2013年12月18日

吾輩は犬である

吾輩は犬である。

名前は付いているのだが、人間語の発ウォンは難しい。昔、カメの中で溺れ死んだ猫がいたらしいが、なんとも間抜けな話だ。そもそも、猫は気にくワン。人間語も分かりづらいが、猫語など全く分からん。たまに吾輩の近くに来て、なんだか訳の分からぬ事を言っているのだが、脅かしても一向に逃げようとせん。吾輩が鎖につながれているのを知っておるのだ。ええい、いまいましい。だいたい、猫のあの人間を馬鹿にした態度が気にくワン。確かに人間は馬鹿だ。それは認める。しかし、吾輩のご主人に限って言えば、それはもう立派な方だ。

ご主人を想うとき、吾輩はあの寒いダンボールの中を思い出す。あの時、吾輩は震えていた。一緒に居た兄弟姉妹たちは、一匹、また一匹と人間たちに連れて行かれ、吾輩は一匹ぼっちだった。時々、カラスがのぞきに来て、吾輩の弱り具合を確認していた。ある程度弱ったら、きっとあのくちばしで……。寒さと恐怖でどうしようもなく、吾輩はひたすらに鳴いた。鳴いて、啼いて、泣いた。そして、ご主人が現れたのだ。まさに救世主。我が敬愛するご主人……。

そのご主人が、あの馬鹿猫に笑顔で餌をあげようとしておるのに、奴ときたら自分で取りに行こうともしない。ご主人に持って来させるのだ。気にくワン。吾輩など、取りに行ってもすぐには食べられんというのに。ご主人が何を言っているのかは分からんが、目つきや声の調子や手つきで、まだ食べてはならぬ、そう言っているらしいことが分かる。仕方がないので、ご主人の顔を見て、許可されるのを待つ。なるべくヨダレは我慢しておるのだが、どうしても垂れてしまうのが恥ずかしい。なるべく早く許可されるように、一生懸命に尻尾を振る。振って振って振りすぎて、しりの筋肉がしびれ出す。うーむ、あれは苦しいもんだ。

苦しいといえば、今でこそ歳をとってしまって、あっちのほうはそれほど不満もないが、若い頃はそれはもう大変だった。家の前を若くて可愛いメス犬が通ったりすると、鎖を引きちぎってでもやりた……、いや、交尾をしたいと思ったものだ。欲求不満がたまって、夜吠えもしたことがあるが、ご主人にこっぴどく叱られたのでやめた。今となってはあれも若気の至り。

さて、ご主人には、奥様と子どもが一人ずついる。子どもはオスだ。吾輩がこの家に拾われたばかりの頃に生まれた。まあ、幼馴染と言っても良いだろう。よく散歩にも連れていってあげたものだ。吾輩がついていないと、危なっかしくて見ておれない。彼はもう十年も生きているのに、いまだにパートナーがおらず、子どももできない。欲求不満もないようで夜吠えもしない。

ああ、それにしても午後の日なたぼっこは気持ちが良い。何でお日様はこんなに気持ちが良いのだろう。もうちょっと日当たりがよければありがたいのだが。あと少しでお日様がサンサンと当たる場所に届くのだが、そうすると首が苦しい。そうこうするうちにだんだん眠くなってきた。ご主人も奥様も子どもも今日は出かけていて、なんだか寂しいものだ。いつもは奥様がなでてくれるのに。せめていい夢でも……。

ん?
何だか怪しい奴。誰だお前。何を怖がっておる。いつも見かける奴と同じ服だな。しかし、臭いが違う。お前、何をしておる。ああ、なんだ。ユービンとかいう奴か。それならそういう臭いを出せ。ややこしい。おどおどしているから、悪者かと思ったじゃないか。歳はとっても番犬の端くれぞ。この家は吾輩が守る。そう、この吾輩が守らずに誰が守ると言うのか。

