2012年5月31日

きちんと謝りましょう

日本テレビ:女性占師が出演かのようなテロップで謝罪
毎日新聞 2012年05月30日

日本テレビは4日に放送したバラエティー番組「芸能★BANG+」特別版で、お笑いコンビ「オセロ」の中島知子さんと同居していた女性占師が出演するかのようなテロップを流したとして同局の公式サイト内で謝罪していたことが30日、分かった。

日テレによると、番組では「オセロ中島騒動 同居占い師 まもなくスタジオ登場」などとテロップで表示。だが、実際は女性占師の知人である別の占師が登場。視聴者から批判が寄せられていた。同局は7日から19日にかけ「一部誤解を招きかねない表現があったことをお詫(わ)びします」と公式サイトで謝罪した。

放送倫理・番組向上機構(BPO)にも放送直後から批判する意見が多数寄せられていたといい、6月8日の放送倫理検証委員会で討議する予定。
http://mainichi.jp/select/news/20120530k0000e040220000c.html
どうでも良いようなテレビネタなのだが、どうしても気になったので書いておく。このテロップ、「誤解を招きかねない表現」ではなく、明らかに虚偽である。「オセロ中島騒動 同居占い師 まもなくスタジオ登場」という文章を素直に読んで、同居占い師ではない別人が出演すると考える人はいないだろう。

だが、今回の謝罪は、「視聴者に誤解させてしまったこと」に対してお詫びする内容であって、嘘をついたことに対する謝罪ではない。「嘘をついた」ことは認めない、という姿勢だ。あくまでも、テロップを読んだ「視聴者が誤解した」というスタンス。ならば、日本テレビは、このテロップをどういうふうに「正しく」解釈すれば「同居占い師ではなく別人が出演する」と受け取れるのか、自分たちはどういう意図をもってこのテロップを制作したのか、それを説明しなければならない。

お詫び、謝罪に反省の色がまったく見られない。これは繰り返すだろうな。

2012年5月30日

永遠の仔

永遠の仔〈1〉再会
実際には単行本で読んだ。天童荒太を読むのはこれで5作目。本書の根底テーマとして児童虐待と老人介護があり、どちらも精神科医という仕事柄、わりと接する機会が多いので身につまされる部分が多かった。また、娘が生まれたことから、父としての視点で見つめたり、時には父母と自分との関係を思いながら子どもとしての立場で読み進めたりと、非常に読みごたえのある本だった。

一ヶ所だけ引用したい。
「ときどきこの世界って、親が大人とは限らないってことを、忘れるみたいね。子どものままでも、親になれるんだから。親ってだけで、子どものすべてを任せるのは、子どもに子どもを押しつけてる場合もあるのよ。子育ては競争じゃないって伝えるところが、どうしてないの。支える道も作らずに、未熟な親を責めるのは、間接的に子どもを叩いているのと同じかもしれないのに」
<関連>
「自己責任」の使い方に絶句した話
オッパイとドパミンと産後うつ
殺さないで―児童虐待という犯罪

2012年5月29日

『独居』死は本当に『孤独』死か

いつだったか、雨降りしきる寒い夜に自分が車にひき逃げされて、そのまま誰にも見つけてもらえず死んでしまったら、かなり寂しいだろうなと思ったことがある。こうして望みもしないのに独りで死を迎えるのはまさに『孤独』死だと思う。では、ちょっと前にニュースでやたら取り上げられていた「独居老人が部屋で一人で亡くなっていた」という場合はどうだろうか。

結論から言えば、人それぞれだろう。部屋で一人で死んだからといって、孤独死だったと考えるのはちょっと短絡的すぎるかなと思う。それがその人の好みの生き方・死に方だったかもしれないのだから。逆に、もし多くの人に囲まれて亡くなるにしても、その人たちが繰り広げる遺産相続の言い争いを聞きながら死ぬ場合、それは孤独死と言って良さそうだ。孤独だったかどうかなんて本人にしか分からないのだから、周りが『孤独死』と評価してしまうのはおかしいし、失礼でもあるのだ。

だいたい、「高齢者は人との触れ合い求めている」というのは幻想に過ぎず、「知らない人と話したり関わったりするのなんざまっぴらごめんだ」と言ってデイサービスや施設入所やヘルパーを頑なに拒否する独居老人だってたくさんいる。そういう人たちが『独居死』に至るのは至極当然のことではないか。

では『孤独死』という言葉はいったい何なのかというと、実はそれを使う人の心の中にある「自分は孤独の中で死にたくない」という気持ちや、「家族を独りで死なせるかもしれない」といった不安のあらわれである。

