2016年1月29日

不登校の子への言葉かけ 「君はいま、学校へ行っちゃいけない」

児童思春期を専門にされている大御所のS先生と酒席をご一緒する機会があり、その時の話と考えをまとめておく。

S先生は、不登校の子の初診の時に、
「君はいま、学校へ行っちゃいけない」
と声をかけるそうだ。そうすると、下を向いていた子がハッと顔をあげる。

大切なのは、これまで「どうして行けないの」「がんばって行きなさい」と学校や親や親せきから言われた子どもの味方になること。そして、医師自身が「この子はいつか学校に行けるようになる」と自信を持つことである。

思えば、不登校の子にとって、「行きなさい」というのと同じくらい「行かなくても良いんだよ」という言葉も耳にタコなことが多いのだろう。だから連れて行かれた精神科で、医者から「行っちゃいけない」と言われることに新鮮な驚きと安心感があるのかもしれない。

ただし、
「自信のない言葉は伝わらないよ」
とも仰っていた。ただ言葉だけ真似しても良い診療はできないのだ。

この手の話を持ち帰って吟味して、自分なりに消化して、文章にしてアウトプットする。そうした一連のプロセスが小さな自信につながり、「伝わる言葉」(というより態度や雰囲気)を持てるようになるのだと信じている。



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不登校は1日3分の働きかけで99%解決する

2016年1月28日

映画と原作はまったく別物で、原作のほうが断然良い 『黄泉がえり』


草薙剛が主演をつとめた同名映画の原作である。映画のほうはラストがトンデモなくグダグダだったせいで、「終わりダメなら全てダメ」の典型的な映画だった。7年前にDVDで観たが、時間を大いに損したという感覚が強かった。そういうわけで、まさか原作を読むことがあろうとは思いもしなかった。

どうして原作を読む気になったのかというと、それは原作者が梶尾真治だと知ったからである。梶尾真治と言えば「エマノン」シリーズで、これは俺自身がハマって読んでいる。だから、もしかしたら『黄泉がえり』は原作と映画が全然違うのではないか、原作のほうはもっと面白いのではないか、そういう気持ちがむくむくとわき起こった。

そして読んでみた感想は、やはり別物、似て非なるものであった。だから、映画のほうを楽しめた人は、逆に原作を読んでもつまらないと感じるのかもしれない。面白かったのは文庫本の解説だ。コラムニストの香山二三郎が、 映画について、
ファンタジー一色に変更されており、原作とは違った黄泉がえり
と書いている。きっとこの人は原作のファンなのだろう。そして映画のほうは、明らかな批難こそしないものの、あまり面白いとは感じなかったんだろうなぁ。

2016年1月27日

動物学者が、動物学者としての目で人間を観察 『裸のサル―動物学的人間像』


「裸のサル」とは言うまでもなくヒトのことである。ヒトは、動物として、どうして今のような生態、生活、文化を持つようになったのか。動物学者のデズモンド・モリスが、動物学者としての目で人間を観察し考察した本。

書かれたのが40年くらい前だからか、内容すべてが新鮮ということはなく、むしろ「ふーん、確かにそういう話は聞いたことがあるな」というものだった。これは裏を返せば、そんな昔に考察されたものが、現代において常識・雑学・トリビアのようなものとして生き残っているということだ。凄い。

そして新鮮でこそないものの、中身は充分以上に知的好奇心が満たされて面白いものだった。絶版のようなので中古で読むしかないのが残念。

2016年1月26日

精神科医だって、発達障害の人との個人的な関わりで悩むのです 『発達障害でつまずく人、うまくいく人』


患者にも、身内にも、仕事仲間にも発達障害の人がいる。相手が患者の場合、こちらは精神科医として知識を提供したり、生活障害を改善するための提案をしたりするが、そこには医師・患者という関係があるので互いに分かりやすい。ところが、身内や仕事仲間の場合にはそうもいかない。

身内の場合、発達障害とはどういうものかという知識がほとんどない。そこで、精神科医でもある俺がなるべく客観的に説明しようとしても、一歩間違えば本人や親族から「身内に対して冷淡」と受け取られかねない。かといって、熱を込めれば良いというものでもない。このあたりのバランスは、診察室や病棟とは違い、俺にとって非常に難しい。

