2016年4月22日

泣いて笑ってホームレス

ホームレスのゲンさんと過ごしたのは一ヶ月くらいだったろうか。

当時、俺は福岡の大学に通う学生だった。一眼レフのカメラにはまっていて、フォトジャーナリストを目指していた。アフガニスタンなどの写真を撮って活躍していたカメラマンの長倉洋海に憧れていた時期でもある。フォトジャーナリストへの第一歩として、まずはホームレスの生活に密着し、写真を撮らせてもらおう。そんな、軽い考えだった。

正直に言おう。ホームレス生活など、一週間ももたない。俺がホームレス生活をしたのは、せいぜい三日。あとは自分の家に帰り、シャワーを浴び、暖かい布団で眠った。冬だったのだ。寒くてたまらなかった。フォトジャーナリストを目指すとは言ったものの、段ボールで生活するほどの気概もない、半端者だったのだ。なるべく密着、それで一ヶ月間。それが、俺の限界だった。

ゲンさんは、愛想が良かった。酒の飲めないゲンさんは、酒なんか飲まなくても表情が柔らかな人だった。だから、俺はまず取っ掛かりとしてゲンさんを選んだ。ゲンさんは二つ返事で肩を組んでくれた。俺の服は汚れた。

ゲンさんは、犬を飼っていた。薄黄色の短い毛並みの子犬だった。近くで拾ってきたらしい。ケンと名付けられた仔犬は、人なつこかった。ゲンさんの犬がケン。ネーミングセンスには苦笑した。

ケンはカメラが好きだった。というより、シャッター音がケンのツボにはまったのだろう。ゲンさんの写真を撮ると、ケンがカメラに飛びつく。笑いながらゲンさんがケンを抱きかかえる。シャッターを切ると、ケンが嬉しそうにゲンさんの腕を飛び出して、俺のカメラに飛び掛ってくる。ゲンさんが歯の欠けた笑顔で言う。
「家なしのケンを、弟子にしてあげてよ」
ケンは、汚い舌で俺とカメラを舐めまくっていた。

俺がケンにお菓子を買っていくと、
「ダメばい、人間も犬も、甘やかしたらダメになっけん」
そう言って、ゲンさんは俺からお菓子を取り上げた。そして、次のセリフは決まってこうだ。
「ばってん、甘えることを知らんちゅうとも、可哀そかけんね」
そして嬉しそうにケンにお菓子を与えるのだった。俺は、ゲンさんセコい、と何度も思った。

ところで、ホームレス生活者には、犬を飼う人が多い。猫を飼う人はあまりいない。路上で生きる寂しさは、猫では紛れないのかもしれない。たくましく生きているように見えても、寂しさを抱えていない人は、皆無だ。

いや、そういえば、一人だけ、ツヤ子さんがいた。ツヤさんはホームレス生活にまったく寂しさを感じていないように見えた。ツヤさんにとっては、道行く人全員が親戚のようなものだった。目の前を通り過ぎていく人たちに、「行ってらっしゃい」と声をかけ、「お帰りなさい」と一日を労う。そんなツヤさんは、博多駅では『挨拶バァサン』として気味悪がられてはいた。それと同時に、通行人の表情、特に帰宅時間帯の彼らの顔には、うっすらと安心感のようなものが漂っていた。都会に住む人は誰だって、ほんの少しの孤独を抱えている。薄気味悪い挨拶だって、毎日続けば、灯台の明かりのようなものになるのかもしれない。自分は今日も、無事に帰ってきた、と。

ツヤさんとゲンさんは、仲が悪かった。七十歳近いツヤさんと、五十歳前後のゲンさん。仲の悪さの原因は分からない。長年の確執というやつだろうか。とにかく、ツヤさんはゲンさんにだけは挨拶をしないし、ゲンさんも、ツヤさんの前を通る時だけは表情が固かった。

ゲンさんからは色々なことを教わった。美味しい残飯のある場所。高級料理店のエビマヨ、の残飯。フグの刺身、の残り。柔らかいらしい、牛肉ステーキのかけら。もちろん、俺は食べなかったけれど。目の前でカップルがセックスする公園の茂み。当然、俺は目を皿のようにした。いかな寒空の下でも、そういう場では人間は寒さを忘れてしまうようだ。行為に及ぶ者たちはもちろん、行為を覗き見る者たちも。

それから、ゲンさんが連れて行ってくれたのは、博多駅から出てすぐの、隅の隅。駅ビルのゴミが集められる場所。そこで、ゲンさんは言った。
「おぃはさぁ、赤ん坊の時、ここに捨てられとぉたとよ」
明るい声で、軽い調子で、ゲンさんは言った。
「おいはね、どげんこつあっても泣かんとよ。泣いたら負けやもん。乞食やらこげんなっても、泣き顔みせん。そぃが、博多もんっちゅう気持ちはあるたいな」
目で笑い続けるゲンさんの欠けた歯の隙間から、寂しさと哀しさがこぼれてくるような気がした。