そこで考えてみよう。自分が「寂しくない人生」を手に入れるために、どれくらい努力する気持ちがあるかどうか。好きな人としか付き合わずに「寂しくない人生」を手に入れられる幸運な人なんてそう多くはない。煩わしい人間関係を厭わず、苦手な人ともそれなりに交際し、どうでも良いような人にも笑顔で応対してこそ、「最近あの人見かけないね」なんて気にかけてもらえるのだ。面倒くさいのはイヤだけど死ぬときは誰かに見守られたいなんてのは、ちょっとムシが良すぎやしないか。

腹をくくって独居死を受け入れるか、そんなの寂しくて孤独で嫌だから家族と親密にしたり地域のコミュニティにマメに参加したりするか、それはあなた次第なのだ。

2012年5月27日

思いつきと行動の間にある高い壁を乗り越える 『キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか』

キミは他人に鼻毛が出てますよと言えるか デラックス (朝日文庫)

おもしろかった!!

日常生活の中で、
「やってみたいけど、ちょっと勇気がいるよな」
とためらってしまう、そんなことを思い切ってやってみる企画。思い切って、とはいうものの、実際に行動に移すに際しては、やはりためらいがある。悶々と悩む北尾氏、それでもエイヤッとばかりにやってみる姿が清々しい。

各企画にはタイトルがあり、文章はいくつかのサブタイトルで分けられている。それを眺めるだけでも面白く、ニヤニヤ笑ってしまった。以下に、ついニヤけてしまうタイトルと、サブタイトルを抜粋。


『電車で知らないオヤジに話しかけ飲みに誘う』
そのオヤジはおびえたようにぼくを見つめた

『ゴールデンウィークのお台場で孤独な男たちと人生を語り合う』
ホモのナンパと勘違いされている

『クリスマスに、暗い目をした男たちと人生を語り合う』
イブの夜、ポルノ映画館で男を待つ

『子どもと遊びたいと思うのは犯罪なのだろうか』
なぜキミたちは逃げるんだ

『激マズ蕎麦屋で味の悪さを指摘する』
言え、言ってしまうのだ

『知人に貸した2千円の返済をセマる』
同情するなら金を返せ!

『町でいちばんの“言い子”に声をかける』
ナンパじゃないんだ!
意識過剰で怪しい行動に
「急ぎますので」彼女は足早に去っていった

『「42歳フリーライター」の値打ちを就職試験に問う』
職業を聞くなり相談員は沈黙した

以上は、あくまでもタイトルとサブタイトルで笑えたものだけ。他にもたくさんの企画があり、もちろん表題の、『キミはちょい知りの他人に「鼻毛が出てますよ」と面と向かって言えるか』も入っていて、これもかなり面白い。

これはぜひとも読んでみて欲しい本。


ところで、『知人に貸した2千円の返済をセマる』を読んで思い出したことがある。あれはまだ俺が20歳のころ。当時の友人に、下の名前は忘れたが、モリワキという奴がいた。このモリワキ、とにかくセコかった。そのセコさは、笑えるレベルではなく、卑劣さに怒りがこみ上げるほどだった。

セコい、というと曖昧だが、要するに金払いが悪かったということだ。たとえば皆でレストランに行く。モリワキが「金がない」というので誰かが貸す。しかし、モリワキは絶対に自分からは返さない。返してくれ、と言っても、その時も「ちょっと今は金がない」と言って返さない。そんなことが続いたので、モリワキ以外の友人たちと、「もうモリワキに金を貸すのはやめよう」という話になった。

ある日。モリワキを含めた皆で、1000円の焼き肉食べ放題店に行った。いざ支払いの時になると、やはりモリワキが「金がない」と言い出す。しかし、俺たちも事前に打ち合わせ済み。
「俺もない」
「あ、俺もピッタリ1000円しか持ってきてない」
「お前もか、俺もそうなんだよ」
そんな感じで、自分たちの分だけをレジの前に出した。モリワキは、
「誰か持ってないの? 今日は、財布を忘れたんよ」
と言った。それでも誰もなにも言わない。しばしの沈黙。とうとう誰も金を貸す気がないことが分かると、なんとモリワキは、舌打ちして、それから、
「しょうがねぇな……」
と言って、おもむろに自分の財布を出した。さらに、その財布の中から一万円札を出したのだ。金がないだけでなく、財布がないとまで言っておきながら……。全員、唖然として言葉も出なかった。以後、一緒に食事に行くことはほとんどなくなった。

2012年5月26日

車の運転は団体スポーツ

「車庫入れ上手」とか、「細い道でもスイスイ走れる」とか、そういうのは、サッカーでいうところのリフティングが上手いくらいの話。リフティングを100回くらいできても、試合でいい仕事をするかというと別問題。自分の動きが仲間に伝わらない、仲間の動きを読み切れない、個人プレーで自己満足に浸る。そういう人は、ただ迷惑になるだけ。

