2016年9月29日

ヒーローとはなにか? スーパーマンを演じたクリストファー・リーヴによる自伝的エッセイ 『あなたは生きているだけで意味がある』


映画『スーパーマン』で主役を演じたクリストファー・リーヴは、1995年の落馬事故で脊髄を損傷してしまう。この時、リーヴは43歳前後。今の俺とほとんど変わらない年齢だ。

本書はリーブによる自伝的エッセイである。障害を負ってからの悩み、葛藤、怒り、失望、喜び、希望といった話が綴られている。

本文中には書かれていないが、リーヴは『スーパーマン』の撮影中に「ヒーローとはなにか?」というインタビューを受け、「先のことを考えずに勇気ある行動をとる人のこと」と答えていた。そんな彼が、事故後に同じ質問を受けた際に導き出した回答が胸を打つ。

ヒーローとはなにか?

「どんな障害にあっても努力を惜しまず、耐え抜く強さを身につけていったごく普通の人」

2016年9月27日

麻疹、デング、エボラなど、感染症アウトブレイクや、その予防・監視についてよく分かる! 『パンデミック新時代 人類の進化とウイルスの謎に迫る』

トキソプラズマという寄生性の原虫がいる。これは一部では「ゾンビ虫」と言われているらしい。トキソプラズマをテーマにしたドキュメンタリを観たことがあるが、フランスではこの原虫に感染している人が多いそうだ。そして、この原虫に感染すると性格が変わり、特に「危険なことを好むようになる」のだとか。

このトキソプラズマはネコを終宿主とする。つまり、トキソプラズマにとってネコこそが、目指すべき理想郷なわけである。ところが、トキソプラズマは人間にも家畜にも、そしてネズミにも感染する。そして、ネズミに感染した場合、ネズミはネコを怖がらなくなる。それどころか、ネコの尿のにおいに引き寄せられるようになるそうだ。これは、トキソプラズマがネズミの行動を変えていると考えられている。

そこでふと思う。そういえば、ネコを何十匹も飼うような人が時々いるが、ああいう人たちも、もしかすると……。そう、実際に「クレイジー・キャット症候群」なんて別名もあるほどネコ好きな人たちは、トキソプラズマに感染しているのではないかという説があるそうだ。感染すると、ネコの尿のにおいに鈍感になるどころか、ネズミと同じで引き寄せられるようになるらしい。


本書では、このような微生物、特にウイルスの話をメインに、感染症、アウトブレイク、パンデミックについて解説してある。

興味深かったのは、著者が関わっている感染症監視システムで、「デジタル疫学」とも呼ばれる分野の話。ツイッターやフェイスブックといったSNSを利用して、感染症アウトブレイクを監視するのもその一つだ。「咳」「発熱」「痒み」などのキーワードを対象にチェックし、そういう語句がたくさん出ている場所、グループを重点的に観察することで、アウトブレイクを未然に察知しようという試みらしい。実際、グーグルの検索語句と検索者の地域などを解析したところ、かなり高い精度でインフルエンザの流行地域と一致したようだ。

記述は全体的に平易で、特に専門的で難しいという部分はなかった。これを書いている平成28年9月7日時点の日本では麻疹の流行危機が話題になっている。この機会に、一流の学者による一般向けの本書を読んでみるのはどうだろうか。

2016年9月26日

ちょっとした空き時間にもらい泣きしよう! 『もらい泣き』


冲方丁が「泣き」をテーマに連載したエッセイをまとめたもの。どれも良い話ばかりなのだが、最初の一話目があまりに良い話でインパクトがあり過ぎて、個人的にはそれを超えるようなものがなかったのが少し残念。

短いエッセイが33編もあるので、空き時間の読書に最適。

2016年9月21日

終末世界ものが“大”好きな人向け! 『ザ・ウォーカー』


デンゼル・ワシントン主演で映画化もされている小説。

核戦争後の荒廃した世界で、舞台はアメリカ。主人公イーライは「本」を持って西を目指す。この「本」というのは実は聖書で、「聖書であること」には大したネタバレ要素もないのに、ずっと「本」として記述されている。思わず、もったいぶりやがって、という気持ちになる。