仕事仲間の場合、相手には発達障害の知識が多少ある。あるいは充分にある。自ら発達障害だと自覚している場合もあるし、無自覚の場合もある。そういう人たちとどう協働していけば良いのか、これが実はけっこう切実な難題である。たとえ発達障害があっても、やるべき仕事はやってもらわないと困る。患者と直接に関わる専門職では、コミュニケーションと想像力と臨機応変さという、発達障害の人が苦手とするものが、常時にわたって必要とされる。「君にはこういう作業が向いているよ」と割り振れる仕事はほとんどない。

今回本書を読んだのは、診察室で出会う患者に備えてではなく、身近に発達障害がいる者として何らかの助けを求める気持ちからである。これ一冊で大いに役に立った、ということはないのだが、この本を実家に送って読んでもらって、身内問題に少しは改善が見られることを期待したい。職場のほうでは……、まだもう少し模索が必要だろう。

2016年1月25日

クリスマスも誕生日も私にはなかった。なのに、娘がプレゼントに文句言ったりするのが、とにかく許せない。 『誕生日を知らない女の子  虐待―その後の子どもたち』


彼女はなぜ、娘の臓器写真を平然と直視できたのだろう。
この衝撃的かつ印象的な一文で始まる、被虐待児と彼らを養育する里親に焦点を絞って取材したルポ。

被虐待児は施設から里親へ行くと、少しは幸せになれるのかというと、そう簡単な話ではない。2010年には東京で、3歳7ヶ月の女児が里親による虐待で死亡した。この事件を考えるための緊急集会に集まった里親たちのうち、50代の男性がこんなことを話したそうだ。
「私は里子を預かるまで、子どもは愛情さえあればスクスク育つものだと思っていました。実子はそうやって育ちましたから。三歳の男の子が里子に来てから、妻は一年間の記憶がないと言います。私もまだつらくて話せない。ひょっとしたら殺してしまうかもと思ったこともあります。正直、子どもへの怒りが湧くこともありました」
この集会に参加した著者が、
里親たちが、これほど傷つき苦しんでいるとは思いもしないことだった。里親たちを苦しめるもの、それこそが「虐待の後遺症」なのだ。
こう言うように、虐待を受けた子を里親として養育することには、我々の想像を絶するような苦労がある。いや、それは単に「苦労」という言葉だけでは言い表せないような、それこそ「ひょっとしたら殺してしまうかも」と思ってしまうほどのものなのだ。

ある里子の女児と、里親である女性との会話。
「ねぇ、ママとパパもケンカするの?」
「そりゃあ、するよ」
「えー、じゃあ、包丁とかハサミとか、持ってくるのー!」
「みゆちゃん、それは、ない、ない」
「よかった!」
この後、親子二人で笑い合ったようだが、この女児の実父母はそういうケンカをしていたのだろう。自分たちだけならともかく、子どもの前でそんな修羅場を演じている親がいるということは、決して笑いごとでは済まされない。ケンカは見えないところでやりましょう。

性的・身体的な虐待を受けて育ち、自らも母親になった女性へのインタビューで、彼女はこんなことを言う。
「上の子は女の子だからなのか、育児のたびに否が応でも自分とかぶるんです。育児をするうえで、フラッシュバックを体験するというか……。『あの子歩いたな、よかったな。うれしい』って思った瞬間、『誰が私が歩いたのを喜んだ? 誰が私が歩いたのを見ただろう』って、だんだん上の子に当たっていくんです。こういうのを成長の節目、節目に思うんです。クリスマスも誕生日も私にはなかった。なのに、娘がプレゼントに文句言ったりするのが、とにかく許せない」
彼女は実際に我が子に虐待をしてしまう。そして自ら児童相談所に連絡をして子どもを預かってもらった。彼女はその後、精神科へ入院するが、そこでカウンセラーから、
「子どもを自ら児相に預けたことは、あなたが子どもを守った、立派な行動だった」
という言葉をかけてもらい、自信につながった。