仲間の動きを読み切るのは難しいから、せめて自分の動きを周りに伝えることは徹底して欲しい。車でいうなら、ウインカーや夕暮れ早目のライト点灯。ウインカーをなんのために出すのか、ライトはなぜ点けるのか。そのあたりをいまいち分かっていない人は、曲がる直前にブレーキを踏んでからウインカーを出し、「だってまだ見えるし」などと言いながらライトを点けない。

見通しの悪い信号のない交差点で、「一旦停止」と書かれたラインがあるが、それを無視してちょっと先まで進める人に「危ないよ」と注意したら、
「だって、あそこで停止しても左右が見えないじゃん」
なるほど、言われてみたらその通り……、ってなるかい!!
「こちらからは見えなくても、左右の車がこちらの存在を確認できるでしょ、それが大事なんだよ」

周りに伝える運転、心がけましょう。


2012年5月25日

チャンバラ 『真説宮本武蔵』

子どものころ、チャンバラが好きだった。小さいころから祖父の家で過ごすことが多く、月曜の8時からは水戸黄門を必ず観ていた。そんな俺にとって、チャンバラは日常だった。

新聞紙を丸め剣に見たてて祖父に斬りかかる。子どもとはいえ、5歳くらいともなると棒を振り回されたら怖い。それでも、祖父は怖じ気る様子もなく、俺の剣を受けていた。そういえば、チャンバラといい相撲といい、祖父と戦って痛かった記憶がない。さりとて受け身に徹していては、子どもの遊び欲求は満たされない。どうやったら、手加減のない孫相手に、痛がらせずに面白がらせられるのだろう。

ところで、剣には鞘が必要だ。しかし、どうしても新聞紙では鞘が作れなかった。だから、つねに抜き身の剣を引っさげていたことになる。よくよく考えると、危険な少年剣士だ。

小学校に入って剣道をやらされたが、すぐやめた。あれはチャンバラではない。武士道とかなんとか、そういうのとも違う。根性のある子とない子をふるい分ける装置みたいなもので、やめた俺には当然、根性なんてない。

剣道は続かなかった俺でも、水戸黄門は小学校を卒業するまで観続けた。マンネリなんだけれども、観ていて落ちついた。悪者はいつか絶対に、例外なく退治される。退治されるべきなのだ。そんな勧善懲悪思考に染まっていた。

少し余裕をもって世間を眺められるようになったのは、本当につい最近。精神科医をしていると、いろいろな人に出会う。話していて、どうしようもない人だ、と思うこともあるが、しばらく接していると意外な一面に気づくことがあって、世の中に完全な善人悪人や強者弱者などいないとつくづく感じる。

そんな俺の心の成長に合わせて、ということもないだろうが、水戸黄門が放送中止となった。俺が子どものころスケさんだった里見浩太朗は、黄門さまにまで出世した。でも、違和感ありまくりだった。よれよれっとした御隠居さまと、キャラ豊富な仲間たちだからこそ、町人に溶けこむにしても、武家に入るにしても無理がなかったのに、里見の御隠居さまはあまりに恰幅が良すぎて、どこぞの偉い人という感が出まくっているのだ。

チャンバラ。いまもやっている子どもたちいるのかなぁ。自分の子どもにはチャンバラをやらせたいなぁ。

新装版 真説宮本武蔵 (講談社文庫)

宮本武蔵をはじめ、千葉周作など剣豪の話。昔は真剣で斬りあっていたんだよなぁ、と考えると怖い。いや、真剣でなくても、木刀で頭をかち割ったとかいう話も出てくるし、剣士たちは命をかけて果たし合いなどをしていたんだよなぁ、やっぱり怖い。短編小説集で、文字も多くなく、わりとすぐに読み終える。

2012年5月24日

甲子園の想い出

野球はプロも甲子園もまったく興味のない俺だが、生中継で見て記憶に残ったシーンというのが二つだけある。今日は、そんな話である。

一つは、松井秀樹の5打席連続敬遠の試合。1992年8月16日、俺は17歳の夏休みを祖父母の家で過ごしていたと思う。松井のいる星稜高校(石川)と明徳義塾高校(高知)の試合だった。松井が大物だという話はそれまでもニュースで取り上げられていたから、いったいどういう試合になるのかという興味はあったが、わざわざテレビで観ようとも思わなかった。ただ、高校野球好きな祖父がテレビをつけていたので、だらだらと眺めていたという感じ。