全体的には大したひねりもないストーリーであるが、街の支配者であるカーネギーの言葉には痺れた。

このカーネギーは、核戦争が起こった時にはまだ少年で、今は必死こいて聖書を手に入れようとしている。実は聖書は、戦争後にすべて禁書として焼き尽くさてしまっていたのだ。その聖書について、カーネギーがこう力説する。
「あれは“ただの本”じゃない! “兵器”なんだ! (中略)まだガキのころ、親父もおふくろも、毎日、あれを読んでいた」
「あの“本”は、絶望している者、弱っている者の心を、掌握できる兵器だ。人々に活気や希望を抱かせることもできれば、恐怖で威圧することもできる。人民の心を意のままにあやつれるんだよ、あれさえあれば。その用途や効果は無限だ」
「支配の手をひろげていくには、あれがどうしても必要だ。あの“本”の言葉を説くだけで、誰もが言いなりになる。審判の日以前の指導者たちは、みんなそうしてきた。今度は、わたしの番だ」
実に鋭い指摘であり、この言葉こそ本書の核心であり、このセリフのためだけに本書があると言っても過言ではなかろう。

終末世界ものが大好きな人向け。

2016年9月20日

のどかな田舎で、主人公と木訥な人たちとが織り成す人間模様が良い! 『壱里島奇譚』


熊本の天草地方にある架空の島「壱里島」を舞台にした村おこしファンタジー。

ファンタジーの部分を妙に引っ張らず、サラッと描ききったところはさすが。こんなに早くネタばらしして大丈夫なの!? と思ったが、そのまま飽きることもなくラストまで読めた。のどかな田舎で、主人公と木訥な人たちとが織り成す人間模様が気持ちよく、また最後は少しジンときた。やはり梶尾真治にハズレなし。

2016年9月15日

爆笑の連続! 『弱くても勝てます 開成高校野球部のセオリー』


開成高校は超進学校で、なんと毎年200人近くが東大に進学するという。そんな開成高校の硬式野球部が、平成17年の東東京予選でベスト16まで勝ち進んだ、という話を聞いた著者の好奇心が高まり、取材することになったようだ。

読んでみると、爆笑と感心の連続で、とてもではないが電車の中などで読めるような本ではなかった。例えばこんな感じ。
--野球って危ないですね?
外野を守る3年生にさりげなく声をかけると、彼がうなずいた。
「危ないですよ」
--やっぱりそう?
「特に内野。内野は打者に近い。近いとこわいです。外野なら遠くて安心なんです」
だから彼は外野を守っているのだという。なんでも彼は球だけでなく硬い地面もこわいらしく、そのためにヘッドスライディングができないらしい。打者も地面もこわいので隅のほうの外野にたたずんでいたのである。
また、あるピッチャーへのインタビュー。
--ピッチャーに向いていたんですね。
「向いてはいないと思います。僕には向いているポジションがないんです。向き不向きで考えたら、僕には居場所がありません」
監督がポジションを決める基準はシンプルだ。
・ピッチャー 投げ方が安定している。
・内野手 そこそこ投げ方が安定している。
・外野手 それ以外。

「これだけですか?」と私が驚くと「それだけです」と青木監督。
ある練習試合で、塁に出たランナーが牽制球でアウトになりまくる。どうやらピッチャーがモーションに入るとすぐに2塁に向かって走り始めるので、すぐに牽制で刺されてしまうのだ。
「ゆっくりスタートすればいいんだ!」と青木監督が叫んでも、彼らは動きがゆっくりするだけで、スタートを切るタイミングは早いのでアウトになった。「バカ」「バカ集団」「これをバカと言わずして何と言う、バカ」と青木監督。
こうして試合が進み、ついには、
監督も誰を叱ればよいのかわからなくなっている様子で、「そう、こうやって振るんだ! イチかバチか!」と相手校の選手のスイングをほめたり、「俺だけが気合いが入っているのか!」「さあやるぞ! 俺がなんでやるぞ! って言うんだ。そのこと自体がおかしい!」と自らを責めていた。そしてピッチャーがキャッチャーからの返球をジャンプして捕ろうとし、ジャンプから着地したところで捕球したりすると、「人間としての本能がぶっ壊れている!」「普通の人間生活を送れ!」と叫んだ。
青木監督の指導がいちいち面白い。
「必要なこと、思っていることを声に出す。声をかけられたヤツはそれに反応する。野球の監督がなんでそんなことを教えなきゃいけないんだ!」
ちなみに、この青木監督自身は、開成高校出身ではないものの東京大学卒業である。