子どもを2ヶ月預かってもらい、自らも精神科に入院して、心機一転で虐待を断つことができた、となれば良いのだが、そう簡単な話でもない。実はその女児には発達障害があり、その育てにくさに対するイライラから、どうしても蹴ったり叩いたり、「ベランダから飛び降りろ」「生まないほうが良かった」といった言葉の暴力が続いてしまう。根の深さ、解決の難しさに暗澹とした気持ちになるが、少なくとも彼女自身が受けた虐待や養育環境からすれば「いくらかマシ」であり、そこに希望の光が見える、というより見出すしかない。

著者のこんな言葉が印象的である。
一般に「親の、子への愛は無償だ」と言われるが、虐待を見ていく限り、それは逆だとしか思えない。子の、親への愛こそが無償なのだ。
切なさに涙がこみあげてきたり、憤りを感じたり、時にふっと笑顔になれたりしながら読んだ。そして、精神科医として、虐待ケースの発見とサポートにますます気をつけて取り組もうと思わされた。


<関連>
今までに読んだ虐待関連書籍で、最もキツかったのがこれ。
殺さないで―児童虐待という犯罪



発達障害ということで関連して、最近読んだこれも参考になった。

2016年1月22日

非常に実践的な教科書 『統合失調症とその関連病態:ベッドサイド・プラクティス』


精神科の教科書は通読できるものが多い。というより、通読しなければ意味をなさないものが多数ある。本を開いて必要に応じた場所だけを読む、というやり方があまり通用しない。

本書は各章が各病態に対応しているので、必要な時に必要な章を読む“準”通読でも活用できるが、特に若手の精神科医は時間があるうちに通読しておいて損はないだろう。公私における時間的な余裕がどれくらいかによって違うが、本書だけに没頭できる環境なら一日で読み終えるだろう。

第一部は概説であり、これは精神科の病歴のとり方、診断や治療の考え方が述べてある。さすが中安信夫先生といった感じで、読みやすくて分かりやすい。

第二部は統合失調症に関して、「初期統合失調症」「急性期」「慢性期」に分けて、診断、留意点、治療技法、うまくいかなかった症例など具体的に記載してある。特に初期統合失調症には力が入れてある。

第三部は統合失調症の関連病態である広汎性発達障害、思春期妄想症、急性精神病、初老期・老年期の精神病(もの盗られ妄想や嫉妬妄想など)、第四部は抗精神病薬の副作用や妊娠・出産・授乳との兼ね合いなどについてである。

非常に実践的な本で、何度も通読する必要はない。若手のうちに一度目を通しておいて、あとは時に応じて読み直す程度で良いだろう。

2016年1月21日

「子どもは親の望むようには育たない。親のように育つ」 これが我が家の教育方針(いまのところ)

もうすぐ4歳になる長女サクラに対して、こちらから文字や数字を積極的に教えたり、楽器を習わせたりはしていない。俺はただ本を好んで読む姿を見せ、時計を確認する態度を示し、楽しくギターやピアノを弾いてみせるだけだ。そんな俺を見ながら、サクラ自身が少しずつ試行錯誤して何かを学び取っているのは、子どもと充分に触れ合いながら見ていればよく分かる。

子どもは親の望むようには育たない。親のように育つ。

これは我が家の教育方針であると同時に、親である自分自身を律するための言葉でもある。

2016年1月20日

絵がシンプルで、かつ文字が少なく、「読み聞かせは口と舌が疲れる」というパパやママにお勧め 『だるまさんシリーズ』


長女サクラも次女ユウも大好きなダルマさんシリーズ。

ただし、それぞれに好きな本が決まっていて、お互いに自分のお気に入りを読み聞かせしてもらいたがるので、ちょっとしたケンカになってしまう。そういう時には「はいはい! じゅんばーん! 交代でー!」と仲裁する。我が娘らの良いところは、それできちんと順番を守れること。

そういえば「高い高い」をしてあげる時にも、どちらもワガママを言うことなく、「3回したら交代」と言えばそれを守れる。3回交代を繰り返すので、持ち上げるほうはヘトヘトになるが……。