この試合の何が俺を熱くしたのかというと、それは相手ピッチャーの精神力の強さ。俺と1歳違うか違わないかの人が、観客席からのブーイングを受けながら、それでも松井に5打席連続でボール球を投げ続けたのは、並大抵の胆力ではできないことだ。俺なら半ベソかくか、キレて観客席に向かって石か泥か投げかねない。今Wikipediaで調べてみると、相手ピッチャーは河野和洋。監督の指示に従って、淡々と敬遠し続けたのは凄い。勝敗にこだわったからこその展開で、これを無気力試合と評価するとしたら、俺はそういう考えの方が嫌いだ。

河野投手がその後どういう人生を歩んだのかが気になった。詳しくは分からなかったが、現在は日本橋学館大学で硬式野球部のコーチをされているようだ

記憶に残るもう一つのシーンは、いつの甲子園だか定かではないし、選手名も分からなかった。そこで調べてみて分かった(ネットって凄い)。1996年の松山商と熊本工の試合で、3対3で迎えた10回裏のことである。1アウト満塁、一打サヨナラの場面。松山商の攻撃で、守る熊本工はそれまでベンチにいた矢野選手を、ライトの選手と交代出場させた。そして数十秒後、打球は大きく弧を描いてライト方向へ飛んだ。まず間違いなく犠牲フライとなる当たりだったが、それをキャッチした矢野選手がホームベースに向かって放ったボールはみごとにキャッチャーミットに突き刺さり、タッチアップしてきた3塁走者を仕留めた。少し荒いが、その時の映像を見つけた。


当時大学の3年生だった俺は衝撃を受けた。なんてすごい選手なのだ。この一打サヨナラの超がつくほど大切な場面で、それまでベンチに控えていて、「じゃお前ライト行け」と命じられて、それでこのプレーである。この矢野選手、これまでに大暴投が頻発している選手だったようで、ノーバウンドでの返球を禁止されていたらしいが、この場面で矢野選手はそれでは間に合わないと判断して思いきり投げたそうだ。それがまさにドンピシャで決まったわけで、この映像は15年以上たった今観ても鳥肌が立つ。

矢野選手はその後、「最後に出てきて、いいところだけ持っていった」と、未だに当時のメンバーから冷やかされるそうで、高校卒業後は松山大でプレーした後、地元の愛媛朝日テレビに入社したようだ。今どうしているかまでは分からない。

この二つの甲子園名場面から、俺はいろいろなことを学んだが、それは敢えて書かない。読んだ人、観る人がそれぞれにいろいろなことを感じてくれれば良い。

2012年5月23日

研修医時代にしか学べないこと

指導する学生や研修医には、必ず伝えていることがある。

「研修する科で、先生たちの他科に対する愚痴をよく聞いておけ」

研修を終えて専門科を決めると、先輩医師からの厳しい指導はあっても、他科医師からの直接的批判はなかなか受けなくなる。だから、そういう垣根のない研修医のうちにいろいろな科で愚痴を聞いておくのは大切だ。

「これくらいで紹介してくるなよ」と嘲笑の混じった愚痴と、「なんでこんなになるまでほっといたんだ」と憤りのこもった愚痴を聞くことで、自分がどの科に進むにしても、相手の守備範囲はこのあたりなのかなと見当がつく。

また、「この病気を疑って紹介するなら、せめてこの検査くらいしとけよな」と呆れた様子の愚痴もあるし、「この検査するくらいなら、もっと突っ込んでここまで検査しないと……、結局、患者に2回きつい思いさせるだけじゃないか」という苛立った愚痴もある。

これらの愚痴をスルーせずに受け止めておけば、「笑われず、憤らせず、呆れさせず、苛立たせない紹介状」につながるし、ツボを押さえた紹介をしてくる医師は、他科からも一目置かれる。

各科を数ヶ月研修したくらいでその科を完璧に学ぶなんてことは不可能だけれど、たくさん愚痴を聞くことで得られるものは凄く大きい。逆の立場で言うなら、各科の指導医や先輩医師は、他科の悪口や愚痴をたくさんこぼしてあげたほうが、その研修医の将来につながるということだ。ただし、その研修医に「愚痴から学ぶ」という姿勢がない場合には、「なんか俺の指導医、他科の悪口と愚痴ばっかなんだよなぁ」と言われてしまう恐れがあるけれど……。

あやかし

あやかし (上) 
長かった……。序盤から中盤まで非常に面白かったのだが、後半ちょっと間延びした感は否めない。また、視点がめまぐるしく動くので、ちょっとした視点酔いとでもいうような状態になる。「あれ、これは誰視点なの?」みたいな。ほぼ全てを主人公・青垣視点にしても良かったんじゃないかとも思えるのだが……。

