2012年4月30日

実習にきていた女子学生の無神経さ

先日、実習に来ている女子学生の不用意な発言に関して書いた。

今回も、半ば愚痴である。

ある日の朝、医局の勉強会があり、発表者が俺だった。テーマは何にするか悩んだが、南三陸町での支援活動報告をメインにした。ついつい熱が入ってしまい、普通は15分程度で終わる発表が30分にも及んだ。発表で用いた資料に、南三陸町で撮った写真を使った。ピアノ、おもちゃ、ランドセルといった写真も織り交ぜた。そして、
「マスコミでは“瓦礫”という一言で、撤去とか除去とか言われています。今はゴミとして扱わなければいけないものも、もともとは誰かの大切なものだったはずで、そういうことを考えると、瓦礫という言葉を聞くと心苦しい感じがします」
といったことを話した。また、現地のテレビ番組の写真を見せて、
「こちらでは、すでにテロップは流れていませんが、被災地近辺ではまだ“入浴支援”などのテロップが流れています。テレビなどでは“復興の兆し”など良い言葉が出始めていますが、現実には、まだ電気も水道もない生活を余儀なくされている人たちがたくさんいます」
ということも話題にした。

そして、その翌日。ふと女子学生の机の上を見ると、俺の配った資料写真が置いてある。そして、そのプリントを、彼女は国試勉強のための雑用紙として使っていた。人の机の上のものを勝手に見るのは悪いとは思ったが、見過ごせなかった。

彼女は医学部6年生である。まだ学生の立場であり、実習先の医師は、たとえ母校が違っても、例外なく全員が先輩だ。その先輩が時間をかけて用意したプリントを雑用紙に使う、のは良いとしても、せめて俺の目には触れないくらいの配慮はあってしかるべきだ。なんといっても、彼女の席は俺のすぐ隣なのだから。

百歩譲って、彼女が言う「働かない精神科医」である俺が作ったプリントなんて、ぞんざいに扱っても構わないし、雑用紙として活用する方が資源節約で良いとして、南三陸町のランドセルやピアノなどの写真を、雑用紙として使うのはどうだろう。それは、あまりに無神経じゃないだろうか。その無神経さで、いつか彼女は損をするだろうが、そんなこと別にどうでも良い。しかし、その無神経さは、いつか患者をひどく傷つける。

俺から注意すべきか否か。無神経さは、注意されたくらいでは直らないだろう。口うるさい人だなぁで終わるのが目に見えている。大学の後輩でもなく、精神科志望でもなく、むしろ精神科医を蔑んでいる、そんな彼女と関わって神経すり減らすくらいなら、放っておくのが自分にとっては一番良い。そう考えて放置した。

わくらば追慕抄

わくらば追慕抄

安定して面白いんだけれど、伏線が多すぎて、これで続編が出なかったら肩すかし。短編の中に、心臓の悪い赤ちゃんのが出てくるのだが、娘が生まれてから、この手の赤ちゃんがらみの話には涙腺が弱くなった気がする。

2012年4月29日

二人の夕焼け

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「きれいな夕日ね」
女が言う。
「そうだね」
男は、夕焼けに見とれるような感性なんぞ持ち合わせてはいなかったが、隣りに立つ女のオレンジ色に染まる顔の美しさには胸が締めつけられた。
波が静かに音を立てる。
二人の手首を縛ったスカーフが、風に静かに揺れていた。

2012年4月28日

『28日後』 『28週後』

もう4回くらい観た。「続編は前作を超えられない」という法則(?)が微妙に当てはまる。『28週後』も決して悪くはないのだが、『28日後』のほうがまとまりが良かった。続編はやや冗長かなぁ。

それはそうと、これは厳密にはゾンビ映画ではないが、人から人へ、しかも攻撃(の結果の血液・体液)を介して感染することと、全体的に世界終末的な雰囲気を醸し出していることから、ゾンビ映画というカテゴリに入れることは決して間違いではないはず。

