2013年2月12日

将棋の子

将棋は祖父に教わった。小学校の何年生の頃だったろうか。帰省していた正叔父と祖父が、大きな木の台の上に木のオモチャを並べて向かい合っているのを見たのが、俺と将棋との出会いだ。それからルールを教わり、祖父らと何度か対戦して流れを覚えた。

父に将棋を教えたのは俺だった。通算で何局くらい指したか覚えていないが、成績としては父の方が勝ち星が多いと思う。純粋な力量の差ではない。本気で勝ちを狙えば、五分五分以上の成績だっただろう。だが、明らかに見えている良筋にも、俺は駒を進めきれなかった。それで勝ちを逃したことが何度となくあった。父の顔をたてたというような感覚ではない。もっと自分自身の内面の問題だ。勝負に勝つということに、喜びよりも戸惑いを覚える、俺はそういう子どもだったのだ。

その後、なぜか小学校でも将棋が流行した。やはり俺は勝つことに貪欲になれず、その結果、負けることにも悔しさを感じることができず、だんだんと将棋からは離れていった。勝ち負けにこだわらない、と言うと良い意味にも聞こえるが、実際には「こだわれない」というほうが実情に近い。勉強も勝って嬉しかったり負けて悔しかったりを感じたことはあまりなく、その性格はそのまま今に至り、だからプロ野球をはじめとしたスポーツ観戦で自分を投影して、勝った負けたで盛り上がるということもない。

精神科医になると、周囲に将棋好きな先輩が多かった。その影響を受けて、俺も改めて将棋をやってみたのだが、やはり勝負ごとに対して及び腰になる性格は相変わらずだった。先輩たちには勝てないことが分かりきっていたので、これは負けないように逃げているというのが本当のところかもしれない。先輩からはハム将棋を勧められてやってみたのだが、これはコンピュータ相手に良いところなしで負けるので嫌気がさした。

将棋の子
本書は、将棋のプロになる前の段階である奨励会で、ふるいに掛けられ落とされてしまった若者たちを断片的に追いかけたノンフィクション。文章を通して知る彼らの勝ち負けを競う姿には眩しさを感じた。決して将棋の専門的な話は出てこない。棋譜も一つもない。ただただひたすら人間の話だ。そしてその方が俺は面白いと感じる。やはり俺は勝負そのものより、その後ろに見え隠れする人間ドラマの方が好きなようだ。

2 件のコメント:

  1. ししとう432013年2月24日 0:48

    図書館で借りて読みました。
    まあ、プロ棋士を目指すことを許され、若くして、あるいは、幼くして将棋界に入った時点で、俗世間で言う「天才」の称号を得たに等しい。
    しかし、そこで俗世間とはお別れとなるわけで、夢が果たせず俗世間に戻れば、言葉は悪いけど「懲役ボケ」みたいになるわけで。

    「なぜ、棋士が好きかというと、棋士は大人になり切れない幼児性というものを青年から老人に至るまで持っているからだ。」(作家・団鬼六(故人)=将棋アマ6段)

    鬼六先生は、「新宿の殺し屋」こと、将棋の真剣師・小池重明の面倒も見て、書物にもしましたが、小池氏も世間のスタンダードからは、はみ出し者でしたし。
    さらに言うなら、林葉直子さんと中原誠さんの色恋沙汰も思い出しました。

    私はと言うと、中学時代に将棋部に入ってましたが、初段にすらなれず、しょせんは俗人であることを思い知らされました。
    実は、故・団鬼六先生は母校の大先輩。
    6段って、どんなのだろう。

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    1. >ししとう43さん
      団鬼六の真剣師の本は買おうかどうしようか迷ったものでした。本書にも小池氏の話が出てきましたもんね。面白そうだなと思い図書館で探したけれどなかったです……。将棋の本(将棋そのものより人間ドラマのほう)を一気にたくさん買いそうになる自分を抑えて、ひとまず他の方面の積読処理をすることにしました(笑)

      先輩医師でアマ何段だったかの人がいて、プロにも勝ったことがあるというので同僚医師の間でも尊敬されていました。遠い世界の話です。

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