それはともかくとして、この主人公・青垣がかっこいい。冷静な判断力とやたら座った肝っ玉、そして急場で見せる茶目っけ。こういう人がリーダーにいると、周りは相当安心できそうな気がする。

内容は、いわゆる伝奇小説。俺は結構そういうのが好きなので楽しめたが、興味がない人にはつまらないかもしれない。高橋克彦作品を5冊追加購入してしまった……。

2012年5月21日

影踏み

「まさか彼が警察官になるとは……」
という友人がいる。高校時代から、柔道などの男くさいのが嫌いで、暴力も嫌い。どちらかというと君子危うきに近寄らずをしっかり守っているタイプだったのに、なぜか大学を卒業して公務員予備校から警察官になってしまった。運動があまり好きじゃない彼だったから、警察学校で苦労するんじゃないかと思っていたが、予想に反してしっかり卒業、警察官としてすでに10年近くのキャリアを積んでいる。

「酔っ払いとか暴れる人なんてどうするの?」
と聞いたところ、
「まぁまぁ、署で話きくから、とにかくおいで」
という具合に連れて行くのだとか。とてもそういう肝っ玉のすわった感じじゃなかっただけに、非常に感心した。やはり、朱にまじわれば赤くなるということか。

振り返ってみて自分はどうか。俺もバイオレンスな場面は好きじゃない。どちらかというと、いわゆる屁っぴり腰だ。でも、診察室や病棟では肝がすわる。診察室の自分の席に座ると、特に強い。患者や家族に対して強気になる、というわけではない。心の中に余裕が生まれるのだ。この人や家族をなんとかしてあげたい、と思ってさえいれば、診察室や病棟で起こるたいていのことはどうにでもなる。

きっと警察官になった彼も、相手や地域の安全を思って気持ちを切り替えるのだろう。

影踏み (祥伝社文庫)

横山秀夫の連作小説。主人公は警察とは真逆の泥棒。人のものを盗んで生きる主人公を決して好きにはなれないが、なぜだろう、いつの間にかハラハラしながら応援している。なんというか、カッコいいのだ。度胸とか、腕っ節とか、泥棒技術とか、セリフまわしとか、そういうのがカッコいい。ハードボイルド小説というのは読んだことがなかったが、こういう感じを言うのだろうか。これを読んで泥棒に憧れる人がいないことだけを祈る。

面白かった。

2012年5月20日

高額のケーキ

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普段、ケーキなんてほとんど食べないし、食べたいとも思わない。子どものころも、家の冷蔵庫にケーキが入っていても手をつけようと思わなかったくらい、ケーキに対しての気持ちが薄い。

ところが、先日、島のスーパーで横幅20センチに満たないくらいのロールケーキ(?)が1280円という高額で売ってあって、神戸のナントカという有名な店のものだというから、妻に食べさせようと思って買ってみた。それでせっかくだからと俺も食べてみたら……、

美味い!!

あまりの美味さに妻と半分ずつくらい食べた。スポンジがふわふわしていて、クリームもとろける食感。高くて良いケーキは美味しいんだなぁと感じた。

ちなみに、こうした島外有名店からのお取り寄せスイーツデーが、月に一回くらいスーパーでやっているのである。

凄いバッターとは

時どき「10-0」なんて試合があって、そんな時ニュースでは、「打線が火を噴いた」といった表現をする。俺は野球は本格的にやったことがないから分からないのだが、打線が火を噴いて勢いづくというのは、一方的に勝っている時にはバッターに気持ちの余裕が出て、それがスイングにもあらわれるからなのだろうか。もちろん、守備のほうが「これ以上の点はあげられない」といった緊張感で、必要以上に体が硬くなるというのもありそうだけれど。

そこでふと思ったのが、「大きく負けている時、一矢でも報いないとチームの恥とさえ言えるような場面で、しっかりヒットを打てる」というのが真の実力あるバッターではなかろうか、ということ。大勝している時、打線が勢いづいている時は、みんながポンポンとヒットを打つが、そうではなくて、打線が火を噴きそうにない時、周りがしょぼくれている時でも、自分だけは硬くならずに結果を残せる、そんなバッター。

とここまで書くと、自ずとイチローが頭に浮かぶ。マリナーズって弱いよなぁ……。それでもしっかり、周りの空気に飲まれず流されず、淡々とヒットを打ち続け、守ってもほとんどエラーをしないイチローは、やっぱりきっと凄い選手なのだろう。