ゾンビ映画の難点は、死体が歩き回るという非現実さにある。このての映画の鉄則として、頭を破壊すればゾンビは死ぬというものがある。観ていていつも不思議なのだが、仮に脳から出る何らかの電気刺激で体が動くとして、心臓まで動いていたら、それは生きているということだから死体じゃない。では心臓は止まっているとして、ゾンビが発する声はどこから出ているんだろう。ゾンビは呼吸しているのだろうか? 呼吸は、体に必要な酸素を取り込み、不必要な二酸化炭素を排出するためにするわけで、ゾンビが酸素を必要とするというのは、どう考えてもおかしい。時どき、肺のないゾンビが声を出す映画がある(『バタリアン』など)。エンタテイメントとしてこだわらずに観ればいいようなものだが、細かいところが気になってしまう、そんな自分は悲しいゾンビファンなのである。

さて、この『28シリーズ』は、ウイルス感染による病気であり、感染者はあくまでも生きている人間で、燃やしたり体を銃で撃ったりすれば死ぬようだ。これだと、「死体が歩く」という非現実さを克服できる。しかも、感染者はしばらくすると餓死するというのだから救い(?)がある。

この映画、というか『28日後』のもっとも素晴らしい場面は、最初の方の、主人公ジムが目覚めてからしばらく街をさまようところだ。静かな音楽が、ゆっくりゆっくりとエレキギターの暴力的な感じに変わるのだが、そんな激しい音楽にも関わらず、街は沈黙し、ジムも困惑しながら歩くだけ。観ているこちらは、なんだなんだ、何か出るのか、と緊張してしまう。あのシーンは怖い。

怖いと言えば、ゾンビ映画(特にロメロ作)は、ゾンビ数体ならなんとか対応できるのに、数の暴力というか、圧倒的な戦力差で押し切られてしまうところに絶望を伴う恐怖を感じる。しかし、この映画の感染者は動きが活発過ぎて、タイマンでも勝てる気がしない。そういえばリメイク版の『ドーン・オブ・ザ・デッド』のゾンビも人間離れしていた。やっぱりゾンビ映画はノロノロタイプに追いつめられるパターンが一番だ。

子どもの頃、初めて観たゾンビ映画は『バタリアン』だったと思う。その次がロメロの『ゾンビ』で、こちらは非常に衝撃的だった。どうやったら、こういう事態の時に生き残れるかを考えるのが楽しかった。まず武器になるのはなんだろう、包丁かな、とか。近辺で逃げるなら、やっぱり学校が一番か、とか。そんな根暗な妄想をする少年時代を送ったことを、ゾンビ映画を観るたびに思い出す。

話のまとまりがなくなってしまったが、最近、こんな本を見つけた。

ゾンビ解体新書―ゾンビハザード究極マニュアル

同じようなこと考える人たちがいたんだなぁと思って、ちょっと親近感もった。

緊張病性昏迷の治療

統合失調症の症状の一つに、緊張病性昏迷というものがある。まったく動かず、呼びかけにも応じない。しかし、自分の周りで何が起こっているかは理解している。緊張病性昏迷の症状を呈している患者の治療のために読んだこと(中安信夫先生の本だったかな)、考えたことを覚え書きする。

ハエを叩き損ねると、死んだように固まるハエがいる。やっつけたかなと安心して、ティッシュを探してつかもうとすると、ふっと動き出して逃げる。同様のことは、いろいろな昆虫や動物で観察される。生命の危険を感じて全機能を一時停止させることで、外敵の注意を一旦そらして、生存確率を上げるのだろう。

これを人間にも当てはめて考える。統合失調症の緊張病性昏迷は、彼らなりの生命危機に対して起きたものだと仮定する。(その危機が、患者以外の者には些細で無意味なものであったとしても)そうすると回復のためには、その危機が去ったことを感じてもらう必要がある。最初に書いてあるように、まったく動かず呼びかけにも応じないが、自分の周りで何が起こっているかは理解しているのだ。だから、ひたすら安心感を与え続ける。手を握る、さする、肩をもむ、そしてやわらかく語りかける。
「緊張を解いても大丈夫だよ、戻ってきても安全だよ」
というメッセージを、ただひたすら、反応がなくても虚しく感じることなく続ける。

