2013年6月25日

吉沢江津子 ~伊藤循環器内科診療所の人々~

伊藤循環器内科診療所のトイレは常に清潔に保たれている。それは従業員、すなわち看護師への教育がよく行き届いているからだ。吉沢江津子はトイレの入り口にある洗面所で手を洗いながら、そんなことを考えた。そして廊下を歩きながら、退院後にはアルバイトへの教育を徹底しなければとこぶしを握った。
「サービス業経営者に自己満足はあってはならない」
何かで読んだ経営論を小さくつぶやきながら江津子が自室の前に来ると、病室仲間三人の声が聞こえてきた。
「入院もこう長いとねぇ」
「ホント、私なんか家のことが心配になってきちゃって」
「分かるわぁ。うちの人なんか何もできやしないから」
江津子は家事がまったくできない夫の辰弘のことを思い出しながら部屋に入った。病室仲間三人が会話をやめて江津子のほうへ顔を向けた。江津子は大きく目を開きながら、
「私は、へそくりがばれやしないかって、そっちの方が心配で心配で、もういてもたってもいられやしないわ」
三人が吹き出して、それから大きく笑うのを聞きながら、江津子は窓際の自分のベッドへ行った。スリッパを脱ぎ、
「よっこいせ」
とベッドへ上がると、向かいのベッドにいる長沢タキさんと目が合った。長沢さんは数日前までは時々暗い顔をしていた。この前、自宅に帰って、それから表情が見違えるように明るくなっていた。さっきの冗談でも、長沢さんが一番よく笑っていた。
「江津子さん、年寄り臭いわよ、よっこいせなんて」
長沢さんが右手を振りながら言った。
「だってぇ、もう五十一歳ですもん」
江津子は首を振りながら肩をすくめた。
「あら、この病室では最年少よ」
長沢さん、そう言って眉を上げ笑った。江津子は長沢さんの顔を見ながら、
「それが恥ずかしいのよねぇ」
そう顔をしかめた。
「糖尿病と高血圧なんて、たいした病気でもないのに入院なんて、伊藤先生も大げさなんだから」
江津子がそう言うと、病室入り口側のベッドにいる江波ウタさんが大きく首を振って真剣な顔で、
「そうじゃないのよぉ。糖尿病も怖いのよぉ。なんでもね、ケトなんとかって言って、血がね、酸性になって死んじゃう人もいるらしいのよ。だから、この病室の皆、ちゃぁんと気をつけないと」
と言った。江津子が顔を上げて両手で握りこぶしをつくり、
「あのへそくり使わないうちに死んじゃうわけにはいかないわ。世話のかかる家族をほっぽりだして、ブラリ温泉一人旅のために貯めてるんだから」
と言うと、また病室の三人が笑った。
「あら、でも一度こちらに見えたときにお会いしたけど、息子さんも娘さんも可愛らしいじゃないの」
長沢さんがそう言うのを聞いて、江津子は大きく首を振った。
「とんでもないですよ、ほんとに。主人が頼りないうえに、息子は店を継ぐ気はない、東京に行くんだって言い張るし。娘は娘で家のことには無関心、受験で頭が一杯って感じで、私がどれだけ苦労してるかなんてお構いなし」
そこで一息ついて言う。
「はやりの家庭崩壊ってやつね」
病室の三人が笑った。
「江津子さん、いっつも面白い。漫才師みたい」
江波さんが前屈みになって笑った。江津子は右手を握りしめて高々と掲げ、
「だから、私はあの連中をほったらかして旅に出るのだぁ。あのお金だけは誰にも渡さないっ」
と大きめな声で言った。
「そうよそうよ。だからケトなんとかでお迎えが来ないように、先生の言いつけ守って、ちゃぁんと養生するのが一番よ」
江波さんの話を聞きながら頷いていた江津子は、病室の外に立っている夫の辰弘に気が付いた。
「あらっ。あなた、どうしたの」
驚いて少し声が大きくなってしまった。
「え、いや、元気にしてるかと思って。あ、皆さん、いつも家内がお世話になってます」
辰弘はそう言って、手に提げた果物かごをあげて見せた。病室の三人は笑顔で挨拶を返しはしたが、どこか微妙な表情をしている。江津子はそのことに気づき、すぐに大きな声で、
