苦手ではないし、日本語の文章を書くのは好きなので、二つ返事で引き受けた。しかし、実際に翻訳というものをやってみると、これが案外に難物であった。なにも知らない人が読んだ時に、英語からの翻訳文だと意識させないような自然な日本語というのが、なかなか簡単に作れないのだ。

この機会に本書を読んでみると、今やらせてもらっている仕事にとって実に有意義だった。

「英語の構文が透けて見えるような翻訳文は読みにくい」
「名詞中心の英語から、動詞中心の日本語にするためには~」
「正確さを尊重すれば読みにくくなる、というのはおかしい。その場合の正確さとは、内容ではなく英語の構文について言っているにすぎない。だから、読みやすさを重視するために正確さを犠牲にするという考えも間違いで、読みやすくて正確に伝える翻訳は必ずできる」

本書はあくまでも対話形式の「翻訳談義」であって、翻訳テクニックの教則本ではない。主に、著者の翻訳家としての心構えや考え方を中心に語ってある。だから、英文もほとんど出てこない。プロの翻訳家を目指すわけでもなく、テクニックを身につけるような時間もない自分にとっては、本書のような翻訳への心構えを説くような啓発書こそ必要なものであった。

この一冊との出会いに感謝。

本を愛する者は、本の神様に愛してもらえるのだ。