時どき、昏迷状態の患者は外部刺激も受けていないと思い込んで、患者の目の前で軽口をたたく医師や看護師、家族らがいる。これは上記のことからすると、とんでもなく反治療的である。

2012年4月27日

爆笑ネタ

今日は良いネタに出会えた一日だった。
とにかくもう、最高に笑えたので、ぜひここで紹介したい。

アンパンマンの記憶
絵とコマ割りが天才的だと思う。プロ?




次は動画。
よくまぁ、こんなの思いついたなw

金色の獣、彼方に向かう

金色の獣、彼方に向かう
恒川光太郎の短編集。今回、第25回山本周五郎賞の候補になっているようだ。
山本周五郎賞候補になった

でも多分、ちょっと厳しいかな……。恒川はデビュー作『夜市』で日本ホラー小説大賞を獲ってから、これまで第134回直木賞、第20回と第22回の山本周五郎賞、第29回吉川英治文学新人賞の候補に挙がりつつ、最終的にはいずれも賞を獲れていない。

まして本作は、これまでの作品と比べるとパワーダウン、ちょっと見劣りするレベル。決して面白くないわけではないのだが……。

それから、手元にあるのは初版なのだが、誤植が多すぎる。一作目の『異神千夜』において、「鈴華」(リンホア)という女性が出てくるのだが、これが何度も何度も「鈴鹿」と表記されているのだ。これにはちょっとガッカリ。人名にはこだわろうよ、校正さん。

2012年4月26日

「左利きには天才が多いって本当?」 本当だった時代はあったかもしれない。

今でも左利きを矯正させる人がどれくらいいるか分からないけれど、少なくとも、ちょっと前までは矯正されることが多かった。何はともあれ、箸だけは右手で持ちなさい、とか。

そんな時代に矯正されずに大人になった人というのは、のびのび育てられたか、あるいは矯正に従わない意志の強さや頑固さがあったか。どちらにしても、大人になってから独自性を発揮する可能性は高い。

だから、矯正が一般的だったころに子ども時代を過ごした人で考えれば、左利きの人のほうが「天才」「天才的」と言われることは多かったかもしれない。矯正が少なくなった現在では、上記のようなことはなくなっただろうし、純粋に右利きと左利きと比較したら、あんまり大差ないんじゃないかと思う。

また、今は右利きだけど子ども時代にサクッと矯正に適応したという左利きの人は、それはそれで素晴らしい能力だと思うし、より社会順応性が高いのではないだろうか。

野球選手のプロフィールに「右投げ右打ち」などと表記されるように、人には必ず利き手というものがある。一般的には右利きが多数派とされるだけに、左で文字を書いたり箸を持ったりする人がいると、妙に目に留まるものである。

かくいう筆者は純然たる右利き。巷でよくいわれる「左利きには天才が多い」という説を耳にするたびに、少々残念な思いがしてならないのだが…。これは本当なのだろうか? 池袋スカイクリニックの須田隆興先生に聞いてみた。

「生物学的な根拠を求めるのは難しいかもしれませんが、これはあり得ると私は思いますよ。いわゆる天才とはちょっと異なるかもしれませんが、左利きの人が後天的に才能を鍛えられる要素はあるのではないでしょうか。世の中にある道具の大半は右利きの人向けに作られているため、左利きの人は必然的にトレーニングの頻度が多くなるからです」

確かに、駅の自動改札は右手に切符を持つことを前提とした作りになっているし、ハサミだって右手で使う構造の物が主流だ。多くの道具が右利き用に作られているといっても過言ではないだろう。

なお、「利き手」を医学的にひもとくと、「右利きの人は言語機能の優位半球が左脳にあり、左利きの人は右脳にある、というのが定説」と須田先生は解説する。つまり、利き手によって脳の使い方が変わるともいえそうだ。左利きに天才が多いといわれる理由のヒントも、この点にある。