「もう、だめねぇ。私たちってみんな糖尿病よ。食事制限とかあるんだから、そんなに果物持って来られても食べられないわよ。ねぇ」
そう言って目を大きく見開き、病室の三人を見渡した。三人とも微笑んでいた。辰弘は困ったような顔をして果物かごを下ろした。
「まったく、これだから男ってダメよねぇ。いつまでたっても世間知らずっていうか、子どもっていうか」
辰弘が顔を赤くして頭をかきながら、江津子のベッドの所までやって来た。病室の三人が小さく笑っている。江津子は果物かごを受け取ると、
「でも、ありがとね。すーごく良い匂い。早く体調治して、こんな美味しいのを沢山食べたいわ。ほら、皆さんにも匂いのおすそ分けしてあげて。ほらほら」
そう言って江津子は果物かごを辰夫に渡し、両手を振って辰弘に病室三人のベッドを回らせた。三人とも大きく匂いを吸い込んでは、
「良いにおいねぇ」
「匂いだけでも美味しいわ」
などと言ってくれた。辰弘は顔を赤くしながらも、嬉しそうな顔をしている。江津子はガウンを羽織って辰弘の近くに行き、
「さ、ロビーでお話しましょ」
そのまま病室を出た。病室を出てすぐ右側に、小さなロビーがある。白い丸テーブルが二つ、それぞれ椅子が三脚ずつ、そして江津子の胸の高さくらいの小さな冷蔵庫がある。江津子は冷蔵庫を開け、中から黒ペンで『吉沢』と書かれたお茶のペットボトルを出した。冷蔵庫の上に置かれたコップを二つ取ってテーブルに置くと、ゆっくり椅子に腰掛けた。入院してから少し痩せたとはいえ、肥満していたせいで痛めた膝はまだちょっと痛かった。遅れてきた辰弘が江津子の向かいに座った。
「で、急にどうしたの。お店は大丈夫なの」
お茶を注ぎながらそう言って辰弘を見ると、辰弘は腕組して真剣な顔をしていた。
「どうしたの。なんかあった」
つい先ほどのへそくりの話を聞かれたのかと思い、江津子は動揺を見せまいと強めに聞いた。辰弘はお茶を一口飲んでコップを置くと、突然テーブルごしに手を伸ばして江津子の手を握り締めてきた。一瞬驚いて手をひいてしまったが、辰弘があまりに真剣な顔をしているので、そのままにした。結婚してからほとんど手をつないだことがなかっただけに、恥ずかしさで顔がかっと熱くなった。
(看護婦さんに見られませんように)
そんなことを考えている江津子とは対照的に、辰弘は真剣な顔のままだ。
「ねぇ、どうしたの。なんかあったの」
江津子がそう聞きながら辰弘を見ると、辰弘は顔を赤くしつつ、どこかしら涙目に見える。辰弘が握った手に力を込めた。
「お前、大丈夫なのか。も、もう十日も入院してるんだぞ。本当は、本当は大きな病気じゃないのか。俺に隠してるんじゃないか。孝一もメグも最近暗いし、も、もう、俺はお前のことが心配で心配で。なんか隠してることがあるんだったら、早く、早く言ってくれ。さっきの、ほら、ケトなんとかでお迎えがどうとかって、あれ、あれは何なんだ。ケトなんとかってガンなのか。もし、もしそうならさ、いや、そうじゃなくてもさ。と、とにかく、二人で、な、二人で過ごす時間が、過ごす時間が」
そう一気に言って辰弘は声を詰まらせた。辰弘は頭を下げて肩を震わせている。それを見ながら江津子は、へそくりがばれたわけじゃないという安堵と、呆れるやら嬉しいやらで笑い出してしまった。
「ど、どうしたんだ」
辰弘は驚き顔をしている。
「だって、糖尿病と高血圧よ、まぁどっちも病気には違いないけど。ちゃんと規則正しく生活すれば大丈夫。ケトなんとかもガンじゃないし」
「ほ、ほんとうか。ガンじゃないのか。隠してないのか。ぜ、絶対だな、絶対だな」
そう言って辰弘は握った手を振った。江津子は笑いすぎたのと嬉しかったのとで涙が出そうになった。
「大丈夫よ。あと十日もせずに退院できるから」
「よかったぁ」
そう言って辰弘は握った手の力を緩めた。