もともとは「弱くても勝てます」というタイトルが、精神科医療の「下手でも治せます」に置き換えられそうで惹かれて買ったのだが、純粋に読書として非常に楽しい時間を過ごせた。とにかく面白くてお勧めの本。

期待しすぎて肩すかし…… 『運命のボタン』


『アイ・アム・レジェンド』が衝撃的に面白かったので手を伸ばした短編集、だったのだが、うーん……。

表題作の『運命のボタン』は面白かったが、それ以外はどうだろう……。これといって目立って面白い作品はなかったかな。

2016年9月12日

ミステリではなくユーモア小説 『ジーヴズの事件簿 才智縦横の巻』


優しいが頭の悪い主人公バーティはイギリスの金持ち。バーティに仕えるのが、優秀で頭のきれる執事のジーヴズ。語りはすべてバーティ視点で、ジーヴズが難問珍問をサラッと解決していくという構図は、名探偵ホームズと同じような感じ。

「事件簿」とは言うものの、ミステリのようなトリックがあるわけではなく、基本的にはユーモア小説。イギリスらしい皮肉のきいた言い回しがあるかと思えば、ドタバタコメディのような展開もあり、ちょいちょい吹き出しながら読んだ。

面白かったけれど、続編までは読まなくても良いかな。

2016年9月9日

スマイル抜きで

「スマイル抜きで」

そう注文されたことがある。

二十歳のころ、福岡のマクドナルドでアルバイトをしていたときの話だ。

大学入学してすぐの五月。正式に採用される前の試用期間で接客の練習をやらされたが、どうにも自然に笑うことができなかった。ただ、一応の愛想笑いができたことと、人手不足だったこともあってか、本採用ということになった。

最初はガチガチだった俺も、レジ打ちなどは徐々に慣れていった。しかし、どうしても笑顔が難しかった。
「いちは君、笑顔は笑顔なんだけどねぇ。もう少し自然さが欲しい」
店長からも数回指摘された。

そんなある日のこと。レジに並んだスーツ姿の若い女性から、
「テリヤキバーガーセット、スマイル抜きで」
という注文を受けた。
「お飲み物は何になさいますか?」
と笑顔で尋ねたら、真顔で、
「スマイル抜きなんですけど」
と言われ、非常に困った。

商品を渡す時も、いつもの癖で笑ってしまった。
「スマイル抜きって言ってるじゃないですか。すいませんけど、店長呼んできてください」
俺は笑顔が凍りついてしまった。真顔と笑顔の中間でスタッフルームへ向かい、店長を呼んだ。
「スマイル抜きって頼まれたお客様に笑顔で応対してしまって……。 なんとなく怒らせたみたいで、店長を呼んでと言われました」
机で作業していた店長も表情を固くしてレジに向かった。

レジでは、さっきの女性が待っていた。 その女性を見るなり、店長が、
「えっちゃん、ひさしぶり~!!」
と言った。
「店長、おひさしぶりです~」
“えっちゃん”と呼ばれた女性は、満面の笑みでそう答えた。
「新人君みたいだったんで、からかってみました。笑顔も固かったし」
俺はホッとして、体の力が抜けた。店長が俺を見て笑っていたので、俺もつられて笑った。
「その笑顔だよ~、新人君」
“えっちゃん”も笑っていた。

後から知ったのだが、“えっちゃん”はエツコさんで、就職を機にアルバイトを辞めた先輩だった。エツコさんも入りたての頃は笑顔が固かったらしい。彼女は、店長や古株の先輩たちと仲が良く、「スマイル抜き」事件の後、バイトの飲み会に何回か参加した。