「そもそも指先というのは、運動機能の面でも神経学の観点でも、緻密極まりないものです。そのため、手を使うという行為自体、良い意味で脳に大きな負荷を強いています。たとえば左利きの人が右利き用の道具を使う際には、“どう対応すべきか”という思考や検証が発生します。つまり、先天的に左利きの人は、幼い頃から自然に脳がトレーニングされてきたと考えられるでしょう」

幼少期から鍛錬された脳が、常人とは違ったポテンシャルを発揮する…というのはいかにもありそう。そういえばあるスポーツ選手が、脳を鍛えるために利き手ではない方の手で携帯メールを打つ鍛錬をしていたという、有名なエピソードもある。

日常生活であまり利き手ばかりに頼りすぎず、脳トレを意識してみるのもいいかもしれない。
(友清 哲)
(R25編集部)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120110-00000000-rnijugo-ent

2012年4月25日

「医者らしくない」とは?

平成23年4月末に、南三陸町へ医療派遣された時のこと。最終日の業務を終えて、岩手県でチームメンバーと飲んでいると、
「いちは先生は医者らしくない」
という話になった。良い意味なのか、それとも……、と思っていると、
「もちろん、良い意味で」
と言われホッとした。そこで、どういうところが医者らしくないのか聞いてみた。

派遣先での診察の時、
「うーん、なんだろ、分かんないなぁ」
と言いながら、患者の目の前で本を調べる。それで患者が不安になるかというとそうでもなく、こちらがニコニコしながら「分からない」とあっさり言うものだから、言われた方も「案外たいした病気じゃないのかな」という気になるらしい。それから、例えば小児の診察の時には、救急外来もこなしている看護師に、
「普段、この薬って子どもにはこれくらいの量で出すものですか?」
と聞いたり、腰や肩が痛いという高齢の患者には、
「今日は理学療法士の先生が来てるので、僕よりその先生のほうが分かるかな」
と言って大まかな診察や治療方針を理学療法士に任せたりした。分からない部分で見栄を張ったり背伸びをしたりせず、患者にも、周りのスタッフにも「分からない」と明言してしまうところが、(少なくとも彼らが知っている)医者のイメージとは違うらしい。
「だって分からないものは分からないですもん」
と苦笑いすると、
「そう言いきってしまうところが良いんですよ」
褒められているはずなのだが、それが良いのかどうか複雑な気持ちにはなった。

医局内で、俺が他科の先生と話す時には皆さん良い人そうに感じるのだが、他職種の人には結構みんな冷ややかだったり厳しかったりするみたいで、親しみやすさという点では非常に好印象を持ってもらったようだ。手前味噌になってしまうが、確かに親しみやすさにはそこそこ自信がある。とはいえ、医療派遣ではチームメンバーが非常に良かったというのもある。メンバー皆に助けられた感は大きい。

春が来た!!

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春と言えばタンポポ。



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天切り松 闇がたり 4 昭和侠盗伝

天切り松 闇がたり 4 昭和侠盗伝
前3作と衰えることなく面白かったのだが、刑法39条に触れたあたりの記述にはちょっと納得のいかない部分があった。まぁそんなところを突っ込んだって仕方がないか。
全4巻、いずれも面白かったのでお勧め。

2012年4月23日

放送禁止歌

きっかけはこの歌だった。

『手紙』 岡林信康
https://youtu.be/EE8GY-XM1GY

差別を受けた女性の悲しみを歌ったもの。この女性は岡林に手紙を出したあと、自殺したらしい。この歌は放送禁止歌らしい。臭いものにふたをして無かったことにする日本文化がよく表れていると思う。
『手紙』 岡林信康 1969年

私の好きな みつるさんは
おじいさんから お店をもらい
二人いっしょに 暮らすんだと
うれしそうに 話してたけど
私といっしょに なるのだったら
お店をゆずらないと 言われたの
お店をゆずらないと 言われたの