この本を読む時には、あぐらをかいて、娘が一人の時には真ん中に抱っこし、二人の時にはそれぞれを両膝に乗せる。そして、
「だーるーまーさーんーがー」
と言いながら、リズムに合わせて体を大きく揺らす。これが楽しいみたい。我が家ではこの本のパロディで、「ダルマさんがコチョコチョ」とか「ダルマさんがおひげジョリジョリ」とか、あれこれのバリエーションで子どもらとスキンシップをとっている。

絵がシンプルで、かつ文字が少なく、「読み聞かせは口と舌が疲れる」というパパやママにお勧め。

2016年1月19日

製薬会社の人たちの行動観察をする時の参考にもなって面白い 『クチコミはこうしてつくられる―おもしろさが伝染するバズ・マーケティング』


クチコミに関してあれこれ分析し、さらに活用方法まで書いてある。マーケティングや商品開発、流通に関わるビジネスをしている人にとっては役に立つ話が多いのではなかろうか。

製薬会社のMRさんらを対象とした勉強会での講師依頼を受けている。といっても、実際のところはあちら側の営業活動の一環だろう。こういうのは丸め込まれないようにと意識はしていても、ついつい巻き込まれてしまうものだとは思うが、逆にこちらの希望や意図を伝える機会にもなりそうな気がする。

時々こういうビジネス関係の本を読むのは、精神科の診療や病棟運営の役に立つし、製薬会社の人たちの行動観察をする時の参考にもなって面白い。

2016年1月18日

自分や自分の家族、友人らの最期が独居死でないように願うばかりである 『遺品整理屋は見た!』


例えば一人暮らしをしている人が、夏場に自宅で突然死してしまい、2週間後に臭い(それは死臭であるが)の苦情で発見された場合、部屋はとんでもないことになっているそうだ。布団、床は体液で汚れ、すべての家具類に死臭がしみこんでいる。そうした「遺品」を整理する会社の社長が書いた本である。

整理、とはいうものの、実際のところは合同供養をして処分することが多いそうだ。気分的なものもあるだろうが、本書の内容から察するに遺品にしみついたニオイは相当に厳しいものがあるようだ。

著者の「独居死をなくすのは無理。それよりは、独居で亡くなっても、1-2日くらいで誰かが気づいてくれるような人間関係を作ろう」という主張にはすごく共感。家族、友人、知人、地域のコミュニティ。そういったつながりこそが「早期発見」につながる。

とはいえ、性格・気質的にそういうつながりを持てる人ばかりではない。精神科で俺がみている人たちにも、独居死しそうな人はたくさんいるし、実際に死後数日してから発見された人たちもこの数年間で何人かいる。

せめて自分や自分の家族、友人らの最期がそういうものでないように願うばかりである。

2016年1月15日

精神科医の幸せと自尊心

ある日、自宅に呼んだタクシーに乗ると、
「いつもお世話になっております。Aの兄です」
と声をかけられた。Aさんとは統合失調症の中年女性である。
「こんなに長く安定していて、ありがたいです」
確かに、Aさんはこれまでも入退院を繰り返していたが、俺が引き継いだ後の入院と退院からはすでに2年近くが経っている。

俺が(そしてきっと多くの精神科医でも)嬉しいのは、こういう風に「これまで安定していなかった人が、自分が主治医になって安定している」という時である。ただし、この安定がすべて自分のおかげだなんて思うのは傲慢であるし、おそらく間違っている。

精神科医としては、いろいろな要因が重なった結果として「その人が安定している期間」に主治医として立ち会える幸せを感じるくらいが良い。そして、そこに少しだけ自尊心の種を求めるならば、「いろいろな要因の中の一つとして確かに自分がいる」というところだろうか。

Aさんの場合、彼女の生活と精神症状の安定には、当院のデイケアがかなり重要な役割を果たしている。こういうことを面と向かってスタッフに言うのは照れ臭いので、こうして文章にすることでまわりまわって届くことを期待したい。

2016年1月14日

暗いし長いのでお勧めはしないが、良い本だったとは思う 『1984年』


SF小説ではあるが、時代設定は1984年なので現代からすると30年以上前。ただし発表が1948年なので、著者のジョージ・オーウェルは36年後の未来を描いたということになる。