なんだ、猫。またお前か。
吾輩は忙しいのだ。あっちへ行け。お前の相手をしている暇はないぞ。しっ、しっ。うー。馬鹿にしておるな。ええい、この鎖がいまいましい。これさえなければ、あいつのところまで走ってヒゲをむしり取ってやるのだが。うぬ。ふざけたことに、そんなところで寝るのか、お前は。そんな所で。そんな日当たりの良い所で眠るのか、貴様は。眠れるのか……。悔しいなぁ。この鎖がなければなぁ。えぇい、いまいましい、あいつの相手をするよりも寝たほうがましだ。無視無視。

ん。この臭いは何だ。怪しい臭いだ。
お。えっ。おぅ!? 家の裏で音がしたぞ。誰か居るな。見に行かなければ、って、この鎖が邪魔だ。ええい、くそ。裏で何か事件が、この鎖が、ご主人の家が、この首輪が、くそ、う、ぐぇっ。ぐぇほ、くっ、苦しい。しかし、事件が。この家に拾われて十年。ご主人には何のご恩返しもできぬまま、この歳まで生きてきた。今こそ、今こそ、ご恩返しの時ぞ。ええい、この首よ、ちぎれろ、ちぎれてしまえ。そして体だけで悪者を倒してみせようぞ。さあ、ちぎれろ。さあ。さ、あ、痛ててて。ああああっ、ちょちょ、ちょっと、今、ガラスが割れる音がしたよ。事件だよ。これ、絶対に事件だよ。絶対に悪者がいるよ。

おい、猫。
猫くん。
猫さま。
すまんが見てきてくれないか。いや、見てきてください。あ、無視したな。お前だって、餌もらったことあるだろ。全く、恩知らずめ。ちくしょう。おお、鎖がゆるくなった気がする。鎖の付け根が腐ってるんだな。もう一踏ん張りだ。さあ、さあ。よいしょお、よいしょお。うぉ、はずれた。猫め、ビビルな。お前のヒゲむしりなど後回しだ。顔を洗って待っていろ、ただし雨は降らすなよ。

裏庭はこっちか。あぁっ、誰だお前。この野郎。ここは吾輩のご主人の家だぞ。何をしておる。何で靴のままで家に入ろうとする。何で窓を割って、そこから入るのだ。逃げるな、噛み付いてやる。とりゃ、ぐむ、マッズーイ。何だ、お前は。クッセー。おえっ。吐き気がした。こうなりゃ吠えてやる。お、びびったな。さあ、行け。行ってしまえ。もう戻ってくるな。今度来たら、ただじゃすまさねえぞ。今度は臭くても噛み続けてやる。とっとと失せやがれ。あ、この野郎。植木鉢倒しやがって。

ふうっ。一仕事終えた後ってのは気持ちが良いな。さて、次は猫野郎だ。積年の恨み、今こそ、晴らしてくれ……、あ、居ない。お、そこか。くそ、届かん。吾輩にも塀に登る技術があれば……。ちくしょう。無念。次は逃がさんぞ。いや、いいや。猫なんかのことは忘れよう。今日は吾輩の初出陣、初勝利の日。早くご主人たちに帰ってきて欲しいものだ。楽しみ、楽しみ。褒められる。きっと褒められる。吾輩は悪者を見事に撃退したのだ。ご褒美なんかくれたりして。いやいや、いけない、いけない。ご褒美欲しさにやったことではない。これは、言わば犬としての責務。当然のことをやっただけ。大義、恩義に報いたのだ。けっして、ご褒美欲しさでは……、あ、ヨダレが出てきた。

お、帰ってきた。三人一緒だ。やっほーい。


「お母さーん。裏の窓が割れてるよー。あ、植木も倒れてる。あ、ゴン太。何やってんだ。あ、鎖引きずってる。お母さーん、犯人ゴン太だよ」
母に向かって叫ぶ子どもの周りを、老犬が嬉しそうに走りまわっていた。塀の上で、面白そうに猫が鳴いた。

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