私は彼の 幸せのため
身を引こうと 思ってます
二人はいっしょに なれないのなら
死のうとまで 彼は言った
だからすべて 彼にあげたこと
くやんではいない 別れても
くやんではいない 別れても

もしも差別が無かったら 
好きな人とお店が持てた
ブラクに生まれたそのことの  
何処が悪い何が違 う
くらい手紙になりました 
だけど私は書きたかった
だけども私は書きたかった


さて、この歌、結論から言えば実は放送禁止ではない。ではなぜ、この歌が放送禁止歌と言われるのか。また、その他の放送禁止歌はなぜ禁止されているのか。誰がどうやって禁止しているのか。

まず、そもそも「放送禁止歌」という規制は存在しないのだ。テレビ局のスタッフでさえ、放送禁止歌というのが存在していて、民放連(日本民間放送連盟)から厳しく規制を受けていると思い込んでいる。そして、なぜ規制されているのかといった理由などは考えようともしない。それが筆者・森達也の危ぶむ「マスコミの思考停止状態」だ。

いわゆる放送禁止歌は、正式には「要注意歌謡曲」という。これは民放連が1959年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」というシステムに由来するのだが、この趣旨はあくまでもガイドラインに過ぎない。それぞれの放送局が放送するかしないかを判断する性質のもので、決して放送禁止と規制されているわけではない。そして何より、このガイドライン自体1983年度以降は刷新されておらず、効力は1988年に切れている。つまり、「放送禁止歌」というものは存在しないということだ。

差別用語、放送禁止用語についても触れられているが、これはまた別の本を読む予定なので、今回は本書の中で興味深かった部分を引用する。
某局のバラエティ番組で、スイカ割りをタレントたちにやらせる企画が、収録直前にプロデューサーの一喝で中止になった。その理由をプロデューサーはこう説明した。
「考えてもみろ。目の見えない人たちを傷つけるだろう」
バカバカしいと思う、けれどこれが皆の好きなテレビを創る業界なのだ。俺は最近はテレビを観るということをほぼ完全に放棄しているけれど。

大好きだった「8時だよ!全員集合」に小人レスラーが登場したことがあったらしい。
その頃、試合数を減らされる傾向にあった彼らにしてみれば、プロレス以外に名をあげる大きなチャンスと張り切ったのだが、1クールの約束は、ほんの数週間で打ち切られた。視聴者からの電話が理由だった。「どうしてあんなかわいそうな人たちをテレビに出すのか」と、電話をかけてきた何人かの主婦たちは、口をそろえて抗議をしたという。
これを読んで、バカな主婦たちめ、と思うだろうか。しかし、今でも「24時間テレビ」で障害者を登場させることに対して、「障害者を食いものにしている」といった揶揄がネット上に飛び交う。この主婦らと同じく、誰も彼らの気持ちなんて分からないはずなのに。

一瞬なんのことだか分からない逸話もあった。
某テレビ局のバラエティ番組で、フロアディレクターがカメラの横でキュー出しをする動作が放送された。5、4、3、と数えながら指を順番に折っていくそのディレクターの指先に、4の瞬間、突然モザイクがかけられたという。
分かるだろうか? 親指を折って4本指が表すのが部落差別にあたるのだとか。しかし、数字を数える4をそのように解釈して抗議するバカがどこにいるのだ。

昭和30年代、川を隔てた場所にあった被差別部落では、その川の堤防の部落側が一段低くなっていた。要するに、増水したときには溢れた水はすべて部落内に流れ込むように造られていたのだ。そんな差別は未だに残っているらしい。これは今まで部落差別をあまり感じてこなかった俺は知らなったのだが、企業によって身元調査がなされたり、部落地名総鑑というものがあったりするそうだ。そして就職差別、結婚差別もあり、最近ではインターネットを使った差別的書き込みもあるとのこと。本書の初版が2000年なのだが、この時点で同和対策事業未実施の部落が、全国に1000ヶ所も残存しているらしい。