精神科や心理学関連の本を読んでいると、よくこの『1984年』が紹介されている。それくらいインパクトがあって、かつ示唆に富む小説であることは確かなのだが、全体を通じてとにかく暗いので、その点は覚悟が必要である。

本書に出てくる「ニュースピーク」という新言語とその考え方が面白い。

「“素晴らしい”とか“素敵”とか、そういう言葉は要らない。“良い”で代用できるものは全てシンプルに“良い”を用いる。程度を表したければ、“倍良”“超良”“倍超良”とすれば良い。“悪い”という単語は不要で、“不良”を用いて、それにまた“倍”とか“超”とかをつければ表現できる」(新訳版。旧訳ではどうなっているか知らない)

こうして言葉をどんどん削っていく仕事をする公的部署があるのだが、ふと現代の日本語のあり方に思いをはせると、これに似たようなことが着々と進んでいるように見える。

例えばテレビでもネットでも「~すぎる」という言葉が氾濫している。「キレイすぎる」「美味しすぎる」「楽しすぎる」など、表現の仕方としてはニュースピークの“倍超良”と同族である。

こんなことを考えるヒントになるから、本書は古典として今でも人気があるのだろう。暗いし長いのでお勧めはしない。100点満点の65点。かろうじて読み切れる良書といったところ。

2016年1月12日

この気持ち良さを知らずに過ごすなんてもったいない! 『ウォッチメイカー』


妻のネックレスのチェーンがグチャグチャにもつれることがある。俺はそれを解くのが好きだ。最初はどうにもならないほどのもつれ具合なのに、ある時点でスッとほどけ始めて、そこから先はとんとん拍子。きれいな一筋の輪に戻った時には何とも言えない爽快感がある。

ジェフリー・ディーバーのミステリを読むと、それと似た快感を味わうことができる。飛び散らかった人物や物ごとが、あるページで収束して「なるほど、そうか」と合点がいく。ディーバーの小説では、それが1回ではなく2回、3回と繰り返される。そして時には、合点がいったはずのことが、すべて見事にひっくり返されてしまう。

この気持ち良さを知らずに過ごすなんてもったいない! ぜひともディーバーの世界に浸ってみて欲しい。

ちなみに翻訳は第1作目から同一人物で、回を重ねるごとに翻訳力が上達している。翻訳家はプロである。プロでも上達する。というより、上達しない者がプロを名乗ってはいけない。本作の翻訳は、これまでのシリーズで最高だった。

2016年1月10日

医療とインチキ

医療では、医師が何をしたと考えるかではなく、患者が何をしてもらったと感じるかが大切になる(非同意入院などの例外はある)。
両者の感覚がズレて、特に医師の自己評価のほうが高い場合、その治療を受ける患者はつらい。

「医師が何をしたと考えているか」と「患者が何をしてもらったと感じているか」の間にできる溝や隙間に、さまざまなインチキがはびこる。

インチキを責める医師は、時々立ち止まって、溝や隙間を埋めることにも意識を向けなければいけない。ゴキブリ対策と似たようなものである。そして、ゴキブリのようなものだから、根絶は無理でもあるのだ(笑)

2016年1月8日

決して大げさではなく俺の診療にパラダイムシフトを起こした! 『気分障害ハンドブック』


タイトルが「ハンドブック」なのでマニュアル本をイメージしてしまうが、実際には薬物療法および精神療法に関する啓蒙書である。医師としての心構えを諭すようなところもある。とはいえ、薬物療法に関しては非常に具体的に書いてあるのでマニュアルとしても活用できる。

繰り返すが、マニュアル本ではなく啓蒙書なので、ガミー先生の感情が率直に語られているところもある。たとえば、
リチウムとバルプロ酸を1日2、3回に分けて処方する医師が大多数であるが、嘆かわしいことである。
といった具合だ。