(この優しさと単純さに惚れたのかしらねぇ)
そう考えたら、江津子はまたおかしくなって笑ってしまった。江津子の笑い顔を見ながら、辰弘も照れたように笑う。
「実は、お前が重い病気だったら店をたたもうかと思ってたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、江津子の表情が固まった。嬉しさよりも怒りの方が先に立った。
「あんた、そんなこと言って、孝一とメグの学費とかどうするつもりだったの」
「孝一はもう今年で大学卒業だし、だから自分で何とかするだろう。メグの分は定期の解約とかで何とかなるって」
「ばかっ。そんな簡単なことじゃないでしょう」
江津子が大きな声でそう言うと、辰弘は江津子の手を放して座りなおした。
「お、俺にだって考えがあったんだ。その、なんていうか、お前が病気になったのも俺のせいだって気がして。十年前に酒屋やめて二十四時間のコンビニにして、それから、ずっと忙しかっただろう。食事も生活も不規則になって、それでその、なんていうか」
辰弘が言いにくそうに口ごもる。
「肥った」
江津子がそう言うと、辰弘は再び話し始め、
「そ、そう。肥って病気になったのは、俺が店をコンビニにしたからかな、そんな気がして。もしかしたら重い病気かもしれないし、だったら、お前に良い思いさせずに死……」
そこで再び口ごもった。辰弘は最初の気持ちを思い出したのか、またうっすらと目に涙が浮かんでいる。
「死んだら」
江津子が辰弘を見ながら言った。
「うん。お前に良い思いさせずに死なれたら、俺絶対後悔するって思った」
江津子は辰弘の気持ちが嬉しかった。しかしすぐに、一生懸命にやってきた店を簡単にやめると言い出した辰弘に腹も立った。そして、やめると言い出した理由が自分のためだったことを思い出して、また目頭が熱くなってきた。
「ばかねぇ」

江津子は辰弘を見送った後、しばらくベッドでゆっくり過ごした。三時を過ぎた頃、果物かごを看護師のもとへ届けに行った。看護師と少し立ち話をしていると、
「あら」
と看護師が江津子の後ろを指差した。江津子が振り向くと、そこに息子の孝一が立っていた。
(あいかわらず汚いジーンズ。トレーナーもけばけばしい。まったくこの子は……)
と文句の一つも言おうと思ったが、せっかく見舞いに来てくれた息子を叱るのもかわいそうだと思いやめた。孝一に看護婦へ挨拶をさせると、二人でさっきと同じロビーへ行った。椅子に座った孝一は貧乏ゆすりをしている。江津子がお茶をついであげると、孝一はそれを一気に飲み干した。江津子は孝一の向かいに座り、少し低めの身長とがっしりした体格を見ながら、辰弘に似てきたと思った。
「就職活動はどうなの。良いトコに就職できそうなの」
江津子がそう尋ねると、孝一は貧乏ゆすりをやめてうつむいた。孝一はしばらく黙っていたが、ふと顔をあげて、
「母さん、俺、就職しないから」
「え」
余りに急な話の展開に、江津子はそれ以上言葉が出なかった。
「俺、コンビニ継ぐよ。卒業したらすぐにオヤジには引退してもらってさ、そんでもって俺が店まわすよ」
「あんた、そんなこと、急にできるわけないでしょう。それに、ずっと家の跡継ぐの嫌がってたじゃないの。東京で働くって言ってたじゃない」
「いや、いいんだ、それは、もう。継ぎたいんだよ、店」
そう言って孝一は黙り込んだ。江津子はどうしたものかと考えた。孝一が店を継ぐと言ってくれたことは正直嬉しかった。しかし、あれほど嫌がってたのを急に心変わりしたと言われても、どうにも納得がいかなかった。
「本当は、何か理由があるんじゃないの」
江津子がそう聞くと、孝一は座りなおした。孝一の顔をは、いつものしまりのない顔はしておらず、江津子もめったに見たことのない真剣な顔だった。