ところで、なぜイチローはライトなのだろう? ショートあたりにつかせても良い仕事しそうなんだけれど。

2012年5月19日

ダンボー・ブラザーズと金環日食

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「おい、朝日が昇るぜ。金環日食、見れっかな?」
「ア……、アニキ、太陽を直視しちゃいけませんぜ!!」
「うるせぇ!! 男は黙っ……、あれ、目が……、目がぁっ……」(ムスカ風に)
「だから言わんこっちゃない……」

※重要
金環日食に限らず、太陽を見る時には、「色の濃いサングラス」なんかでは全然ダメです。きちんとした観察用のメガネを手に入れましょう。「蛍光灯にかざし、蛍光灯の形がはっきり見えるめがねは使わないで」ということです。

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そこはかとなくエロチック 『飲食男女』

飲食男女―おいしい女たち

この本のタイトルは「おんじきなんにょ」と読む。久世光彦という人についてはまったく知らなかったのだが、あるサイトでこの本が勧められていたので買ってみた。

プロローグが、女性の下の唇(下唇ではない)が喋ったという話であり、その後も直截的でどぎつい描写こそないものの、やたらとエロチックな話が続く。エッセイなのか小説なのかよく分からないが、主人公のもてっぷりと退廃的な雰囲気に憧れとも嫉妬ともつかないような感情が沸く。

女性よりは男性が読む方が良い気がする。

2012年5月18日

人魚

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食欲減退の季節

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太郎にとってキツい季節がやってきた。

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毎年、この時期から食欲が落ち始める。

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ちょっと暑いと、いろいろ工夫しないと食べきれない。

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食事への集中力も低い。

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だから春はちょっとオーバーカロリー気味にする。

2012年5月17日

花まんま

花まんま
面白かった!!
特に表題作『花まんま』には引き込まれた。思わずジーンと涙がにじんでしまった。朱川湊人は、俺の中では当たり外れの多い作家という位置づけなのだが、この本は当たりだ。その勢いで、amazon評価の高い朱川本を3冊購入。

お勧め。

2012年5月16日

正解はないが、無知偏見による間違いはある 『精神障害者をどう裁くか』


実地の精神鑑定についてではなく、触法精神障害者への対応の歴史を紐解いた一冊。事例に即して具体的な鑑定を知りたければ、『ドキュメント 精神鑑定』のほうが良い。

2005年に医療観察法が施行される前、触法精神障害者は措置入院という形で精神科に入院していた。これは司法とは一切関係のない、医療的な入院である。
つまりどんな重罪を犯した患者においても、病院からの退院、あるいは通院に関するフォローアップは、すべて病院の一存に任されていた。したがって、殺人事件のような重大犯罪を犯した患者が心神喪失によって精神病院に入院となっても、わずか数ヶ月で退院するということもしばしば起こっていた。
このような状況に対しては、各方面から異論があがっていた。病院は無責任に再犯の危険が大きい患者を野に放っているのではないか? 短期間できちんとした治療は行われたのか? 
もっとも精神医療の立場からすれば、そのような批判は納得がいかないものであった。というのは、病院の目的は疾患の治療である。したがってたとえ触法歴があったとしても、病状がよくなれば外出も許可をするし、退院させることもある。
重罪を犯した既往があっても、無期限に退院を延長することは困難である。
さらに退院後の外来通院を義務づけることもできない。もし長期の強制入院がどうしても必要ということならば、そのための法律的な根拠が必要である。単に再犯の恐れがあるというだけで、病院がいつまでも患者の行動を制限するなら、それこそが人権的な問題となる。
医療観察法は、池田小学校の事件をうけて慌てて施行されたような印象がある。法の成立そのものは2003年である。
宅間は1999年、勤務先の小学校で精神安定剤入りの茶を教師四人に飲ませたことによって、傷害容疑で逮捕された。しかし、簡易鑑定において「統合失調症の疑い」と診断されて不起訴となり、精神科に措置入院となった。
もっとも入院先の担当医は統合失調症であることを否定した。じつはこの時点で、警察は宅間を再度拘留すべきであった。
(中略)
宅間に関しては、彼の詐病を見抜けなかった精神科医による以前の診断は問題にすべきであろうが、池田小の事件は精神医療が不備だったために起こったとは言えない。むしろ、簡単に不起訴として精神病院に宅間の扱いをゆだねた捜査当局の姿勢が大きな問題だったと思われる。宅間が統合失調症であることが否定された時点において、司法当局が事件として立件していれば、池田小の事件は防げていた可能性もある。
しかし現実には、捜査当局はいったん不起訴とした事件を再度立件することはほとんどないのである。
これを読んでわかるように、池田小の事件を持ち出して、精神障害者に対して「怖い存在」というレッテルを貼ったり、精神医療がそういう「怖い存在」を無責任に野放しにしている、というのは的はずれも良いところだ。

