2015年11月19日

罪の償いとは何だろう? 模範囚とはどういう意味だろう? 刑務所で大人しく過ごすことが罪を償うということなのか? 『白昼凶刃』

通り魔によって、1歳男児、3歳女児、27歳の母が殺害された現場を目撃した主婦はこう語る。
「倒れた奥さんは『ロアール』の前に仰向けになり、痛い痛いと苦しんでいたいので、“すぐ助けが来るからね”と声をかけてあげました。幼稚園の子は仰向けに倒れて苦しがり、お腹から腸が飛び出して、それを両手でつかんで身をよじっていました。お母さんはその横に倒れて、何かを訴えているようなので、“お子さんはだいじょうぶよ”と声をかけてあげたら、そのとたんに動かなくなりました。診療所の先生はバギーに乗ったまま倒れている赤ちゃんを介抱していましたが、“まもなく死ぬ”といわれ、赤ちゃんはボクシングをするような恰好で両手を前に突き出し、目を開いて口惜しそうな顔をしていました」

白昼凶刃―隣りの殺人者

昭和56年6月17日、歩行者6人を次々と刺し、4人を殺害した川俣軍司(本書内では川本軍平と記載されている)の生い立ちから犯行、裁判の結審までを追いかけたルポである。自分の子どもがちょうど3歳と1歳、妻が29歳で、被害者とまさに同じような家族構成であるために他人事とは思えず、胸が痛む話であった。妻子3人を失った会社員は、若くして父母を亡くし、兄弟姉妹もいなかったため、幸せな家庭に憧れていたそうだ。ようやく手に入れた幸せな家庭生活を踏みにじられ、その後しばらくは酒浸りで体調を崩し、
「この家に居れば妻や子が居る気がして、部屋で子どもとフザけっこする夢を見る」
と洩らし、行き先を明かさずに引っ越しをしたようだ。

逮捕後、犯行方法を確かめるため、警察署で婦人警官を被害者に見立てて再現させたところ、川俣は冷静に再現してみせた。たいていの被疑者は罪の意識にとらわれて手足がすくむそうだが、川俣は平然とやる。それがあまりにも真に迫っているもので、襲われる役の婦人警官が逃げ腰になるほどだったという。

こんなことをしておきながら、警察には、
「殺す意志はなかった、俺が刺したらたまたま死んでしまった」
というようなことを言ってのける。遺族でなくても腹立たしい言い分だが、遺族であれば気も狂わんばかりになるだろう。

死刑を免れて無期懲役で結審した後、川俣は弁護士らに控訴したいと言い出した。二名の弁護士は必死になってそれを止めた。すると川俣は数日考えた後に控訴を取り下げることにする。そして弁護士に、
「今度こそ家庭をもって幸せになりたい。でもお勤めは無理でしょう。誰も雇ってくれないだろうから。……、いや、世の中には物好きがいるから、俺のことを使ってくれるかもしれない」
そんなことを饒舌に語った。
「先のことはともかく、今は罪の償いをしなさいよ」
弁護士にそうたしなめられて、川俣はこう言った。
「だから、模範囚になれば、早く出所できます。十年も経てば出れるから」
罪の償いとは何だろう?
模範囚とはどういう意味だろう?
刑務所で大人しく過ごすことが罪を償うということなのか?

ふと、神戸連続児童殺傷事件の加害者である「元少年A」を思い出した。彼が事件をネタに本を出版したりホームページを作成したりして、遺族の心情を逆なでし続けているにもかかわらず、「元少年A」という匿名で守られていることに違和感と腹立たしさを抱く人は多いだろう。これに対し「法に則った処罰を受けて、罪は償ったのだから」という意見もある。

人を殺した罪を償うということは、そういうことなのだろうか?
俺は違うと思う。
そして、法的に処罰しても罪の償いができない人間には、それ相応の社会的処罰が必要だとも思う。「元少年A」に関して言えば、それは実名と顔写真の公開だろう。

本書の話とは無関係なところへ話が飛んだが、そんなことを考えさせられた。


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