2014年2月26日

ごめんで済むなら

「ごめ……」

そこから先が出なかった。残りは、ん、だけ。文字にしてみれば、たった一文字。正確には、「め」も薄くしか出せなかったから、謝るのに必要な心のハードルが、「め」と「ん」の中間にあって、どうやら私の舌がそこでつまづいているようだった。私は、ため息をつきながら玄関を出た。こんなに足取りの重い出社は久しぶりだ。

昨夜、帰宅した私をいつものように笑顔で出迎えてくれた妻。いや、いつもより浮き立った笑顔だったかもしれない。どうしたの、今日はやけにご機嫌だね。そう声をかけた途端、妻の笑顔はみるみる冷めていった。用意されていた豪華な料理は、妻の冷めた笑顔とは反対に温かく、その差が、なんだか怖かった。妻がこんなに手の込んだ料理を作るからには、何か理由があるはずだった。それを思い出しさえすれば良いはずだ。いや、良いかどうかは分からないが、この空気が多少は改善するはずだ。考え事をしながら食べる料理は、どれも味が分からなかった。仕事で疲れて帰宅して、どうしてこんなに気を遣わなければいけないのか。だんだんと腹が立ってきた。無言のまま食事を終えて風呂に入り、ビールを飲もうと冷蔵庫を開けた。ビールは切らしていたが、小ぶりのシャンパンがあった。妻は先に寝室に行っていた。私はキッチンに立ったまま、シャンパンをラッパ飲みした。

朝の会話は気まずくてぎこちなく、テーブルに置かれた弁当を無言でカバンに詰めて玄関に向かった。行ってきますと言った後、機嫌をなおしてもらうべく一応謝っておこうかと思ったが、うまく言葉が出なかった。少し急ぎ足で駅までの下り坂を歩いた。おそろいのマフラーを巻いて登校する高校生カップルが、笑いながらじゃれ合っている。その明るさが羨ましい。かつては私たちにもこういう時代があった。結婚して十年、高校生や大学生の恋みたいな情熱はないにしても、夫婦としてはうまくいっているほうだと思う。その証拠になるかどうか、妻と私は滅多にケンカをしない。だいたい年に一回くらいだ。そして、ケンカをした後は、こうやって重い足取りで出社することになる。最後にケンカしたのも、ちょうど今くらいの季節だったろうか。その時のケンカの理由は……。そこで、はたと思い出した。昨日は、結婚記念日……、だった。去年のケンカの理由も、同じだったのだ。

結婚記念日を忘れるなんてこと、男なら誰にだってある、はずだ。仕事をしながら、私は昨夜の妻の不機嫌さに対して苛立っていた。こちらは働いている身で、あちらは主婦。私のスケジュール帳には、黒ペンや赤ペンで書かれた仕事の予定がぎっしりだ。それに比べて、妻のカレンダーには浮ついたピンクで記念日が記されているのだろう。忘れた私も悪いことは重々分かっているが、少しはこちらの身になってくれても良いじゃないか。そんな考えが浮かんでは消えて、午前中の仕事は手につかなかった。

昼休み。弁当を抱えて屋上に行った。こんな時でも弁当を作ってくれるところには感謝しなければいけないな。そんな気持ちも、弁当箱を開ける瞬間までだった。弁当箱の中には、真っ白いご飯だけ。梅干し一つ入っていない。妻の不機嫌な顔が脳裡に浮かぶ。ご飯で真っ白な弁当が恥ずかしくて、周りにいる新人の女の子たちに見られないよう体をかがめながら箸を運んだ。口に入れたご飯は、美味しくもない。くそったれ。白い米を噛みながら、口の中で呟いた。そして、もう一口。さらに、一口。そこで、ふと気がついた。海苔が混じっている。よく観察すると、白いご飯だけかと思った弁当は、二層仕立てになっていた。底に白いご飯が敷いてあり、海苔が見え隠れして、さらにご飯がかぶせてある。私は、遺跡を発掘するような慎重さで、上段のご飯をすくって食べた。何かを隠すように盛られたご飯を取り除いてみると、弁当箱の中に、海苔で書かれた「ゴメン」の文字。昨夜、帰宅した私を迎えてくれた妻の笑顔が目に浮かんだ。ラッパ飲みしたシャンパンの泡が、今ごろになって胸の中で弾ける。小さく深いため息を一つついて、それから大きく息を吸い込んだ。
「ごめん!!」
弁当箱に頭を下げる私を、周りの新人たちが驚いて見ていた。

帰り道、酒屋によって大き目のシャンパンを買った。よくよく考えると、妻が謝る理由などない気がした。悪いのは、結婚記念日を忘れた私なのだ。去年も、一昨年も、その前も、毎年。ほとんど空白のカレンダーに、ピンク色で結婚記念日だけが書き込まれていて、その日を楽しみにしてくれて、その日を盛り上げようとしてくれる。そんな妻に、非なんてない。それなのに、妻は彼女らしい茶目っ気で弁当に「ゴメン」と書いてくれた。それを見て、私も「ごめん」と素直に叫べた。ゴメンで済むなら警察は要らない、なんて子どもの頃に言っていたけれど、こんな私とゴメンで済む関係でいてくれる妻は、大切な人だ。

ごめん、ゴメン、ごめん、ゴメン、ごめん、ゴメン、ごめん、ゴメン。

歩きながら口の中で繰り返していると、なんだか不思議な呪文のような気がしてきた。家に帰って妻の顔を見たら、この呪文を真っ先に唱えよう。まずは、絶対に、私から。続けて、ゴメン、と言いそうになる妻の唇をキスで塞いで、そして目を見てもう一回、私から、ごめん。

これからも一緒に。

そう願いを込めて。

4 件のコメント:

  1. ステキ!!!!!!!

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    1. >匿名2014年3月3日 23:56さん
      ありがとうございます!

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  2. ニヤけながら読んでいたオレは相当キモかったと思うけど、こういうのを書かせたらERさんの本領は遺憾無く発揮されるなあ・・・と思いました。

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    1. >キム兄さん
      ありがとうございます。
      こういうのをニヤけながら書いている俺もそうとうキモいんですよ(笑)

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