そうこうするうちに、俺とエツコさんは仲良くなって、友人とも、恋人とも、姉弟とも言えないような関係になった。俺は大学での出来事を相談したり自慢したり、エツコさんは仕事について熱く語ったり愚痴をこぼしたりした。週に二回くらい会っては、そういう時間を笑いながら過ごしていた。

その年のクリスマスはエツコさんと過ごしたし、初詣にも二人で行ったけれど、男女の仲にはならなかった。エツコさんは、いつも笑っていた。

翌年、二月の最初。エツコさんが東京に転勤することが決まった。やりたかった仕事に一歩近づけるらしい。その日は、二人して笑顔で乾杯した。

バレンタインデーも、ホワイトデーも、一緒に笑って過ごした。そして、三月末、とうとうエツコさんが東京に行く日になった。

博多駅、新幹線のホーム。

乗車口に来るまではお互いに色々と明るく話していたけれど、新幹線のつるっとした姿を目の前にすると、エツコさんが遠くに行ってしまうという実感がわいた。会えなくなるわけじゃないだろうけれど、会わなくなるだろうと思った。

新幹線に乗る直前、エツコさんが俺に右手を伸ばした。
「握手!」
初めて握るエツコさんの手は意外に温かかった。そして、エツコさんは、手に力を込めて言った。
「バイバイって言って。スマイル抜きで」
初めて見るエツコさんの泣き顔。スマイル抜きでと注文されたけれど、俺は自分なりに最高の笑顔を作って答えた。
「バイバイ!」

新幹線の窓に映る俺の顔は、最低の泣き顔、スマイル抜きだった。

2016年9月8日

虐待からは、子どもだけでなく、親をも救わなければならない! 『虐待 沈黙を破った母親たち』


虐待する母を責めるだけでは不十分で、虐待から「子どもを救う」を一歩進めて「子どもと親を救う」という視点で語られた本。虐待は、子どもはもちろん、親もまた自らの虐待行為に悩み苦しんでいることが多く、そして親自身も過去に虐待の被害者だったということも珍しくない。

その実例として、4人の女性が挙げられている。それを読むと、彼女らが子どもを虐待する原因は、彼女らの親にあるのだという気がしてくる。しかし、よく考えると、同じ論理が彼女らの親にだって当てはまるはずで、親が彼女らを虐待したのは、親の親に問題があるのだ、ではその親の親はなぜ問題を抱えたのかというと親の親の親が……、こうやって諸悪の根源を探していくとキリがない。

では、今できることは何か。もう少し正確に言えば、「今の世代」でできることは何か。それは虐待の連鎖を断ち切ることである。そのためには、当事者だけでなく個々人が、まず「虐待」を知ることである。報道される残酷でセンセーショナルな虐待内容だけを見聞きして眉をひそめ、虐待する親を批難するだけでは何も変わらない。本書では、4人の事例を紹介した後、アメリカでケースワーカーとして働く日本人、弁護士、精神科医にもインタビューしてまとめてある。

一朝一夕に、劇的な改善というのはあり得ない。虐待してしまう親の「当事者会」に出会って、精神的に救われたと感じる親たちでさえ、やはりふとした時に虐待に向かってしまうことがあるらしい。それくらいに根は深い。だから、「今の世代で断ち切る」というのは不可能なのかもしれないが、少なくともそのための大切な一歩にはなれるはずだ。

本書は、虐待の悲惨な内容だけでなく、この「どうすれば断ち切れるか」という視点でも掘り下げてあるところが良かった。

2016年9月6日

世界は続くよ、それなりに、厳しく、優しく、汚く、美しく 『アニバーサリー』


全3章から成る小説。主人公は東日本大震災の時点で75歳の晶子と、30歳過ぎた真菜。

第1章は晶子の出生時から戦前、戦中、戦後の暮らしが描かれる。これまでの窪美澄の作品からすると異色で、わりと淡々としていて、読者をグイグイひきつける感じではない。こう書くと、なんだか退屈そうだが、読んでみるとそうでもなく、時おり涙ぐみそうになった。子どもができてから、家族がテーマの話では涙腺が緩い。