mixiの日記やコメントで見かけた「下女や外人は差別用語だから使ってはいけない」という指摘に、俺は多大な違和感があったのだが、この本の中でなぎら健壱はこう言う。
「……、結局、言葉に罪はないんだよね。使う人の意識の問題なんですよ」
また、部落解放同盟の役員も同様のことを言う。
「大切なことは一つ一つの言葉に条件反射で反応することではなく、その文脈を正しく捉えることです」
ちなみに、上記の「下女」は、ある人の日記で「解錠」をゲジョウと読んだ人がいるという話題の流れでぽっと出ただけ。また「外人」は、日本での外国人看護師採用の話題についての日記で、「外人なんぞに何が分かる」といった書かれ方をされていた。それぞれ「差別用語なので使わないほうが良い」という指摘が入ったのだが、前者の文脈に差別的な意味合いなど一切ないし、後者はむしろ言葉そのものよりも文脈にこそ問題がある。共通点は、「差別用語」という言葉だけが独り歩きをしたせいで、本質からズレまくって条件反射的な反応になってしまっているところだ。

本書は中身が濃くてお勧めである。差別問題に関してはとりあえずあと2冊読む予定。

久しぶり太郎

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2012年4月22日

天切り松 闇がたり3 初湯千両

天切り松 闇がたり3 初湯千両

面白かった。この小説の登場人物は、鳥打帽とかボルサリーノとかインバネスコートとかを身に着けているのだが、それがどんなものか分からないまま、だいたいの想像で読んでいたが、やはりそれだと雰囲気が掴めないのでググってみた。

鳥打帽は、いわゆるハンチングのことみたいだ。どうでも良いが、ハンチングの似合う中高年に憧れる。俺は頭がデカいからかあまり帽子が似合わないので、人生の小目標の一つとしてハンチングを被りこなすしたい。

ボルサリーノは、いわゆるハットのようだ。ブランドの名前でもあるらしい。これもカッコいい。今のところデニムのハットを持っているが、ちょっと若い感じで、果たして何歳まで許されるのか……。

インバネスコートは、シャーロック・ホームズが着そうなコート。これはさすがに着こなせない。着てみたいとも思わない……。

まったく内容に触れなかったが、このシリーズは面白いのでぜひご一読を。

2012年4月21日

じいちゃんの墓参り

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前回の帰省では従弟と、今回は母と甥と一緒に墓参り。



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じいちゃんの墓の前に立つと見える景色。

2012年4月20日

忌むべきてんかん患者、それが私です

私はてんかん患者だ。なんで自分がてんかんになったのか、そんなこと分からない。生まれてから何のトラブルもなかったのにてんかんになる人もいれば、高熱、外傷などでてんかんになってしまう人もいるらしいし、大人になってからいきなり発作が起こる人もいるそうだ。では自分のてんかんは何が原因なのか。そんなこと考えても意味がない。私は知っている。世間の目から見て、自分がただの「忌まわしいてんかん患者」であるということを。

私は主治医を信頼していて、もうずいぶん長いこと通院している。薬を欠かしたこともない。発作を起こすのが怖いというのもあるし、もはや習慣化したからというのもある。内服が一日一回で済む薬を主治医が選んでくれたし、寝酒する人と同じ感覚とまではいかないが、一日の終わりに薬を飲んで安心して眠りにつく、そんな毎日だ。

私は運転免許を持っていない。発作はもう十年以上起きていないが、敢えて運転免許を取る気にもならない。病院には電車やバスを乗り継げば通えないこともない。自分が車なしで生活できる環境にいることをつくづく恵まれていると思う。多くの患者がそうでないことは、情報のやり取りがしやすくなった今だからよく分かる。

先日、求職のためハローワークに行った。応対に出た職員はぞんざいな口調で、
「アンタ、何で免許持ってないの?」
と言った。私は自分の持病にてんかんがあること、発作はもう何年も起こっておらず、薬の内服も欠かしていないので免許の取得はできること、ただ自分自身の判断で免許を取っていないことを、なるべく分かりやすく簡潔に話した。