心得として響いたのは、
病には、治療可能なもの、治療不可能なもの、自然に治るものがある。治療不可能なものと自然に治るものは治療してはならず、治療可能なものは治療すべきである。3つを鑑別することこそが、熟練の医術である。
最適な気分安定薬が決まってから主治医がなすべきは、患者のそばにただ居続けることである。
短時間であっても頻回な診察で培われた治療同盟は、それ自体が気分安定薬である。
それから、ところどころに出てくるガミー先生のスパイシーな表現が良い。たとえば、
抗うつ薬+抗精神病薬=「劣化版気分安定薬」
劣化版て(笑)
監訳者の松崎先生とメールでやり取りさせて頂いた際に、松崎先生が「ガミー節(ぶし)が効いている」と仰っていた。まさにそんな感じであるが、個人的には「劣化版」という日本語を採用した翻訳者のセンスも素晴らしいと思う。
うつ状態を呈した12歳の患者の診断が、10年間で双極性障害へと変わる可能性は50%である。発症年齢を踏まえるだけで、コインを投げて診断名を決めたとしても半分の確率で診断が当たることになる。
こういうジョーク(?)も好きだ。

それから、これはガミー先生自身の言葉ではないが、Frederick Goodwinの発言を紹介してある。
「リチウムを使えないか、あるいは使いたくない医者は、双極性障害の治療から足を洗え」
思わず吹き出してしまったが、それは自分自身が「今は」リチウムを使えるからである。駆け出しの頃は、血中濃度の治療域と中毒域が近いからという理由でリチウムにあまり良いイメージがなかった。その後、自殺予防などの効果など知るにつけてだんだんとリチウムへの抵抗がなくなり、上述したように「今は」使えるようになっている。危うく足を洗わされるところであった。そして、その直後の文章には声を出して笑ってしまった。
中毒、身体合併症、血液検査の必要性を不安に思う精神科医には、自らが医師であることを思い出してもらう必要がある。
こういう皮肉っぽい表現も、本書から伝わるガミー先生の臨床哲学が前提にあるので素敵に感じられる。精神科医は、精神科医である前に、まず医師であるべきなのだ。

ガミー節ジョークはまだある。
人工物でなく天然由来だから、という理由で、ハーブ療法のような自然治療を受けたがる患者には、リチウムは岩石に含まれるミネラルであり、元素表に載っている天然の物質だ、と伝えるようにしている。
こう書いたあとの、次の一文。
リチウムよりナチュラルな薬物はそうない。
ガミー先生、どんな顔してこの文章を書いたのだろう。ニヤニヤしていたのかな?(笑) そんな想像すらさせる精神科の専門書はそうない。

またガミー先生は確固たる信念の持ち主であることが読んでいてひしひしと伝わってくるのだが、
判断材料が少ないので私が間違っている可能性もあり
といった謙虚さも持ち合わせており、医師としてだけでなく人としても尊敬できる人物だと思う。
ガバペンチンに関しては、熱狂的になったり落胆したりと、処方する精神科医のほうが躁とうつの波に翻弄されたかのようであった。
こういう言い回しも思わずニヤリとさせられて、読み進めるほどにガミー先生のことが好きになる。


全体を通じて非常に素晴らしく、読むと外来への意欲が高まる本だったが、注意点も一つ。

「金ヅチしか道具を持っていない人には、すべての問題が釘のように見えるものだ」とは、心理学者エイブラハム・マズローの言葉である。また「クリスマスにハンマーをプレゼントされた子どもは、何でもかんでも叩いてみたくなる」といった格言(?)もある。

この本がハンマーになってしまわないように気をつけたい。



これまで、
「診断名より治療が大事。治療内容そのものより、患者がいかに自分の人生と生活を取り戻すかが大切」
という考え方で診療していた。この考え自体は今でも大きく変わらないのだが、本書を読んで、そこに改めて加わったのが、
「一周まわって、やっぱり診断も大事」
ということ。この追加は些細に見えるかもしれないが、俺にとっては大きい。そしてこのパラダイムシフトによって、実臨床で得るところも多くなった。一例を具体的に言うなら、今まで以上に貪欲に勉強する気持ちが高まったのだ。

診断を再考するという目で年季の古い患者をみなおしてみると、どうやらこれは誤診(というより正確には時間経過が症状を明瞭にした)みたいだぞという人たちがチラホラいる。こういう時、
「あなたの診断と治療は間違っていた」
と明言するのは最悪である。また、明言せずとも、いきなり薬を変えるのも良くない。というのも、患者にとって診断名と治療薬の変遷、各時代での主治医との出会いとやり取りは、それ自体が「彼らの人生の一部」であるからだ。引き継いだ患者の「正しい診断と治療」を発見したからといって、患者の歩んできた歴史を軽視するのは医師の傲慢である。臨床医は「一人の人間」に対してもっと謙虚であらねばならない。病気そのものと向き合うのではなく、病気を抱えた人と向き合ったり寄り添ったりするのが良い医師だろうと、今の自分はそう考えている。