第2章は真菜の出生から大震災後まで。真菜は俺よりちょっと下の世代なので、時代の雰囲気がよく分かる。この章では援助交際の話が出てくる。かつて、ただ軽蔑して卑下するだけの存在だった援助交際が、自らが父親になったことによって危機感や恐怖心を抱くものになってしまった。

第3章では、晶子と真菜の視点を交互に移しながら描かれる、いわば「まとめ」の章であるが、クライマックスといった感じでもない。第2章が窪美澄らしい、わりと派手でエロチックな内容だったので、第3章はどうしてもトーンダウンしたように感じてしまう。

全体を通じて窪美澄が訴えたいことは分かるのだが、晶子が75歳で、マタニティ・スイミングの指導者で、しゃきしゃき動きまわって、という強引な設定に戸惑ってしまう。物語のテーマを語るうえで戦前と戦後を対比する必要があり、そのために、戦時中の疎開を経験した人を主人公にしなければいけなかったのだろう……、というところまで考えてしまい、ちょっとだけ興ざめしてしまった。もちろん、そんな元気な75歳がいることだって分かってはいるんだけれどね……。

内容としては良かっただけに、ちょっぴり残念。

2016年9月5日

サディズム男たちの、たくさん笑えて、ちょっと切ない観察記録 『オンナ部 M嬢すみれのちんぴんファイル』 文庫化で改題 『エム女の手帖』


SMのM、つまりマゾのほうとして風俗店で働いた著者の体験エッセイ、という形式の小説、かな?
真っ白なスーパーカーで迎えにきた初めてのお客さんは助手席の私にいった。
「じゃ、浣腸しといて」
のっけからこんな感じで、何度となく吹き出しつつ、しかし、どの章をとっても、滑稽さと同時に哀しさと切なさが漂う、非常にエキセントリックかつ面白い本だった。

著者は泉水木蘭という女性。話の中身は具体的で、実体験した人でないと描けないようなものではあるが、多くの風俗嬢を取材することでも描写可能かもしれない。やけにデキすぎていて、まとまりすぎているせいで、小説のような気がしてしまう。また、著者のWikipediaにも風俗歴については触れられておらず、それも本書を「小説だろう」と考える理由である。

ちなみに、Wikipediaで知ったのだが、著者はお笑い芸人・小梅太夫の元妻。小梅太夫はまったく面白くなかったが、こんなセンスのある妻がいたのなら、ネタを作ってもらえば良かったのに……。チクショー!


※文庫版は中古しかないが、単行本は新品がある。古本が苦手な人は単行本かな。文庫のほうには松尾スズキによる解説があるようで、しかもそれが一読の価値あるものとのこと。

2016年9月1日

人は人を愛したいし、人から愛されたい。たとえどんな境遇にあっても…… 『月桃夜』


江戸時代、薩摩藩から徹底的に搾取された奄美大島を舞台にした物語。

奄美の人たちはサトウキビを作ることを強制され、税として砂糖を納めなければならなかった。足りない分は、人から高利で砂糖を借りて上納する。貸し付けられた分を返せないと、ヤンチュという身分となって、貸し主の家の労働力となる。返済すればヤンチュからは抜け出せるのだが、もとが高利なので、抜け出せるものなんていない。そして、ヤンチュの子どもは「ヒザ」と呼ばれ、この子らは親が借金を返すか返さないかに関わりなく、死ぬまでその家の労働力、持ち物、財産として扱われることになる。

主人公は、ヒザであるフィエクサで、ヤンチュで血のつながらない妹サネンと二人で厳しい生活を生き延びる姿を描きつつ、兄妹としての愛情だけでなく、二人の男女としての恋情も、痛みや切なさを伴って描写してある。

全体を通して、搾取に喘ぐ人々の重苦しさが漂う。選考委員の椎名誠は、
「これだけ緻密に奄美を描いた小説は初めて」
と評したらしい。理不尽すぎる身分制度の中にあって、主人公らは逞しく、人を思いやる気持ちを失わない。そんな懸命な生き方に胸を打たれる。決して明るい話ではないが、日本ファンタジーノベル大賞の大賞を受賞したのも納得の作品だった。