触法精神障害者が、歴史的にどう扱われてきたのかを知るには良い一冊だった。しかし、もっと具体的事例で精神鑑定を知りたいという人には、繰り返しになるが、先にあげた『ドキュメント 精神鑑定』がお勧め。

<関連>
とある事件の精神鑑定
ドキュメント 精神鑑定
彼女は、なぜ人を殺したのか
福祉の網目は疎にして漏らす大雑把、こぼれた人たち 『累犯障害者』
精神障害者の犯罪を裁くべきか否か (前編)

2012年5月15日

耐えるダンボー・ブラザーズ

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「アニキ~……」
「なんだよ」



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「せつなくねぇっすか!?」
「……、耐えるんだよ」



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「アニキ~……」
「男なら黙って耐えろってんだ!!」


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2012年5月14日

白い魔犬

『名犬ジョリィ』というアニメがテレビで放送されていたのは1981年から1982年にかけて。内容はあまり覚えていない。ただ、ジョリィが「白い魔犬」と呼ばれていたことだけは覚えている。ジョリィがどういう経緯で「白い魔犬」と呼ばれるに至ったのか、そこが記憶にない。

同じ時期、7歳の僕らが「白い魔犬」と呼んで追いかけていた犬がいた。その犬と、いつどこで、どのようにして出会ったのか。そういう細かいところは全て忘れてしまった。記憶に残っているのは、その犬をみんなで白い魔犬と呼び、目的もなく探し、見つけては追いかけていたということだけだ。

白い魔犬は、ジョリィのような大型犬ではなかった。雑種の、どこにでもいる普通の白犬だった。七歳の僕らにしてみれば、充分に大きな犬ではあったけれど。田んぼ一面にれんげ草が生えていたから、季節は春だったのだと思う。

僕らが空き地で遊んでいると、白い魔犬がれんげ草から顔を出してこっちを見ている。僕らは「白い魔犬だ」と口々に叫んで、れんげ草の生い茂った田んぼへ入り追いかける。白い魔犬はスッと走っていなくなる。僕らが見失ってあきらめかけると、白い魔犬は少し離れた田んぼのれんげ草の間からひょっこり顔をのぞかせるのだ。そして、僕らはまた口々に叫ぶのだった。
「白い魔犬だ」

僕は白い魔犬を捕まえて、何かひどいことをしようなどとは考えていなかった。恐らく、他の皆だって同じだったと思う。僕らは追いかけることそのものを楽しんでいたのだ。そして多分、白い魔犬の方も、追いかけられるのを楽しんでいたような気がする。決して完全に逃げることはせず、日が暮れるまで付かず離れず。僕らの退屈な生活をちょっぴり刺激的にしてくれた。

アニメの白い魔犬がどうなったのかは覚えていない。現実の白い魔犬はというと、僕らが興味を失うのと同時に、僕らの前には姿を現さなくなった。あの犬は、なんだったのだろう。田舎に住むある種の物の怪だと言われても納得できる、そんな不思議な犬だった。

灰色の北壁

灰色の北壁
真保裕一の本を読むのは初めてだ。本書は中編が三作収められている。直前に沢木耕太郎の『凍』を読んでいるので、山岳ものは2冊連続になる。山岳小説は登山の性質上、舞台は雪山となり、たいていはみんな寒さと戦っている。現実の季節は春だが、読んでいるとなんだか体が凍えてくる。

三作とも読後感が良くて、文章も読みやすくてスッキリしている。同じ作者の『ホワイトアウト』も購入済みではあるが、しばらくは山岳小説から離れて違うタイプの本を読もうと思う。

太郎正面顔

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2012年5月13日

三脚を購入

ことあるごとに家族の集合写真を撮るためには三脚が必要、ということで三脚を購入した。これまでも、カメラでいろいろ撮るときに、「三脚があればなぁ」と思うことがあったのだが、毎回ためらって買わずにきた。三脚は、けっこう金額が高いのだ。

と思っていたのだが、今回、三脚を買うにあたってamazonを検索してみると……、
SLIK 三脚 F740
2012年5月13日現在、12390円が2680円。この値段なら買いだ、ということで先日届いた。作りはかなりしっかりしていて、元値が示すようにチープさはまったくない。これは買って大正解。

今日さっそく俺と妻の車と家が写るようにして家族の集合写真を庭で撮った。この家にはどんなに長くてもあと6年くらいしか住まない予定なので、将来の良い思い出になると思う。



現実の俺を知っている人からすれば意外だと思われるだろうが、山が好きだ。中学生のころからだと思う。キャンプ用具も持たずに裏山に行って生活してみたい、そんなことを夢想したこともある。いま思えば、あまりに幼い考えではある。