2016年1月7日

オックスフォード英語大辞典の完成に多大な貢献をした統合失調症患者の話 『博士と狂人』


『オックスフォード英語大辞典』というとんでもなく膨大な辞典の完成には、ウィリアム・チェスター・マイナーという男性が多大な貢献をした。彼は資産家の息子であり、元外科医であり、また元陸軍将校でもあった。そして、今で言えば、統合失調症を患う精神障害者でもあったのだ。

彼には幻覚妄想に影響されて殺人を犯したという経歴があり、そのせいで人生の半分以上を精神病院で過ごすことになった。彼は精神病院の中で本を読み、そして辞典の編纂者と連絡をとりながら、妄想と現実の間を行き来していた。

本書は狂人マイナー博士と、編纂者のマレー博士を中心にして、オックスフォード英語大辞典ができあがるまでを描いたノンフィクション。原題の『The Professor and The Madman』を直接に訳した邦題に好感が持てる。

紙の辞書・辞典が好きという人(俺も好き)には、それらがどうやってできるのかの一端を知ることができてお勧めである。

2016年1月6日

知的に高い子は、就学前にはあまり寝たがらないが、就学してからは逆によく寝るようになる

長女サクラは寝るのが苦手。

朝も早起き、というか、たとえば俺が5時に起きれば5時半に、6時半に起きれば7時にと、どうやら俺が布団を出てから30分後に起きる習性があるらしい。

昨日は、朝から犬を散歩させて戻ってきたら、サクラが縁側の窓に張りついて泣いていた。大声で言うことがイカしている。

「まだ眠いー! パパー! まだ眠いよー!」

だったら寝てなさい(笑)
結局、二度寝はできず、そのまま起きて朝ごはん。俺は朝の自分の時間がもてず毎日が残念。サクラは昼寝もしないので妻も毎日が大変。

俺の慰めは、どこかで読んだ、

「知的に高い子は、就学前にはあまり寝たがらないが、就学してからは逆によく寝るようになる」

という話。エビデンス? そんなものがあるのか知らん。我が家に欲しいのは、エビデンスではなく未来への希望なのだ。

ちなみに、サクラは今も、パソコンに向かっている俺の膝の上にいる……。

「いつまでパパが良いって言ってくれるんだろうね?」

そう尋ねると、寝ぼけた声で、

「ずっとパパが良い……」

ありがとう。

その言葉を、パパは一生の宝ものにするよ。



絶版になっている『一年一組せんせいあのね』という詩集から。この詩が好きでよく思い出す。


「へんなこと」 にし あきのぶ

ねるときは
もっとおきときたいのに
おきるときは
もっとねたい



どんな詩が入っているかは、以下にいくつか引用している。
子どもらしい詩が胸をうつ 『一年一組せんせいあのね』

2016年1月5日

タイトルからすると軽い読み物という雰囲気だが、実際には記憶の専門科によるわりと硬派な本 『なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか―記憶と脳の7つの謎』


記憶には7つの難点がある。本書の章タイトルがそれらを簡潔に説明している。

1. もの忘れ なぜ、ずっと覚えていられないのか
2. 不注意 忘れっぽい人の研究
3. 妨害 あの人の名前が思い出せない
4. 混乱 デジャ=ヴュから無意識の盗作まで
5. 暗示されやすさ 偽の記憶の誕生
6. 書き換え 都合がいい記憶、都合が悪い記憶
7. つきまとう記憶 嫌な出来事が忘れられない

記憶におけるこれらの難点は、確かに我々を戸惑わせたりイラつかせたり落胆させたりする。ではこの難点は脳の記憶システムの不具合なのかというと実はそうではなく、長い進化の歴史の中で培われてきた適応の一種なのだと著者は言う。「忘れるからこそ」情報の取捨選択や要約ができ、また「忘れられないからこそ」二度と危険な場所には近づかないといった行動をとるというわけだ。