「実は、母さんが入院してからオヤジがずっと元気ないんだよね。それ見てたらさ、もしかしてオヤジと母さんとで俺たちに何か隠し事してないかなって思ってさ。本当は悪い病気なんじゃないのかなって、心配になってきちゃって」
そう言って、孝一は声を詰まらせた。
「だから、オヤジには引退してもらって俺が跡を継げば、母さんとオヤジがいっぱい一緒に過ごせるし。俺もメグもさ、母さんとオヤジとそれぞれ一緒に過ごした時間は多いんだ。でも、母さんとオヤジは忙しかったからあんまり二人で過ごせてないでしょ、だから」
そこで孝一はグッと肩を張った。
「だから、俺が跡を継ぐよ」
孝一の顔は真剣だった。
「任せとけって。メグの学費だって俺が稼ぐし」
孝一がそう言って笑った。この笑顔は偽者だ、と江津子には分かっていた。自信がないとき、嘘をつくとき、孝一はこんな笑い方をするのだ。また涙が出そうになったが、そしたらこのお人よしの息子がますます自分を心配すると分かっていた。
「ばか。母ちゃんは死にゃしないよ。まったく縁起でもない。よしとくれ。糖尿病と高血圧。そんだけ。退院もあと十日でできるの。そんな心配は良いから、あんたはちゃんと自分の望みどおり就職しなさい」
そして、ため息をついた。
「ばかねぇ」

孝一が帰った後、江津子はしばらくベッドで横になって眠った。長沢さんの声で起きてみると、ベッドの横に娘の恵美が高校の制服を着て座っていた。夕日でカーテンが赤く染まっている。近くの教会で夕方の五時を知らせる鐘が鳴っていた。
「あら、学校帰り」
そう聞きながら起き上がり、恵美の顔をまじまじと見つめた。恵美は何か思いつめたような表情で下を向いている。
「ちょっと、待ってね」
ガウンを羽織ってベッドから降りようとすると、
「そのままで良いよ」
と恵美が江津子の肩を押しとどめた。
「体に負担かけさせたくないから」
「おおげさねぇ」
江津子がそう言っても恵美は聞かなかった。仕方なく江津子はその場で話をすることにした。
「どうしたの、急に。受験も近いし、勉強しないといけないんじゃないの」
「うん、そうなんだけど」
そう言ったまま恵美は黙ってしまった。
「何か相談があるんじゃないの」
恵美は下を向いたままだ。
「まったく、変な日だねぇ。お父さんもお兄ちゃんも急に来るし」
その言葉を聞いて、恵美が勢いよく顔を上げた。
「お兄ちゃん、なんか言ってた!?」
急に語気強く聞かれ、江津子は驚いた。そのまま黙っていると、恵美の方から話し出した。
「お兄ちゃんね、最近元気ないの。お父さんも。お兄ちゃんなんか、お店継ぐって言い出したんだよ。元気なくすくらいなら継ぐなんて言わなきゃ良いのにさ」
そこまで語気強く言った恵美は急に声を落とし、
「って、私も最初はそう思ってたんだけど」
そう言って、恵美が手を伸ばし江津子の手を握ってきた。
「お母さん、本当は重い病気なんじゃないの。そうなんでしょ。だからお父さんも元気ないし、お兄ちゃんだって」
再び語気強く言っていた恵美だが、そこで再び元気がなくなりうつむいてしまった。江津子がやれやれという思いで病気の説明をしようとすると、恵美が何かを振り切るように顔を上げた。
「わたし、受験するのやめようと思って」
「いや、あんた、それじゃ」
恵美の突然の話題に、そこから先の言葉が出なかった。
「私さ、店で働くよ。そしたら、ほら、お父さんとお母さん一緒に過ごす時間増えるでしょ。それに、お兄ちゃんだってさ、東京に就職できるかもしれないじゃん」
赤い目をして恵美は笑っていた。向かいのベッドの長沢さんが目頭を押さえるのが見えた。
(まったく、この家族は)
そう思った江津子は、恵美の涙目を見ながら、辰弘と孝一を思い出した。一人旅に使うはずのへそくりが家族四人で行く温泉旅行の資金に変わっていくのを感じながら、江津子は今度こそ涙を止められなかった。

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