犬のケンが死んだ。いや、死んだのではなく、蹴り殺されたのだ。酔っ払いの若者だった。俺はその現場を、目の前で見ていた。五人組の若者のうちの一人が、何か叫びながら、ケンを蹴った。俺はちょうどカメラの手入れをしていた。ケンは本当に、キャインキャインと鳴いて、それから少し吐いた。蹴った男の仲間たちは、
「お前、なんしよぅとや」
と、口々に蹴った男を諌めていた。蹴った男は、酔った口調で、
「こいつが、チョロチョロしとぅけん、あっち行けぇて言うただけたぃ」
と言っていた。俺は、そいつを殴りたかったけれど、ただ震えて座っていた。顔を赤くしたゲンさんが段ボールテントから出てきた。修羅場になるところだったが、五人組は素早く帰っていた。あとには、俺と、傷ついた仔犬と、ゲンさんしかいなかった。翌日、俺はケンに牛乳とお菓子を買って行った。でも、ケンは埋葬されていた。ゲンさんは、どういうわけか、俺につかみ掛かって、
「お前やろがっ、お前やろぅがぁ」
怒った表情でそう言った。俺は言葉が出なかった。ゲンさんはすぐに正気になって、俺に謝った。

俺は、ゲンさんのところに行きにくくなった。博多駅近辺を歩いていてゲンさんに会うと挨拶くらいはする。しかし、それだけ。なんとも言えない、気持ちの悪い薄い膜が、俺とゲンさんの間にあった。

俺は半分は仕方なく、半分は自然の成り行きでツヤさんと仲良くなった。それで、ツヤさんと一緒に通行人に「行ってらっしゃい」と笑い、毎夕、「お帰りなさい」と声をかけてみた。俺の形だけの挨拶に比べて、ツヤさんの言葉には暖かさがあった。心がこもっている、という言い方はありきたりだけれど、ツヤさんに「行ってらっしゃい」と言われた人は心もち背筋が伸びていたし、「お帰りなさい」と言われた人はネクタイを緩めていた。

ゲンさんと離れ、ツヤさんの挨拶に暖かさを感じ、俺は、ホームレス密着が嫌になった。

俺が、ホームレス密着をやめるとツヤさんに告げた日。ツヤさんが、ぽつりぽつりと話してくれた。それは、彼女がまだ若い頃の話だった。ツヤさんは、子どもを捨てていた。正確には、物心のついた男の子を、置き去りにしたらしい。
「ちょっと待っとき、母ちゃん、すぐ戻るけん。そげん言うて、逃げたとさぁ」
ツヤさんは、脂ぎった髪の毛を撫でながら、そう言って笑った。
「あんちゃんは、絶対にそげんことしたらいかんよ。一生、一生」
ツヤさんは言葉を詰まらせ、押し出すように言った。
「そげんことしたらね、一生、泣けんよ。一生、泣かれんよ。泣く資格のあるもんかい」
ツヤさんは、また、笑った。

実はゲンさんとツヤさんは生き別れた……、なんて、そんなドラマチックなエンディングはない。ゲンさんとツヤさんは、決して親子ではないだろう。ゲンさんは赤ん坊の時に捨てられたのだし、ツヤさんは物心ついた男の子を置き去りにしたのだから。だけれどもきっと、二人は互いに知っていたのだ。彼は捨てられた側、彼女は捨てた側、ということを。だから、仲が悪かったのだろう。いや、仲が悪かったということではなく、互いにかける言葉がなかったのだ。だって、そうじゃないか。捨てられた子から、捨てた母へ、捨てた母から、捨てられた子へ。いったいどんな言葉がかけられるっていうのだ。

ツヤさんは、俺が大学を卒業する前に亡くなった。彼女には俺の電話番号を渡していた。それを見た役所の人が連絡をくれた。それで俺も葬式に出席した。ちっぽけな、みすぼらしい葬式で、出席者も少なかった。

火葬場で、懐かしい顔を見た。ほとんど誰も泣いていない中で、号泣しているゲンさんだった。どんなことがあっても泣かないと笑って話したゲンさんが、人目もはばからずに、鼻水まで垂らしてわぁわぁと泣いていた。そんなゲンさんを見ながら俺は、自分に泣く資格なんかあるもんかと言った、そんなツヤさんの笑顔を思い出していた。

よかったね、ツヤさん。ようやく、ツヤさんも泣けるよ。思いっきり、泣いて良いんだよ。

俺は、泣きながら、笑った。

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