遠足での登山は楽しかった。喉が渇くと川の水を飲んだ。「サバイバル」という言葉が好きだったのだ。しかし、そういう気持ちも高校生になると薄れ、大学時代にはほとんどなくなっていた。漠然と、ロッククライミングに憧れることはあったが。

精神科医になって最初の指導医と話していて、指導医が大学時代に登山部で雪山登山などもやっていたわりと本格的な「山屋」だということを知った。それでまたちょっと山に興味が出た。去年読んだ夢枕獏の『神々の山嶺』は衝撃的だった。山の魅力や恐ろしさを感じ、山岳小説を7冊買った。

本書は正確には小説ではなくノンフィクションだが、沢木耕太郎らしい淡々とした筆致で極限の状態が描かれ、季節は暖かくなってきているというのに雪山にいるかのような気分になってしまった。『凍』というタイトルではあるが、描かれる夫婦の山に向ける魂は熱い。

山好きにはお勧め。

閲覧注意!! 樹海の自殺防止パトロール


精神科医として、自殺はやっぱりやめさせたい。

2012年5月10日

誕生日は鯉のぼりとともに

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5月5日が誕生日なので、子どもの頃から鯉のぼりを見ると「誕生日が近いなぁ」と感じてきた。日本中で自分の誕生日を祝ってくれているような、そんな感覚はちょっと嬉しい。



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甘いものは食べないけれど。



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妻がペロリと。

鉄のライオン

鉄のライオン
俺にとっての鉄板、重松清。今回は涙腺刺激はなかったが、自分の学生時代、特に4年間の大学生活のうち300日通ったかどうか怪しい九大経済学部時代を思い出しながら読んだ。主人公はダラダラ過ごしているような自分をちょっと自己嫌悪しているが、当時の俺なんかより断然充実していて、だけど俺のほうは自己嫌悪とは無縁で生きていた、なんなんだこの差は……。

大学生活を無為に過ごした人へお勧めの本。

2012年5月9日

ソーシャル・ネットワーク

ブログ、Mixi、ツイッターとやってはいるが、Facebookにはノータッチだ。もはやこれ以上、ネット世界で手を広げようという気にもならないし、なにより実名登録制度というところに警戒してしまうからだ。

そういうわけで、この映画にも当初はあまり興味がなかった。ただ、世間的に評価が高かったので試しにレンタルしてみたという感じ。

ブルーレイディスクをセットすると、しばらくしてメニュー画面が映し出された。その映像を見た瞬間、なんて綺麗なんだ、さすがブルーレイだ、と妙な部分で感心してしまった。映画が始まって、やはり映像の美しさが目を引く。黒を基調としたしっとりした画面構成は、まるで芸術写真のようだ。しばらく眺めていると、オープニングで監督の名前が出て、それを見てハッとした。そうか、デヴィッド・フィンチャーか。『セブン』、『ファイト・クラブ』、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の監督だ。

内容はというと、これまた想像以上に面白かった。さすがフィンチャー監督。実話をもとにした映画はともすれば盛り上がりに欠けてしまいがちだが、飽きさせない構成、展開。映像の美しさとは裏腹に、やけに人間臭い登場人物たち。多少ネットに疎くても充分に楽しめると思う。これはもう、イチオシの映画だ。

ところで、この映画の主人公であるマーク・ザッカーバーグは、ちょっとアスペルガー症候群のような雰囲気を醸し出していた。調べてみると、確かに実際のマークにはそういう部分があるらしい。

<追記>
平成24年6月にフェイスブックに登録してしまった……。

太郎!

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淋しい狩人

淋しい狩人

評判に偽りなく面白かった。物語の中心は古本屋だが、俺が昔勤務していたブックオフとは違う、昔からある、そして、あまり敷居の高くないマンガも置いてあるような古書店。妹が宮部みゆきが好きで実家にたくさん置いてあるので、今度はそれらを拝借して読むことにしよう。

本書の中に出てくる山本周五郎『赤ひげ診療譚』を思わず買ってしまった。

2012年5月7日

花たち

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花の写真というのは、簡単でもあり難しくもある。



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構図次第でどうとでもなるので、



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敢えて単調に撮ったりしても、意図が伝わらないと意味がない。



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ただし、相手が動かないのでいくらでも撮り直しがきくのは楽だ。



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でも、基本は、
「キレイだと思ったからカメラを向けた」
それで良いと思う。



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街中で人間相手にそれをやると、下手すると逮捕されるが……。



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花は文句を言わないので、シャッターも押し放題。



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花の季節は、カメラの季節。



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デジカメだから、自分で楽しむ分にはフィルム代も現像代も要らない。



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さぁ、カメラを持って庭に出よう!!