2016年6月30日

哀しみと葛藤の物語 『ウォーキング・デッド ガバナーの誕生』


ゾンビ系を含め、「終末世界もの」と言われるジャンルの本や映画、ゲームには根強いファンがいる。俺もその一人。『ウォーキング・デッド』はマンガ原作で、アメリカではテレビドラマ化もされ、そしてスピンオフで出た小説が本書である。

最近のゾンビ映画では、ゾンビが走る。しかも、噛まれてから発症までの時間が十秒とかからない。こんなゾンビだったら、きっと局地的な流行で終わるだろう。なぜなら、最初に発生した大陸の人たちは滅んでも、海を隔てた大陸や島までは到達しないからだ。一般的に、ウイルスや細菌は潜伏期の長いほうが広く流行するもので、ゾンビ自らが船や飛行機を操縦しない限り世界的流行はあり得ない。

エンタテイメントとして致命的なのは、走り回るゾンビがいる世界には、哀しみも葛藤もないことだ。では、ゾンビ映画における人の哀しみや葛藤とはどんなものか。

まず、ある人がゾンビに噛まれる。その人は数時間から数日かけて死に至る。つまり、ゆっくりと発症する。その間、家族や友人は感染者を殺すべきかどうかで葛藤し、時に言い争う。
「治療法があるかもしれないじゃないか」
「いや、現実を見ろ! 発症する前に殺すべきだ!」
「そんなのひどい! せめて人として死ぬまで待とうよ!」
「そうやって手遅れになったらどうするんだ!?」
「大丈夫! ちゃんと見張っていれば……」
なんて議論をしているうちに、ゾンビ化してしまった感染者が後ろに立っている、というデフォルト・パターン。ここに哀しみと葛藤を感じてしまうではないか。

それから、こういう感染・発症の仕方だと、感染したことを隠して医療先進国に渡航する人が出てくるので、海を越えて感染が広がる。そして、動きの遅いゾンビが大量に発生する。一体ずつなら楽に相手できるのに、数百体、数千体、数万体となると、もうどうにもできなくなる。「数の暴力」というものの怖さを感じることができるのも、「スロー・ゾンビ」ならではだ。

それはともかくとして、本書について。

いわゆる「神視点」の小説なので苦手な人もいるだろう。また、ストーリー前半が、ゾンビから逃げる、立てこもる、脱出するを繰り返すので少し退屈でもある。ただ、ある意味これこそリアルなのかもしれない。中盤になると物語が動き出す。そして、ラストは鳥肌もの。ただし、本編であるマンガのほうを読んでいないと(あるいはドラマを観ていないと)、まったくの意味不明だろう。

『ウォーキング・デッド』のファンにはぜひとも読んでみて欲しい、哀しみと葛藤に満ちあふれた本。



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