タイトルからすると軽い読み物という雰囲気だが、実際には記憶の専門科によるわりと硬派な本である。それもそのはず、本書の著者は1991年からハーバード大学心理学部教授、1995年からは同学部の学部長を務めたような人物である。

原題は『The Seven Sins of Memory』で、直訳すれば「記憶における七つの大罪」といったところ。訳者あとがきに「専門知識のない人にも充分に楽しめるように」訳したとあるが、無理したせいか、逆に読みにくくなってしまっているのが残念。

2016年1月4日

リーダーとしての役割を求められる人にお勧め 『野村の眼』

 
著者の野村克也は元プロ野球選手・監督であるが、本書は診療に携わる精神科医としても、病棟医長というリーダーとしても非常にためになる一冊だった。

野村克也が楽天イーグルスの監督をやっていた時期、自分よりもかなり若いコーチ陣に対してかけた言葉が良い。
「お前らには、決定権はないが発言権はあるんだ。遠慮はいかん」
これは自分も病棟スタッフに対するスタンスとして心がけていることであり、また時には言葉にして伝えることでもある。

「医師の判断も診断も治療方針も、絶対に正しいなんてことはありえない」
だからスタッフの「なんか変だぞ」という感覚や報告を大事にする。それが自分の感覚とズレている場合には、その原因がどこにあるのかを考える。患者と接する時間の長さや観察する時間帯の違いなのか、それとも自分が男でスタッフが女性だから感じ方が異なるのか、単に自分の見落としか、あるいはスタッフの考えすぎか等々。そして今後の方針を決定するが、決定権は自分にある。もちろん結果の責任も自分にある。

どんな医師もチームリーダーとなることは避けられない。生まれながらにリーダーとしての資質がある人は、自分の感性に任せてチーム運営すれば良いが、残念ながら多くの人にはそういう天性の素質は備わっていない。自分もそのことを重々分かっているので、こういう本を定期的かつ貪欲に読むようにしている。ちなみに、野村克也もかなりたくさんの本を読んで言葉を磨いたそうだ。プロフェッショナルとは、そうでなくてはならない。

2016年1月1日

新年の抱負 「マタニティ・グリーフケアのチームを作る」 その一環で産科医が貸してくれた本 『ごめんね、ありがとう』 『ママ、さよなら。ありがとう』


精神科に通う女性の流産をきっかけに、当院にマタニティ・グリーフをケアするための体制が整っていないことを知った。当院で勤務してもうすぐまる6年になる。それだけ長く勤務していたのに、そういう大切な部分を見過ごしてきたことを大いに反省した。そもそも精神科と産科のある総合病院でマタニティ・グリーフケアのシステムがなかったというのがおかしいと思うが、それだけ難しいところでもあるのだろう。

どうにかしてマタニティ・グリーフケアのチームを作りたい。そういう想いを抱いて、産科医と話していると、この2冊を勧められた。

ファンタジーだと言われればそうかもしれない。オカルトと笑われればそうかもしれない。俺自身がこの2冊の内容をそのまま信じているのかと聞かれれば、いやそういうわけではないと答えるだろう。では、この2冊はまったく信用のおけない本なのかと問われたなら、それは違う、そうではないと断言する。

うまく表現できないのがもどかしいのだが、この本はうまく生まれることができなかった赤ちゃんのママとパパを癒すために存在しているということ。この本だけで癒されるわけではないと思うし、逆にこれらの本で癒しとは反対の感情を抱く人がいるかもしれない。それでも俺は、これらの本には価値があると信じている。


ただ一つ言えるのは、胎児の心拍停止を知らされて目の前で涙する女性に、

「赤ちゃんのために、いっぱい泣いてあげましょう」

と声をかけたのは、決して間違いではなかったということ。『ママ、さよなら。ありがとう』で語られている「赤ちゃんは、お母さんに笑って欲しい」という考え方とは異なるが、それでも方向性というか、目指すところは同じだという気がした。


1月1日に敢えてブログをアップしたのは、新年の抱負としてである。


今年度中にチームの形を作ります。