そのつもりだった。

しかし、相手にはそんなこと関係なかった。

「え!? てんかん!? 俺、責任取りたくないなぁ」

フロア中に響き渡るような大声で、彼はそう言って他の職員らを見渡し、そして苦笑いした。私はただただじっと、その場に座ってうつむいていた。

それでも幸いにして、そんなハローワーク経由の障害者枠で就職できた。自分がてんかんであることを承知して、それでも雇用しようという会社に感謝の念が止まらなかった。てんかんの発作にはストレスが影響するらしいが、自分の負担になりすぎない程度に一生懸命に働いて恩返しをしたいと思った。最初の出勤日、私は胸を高鳴らせて出社した。

「あんたは、席に座っているだけでいいよ」

業務説明はほとんどなかった。とにかく私が座っているだけで会社の利益になるそうだ。それが嫌なら辞めても良いよ、と。替わりはたくさんいるんだよ、と。だって障害者雇用枠でしょ、と。ぜいたく言いなさんな、と。

働きたい。社会貢献したい。そして何より、自分の力でお金が欲しい。親に養ってもらうか、年金か、生活保護だって考えたけれど、やっぱり自分が働いて得たお金で生きたかった。その思いだけにしがみついて、私はただただイスに座り続けた。

2年間、仕事は一つもなかった。口もきいてもらえない。家で愚痴ることもあった。ただ、家族には「お前は辛抱が足りない」と責められた。そしてとうとう胃潰瘍にもなり、私は会社を辞めた。

実は、その会社は障害者枠で人を採ってはいびり出す常習だった。それは、たまたま検査入院先で出会った患者家族から教えてもらった。

私はてんかん患者だ。なんでてんかんになったのか、そんなこと分からない。知ったところでどうしようもない。発作なんてもうずいぶん前に起きただけだが、それでも私はてんかん患者だ。薬を欠かさず飲んで発作が起きないてんかん患者だ。クレーン車で事故した人もてんかん患者だ。京都で事故した人もてんかん患者だ。そして私もてんかん患者だ。

なりたくてなったわけじゃない。親だって、私をてんかん患者にしたかったわけじゃない。私は私で、てんかん患者の親になってしまった父母が不憫だ。てんかん患者で、ごめんなさい。

誰か教えて欲しい。てんかん患者はハローワークで苦笑されないといけないのだろうか。てんかん患者には、イスに座る以外に仕事がないのだろうか。てんかん患者と口をきくとうつるのだろうか。

あなたはてんかんにならないのだろうか。あたなの恋人はてんかんにならないのだろうか。あなたの子どもはてんかんにならないのだろうか。

てんかんは病気で、原因はいろいろあって、それを知ったところで私はこれからもてんかん患者で、忌避されなくてはならない。それが、絆大好き、ガンバロウ日本の社会なのだ。


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疾患差別の一例を、ブログにコメントしてくださった方の実体験をもとに書いた。俺なりに小説風に書いたので、語り手を「私」と表記した。当然、心情などはこちらが想像して書いている部分が多い。

太郎、なぜかこんなことに……

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2012年4月19日

朝から太郎が……

先日、朝から太郎がうるさかった。起きて行ってみると……

グロい画像がありますので、苦手な人はここでストップ!!



2012年4月18日

俺は普通の精神科医、そしてなにより一般人だ

精神科医と名乗ってブログを書いたり、ツイッターやmixiをやったりしていると、その肩書きに釣られてくるのか、あるいは俺の書き込み内容に魅かれてくるのか、やたらと理想化した精神科医像、または俺の人物像を胸に抱いて接近してくる人がいる。

俺のブログで長い付き合いの方ならご存知と思うが、俺は結構いい加減だ。自分の理想の精神科医像は持ってはいるが、自分が理想的だなんて思っていない。良心の塊りのような人間でもないし、ごくごく普通の感覚をもったネット・ジャンキーだし、ちょっと変態でもある。

しかし、幻想を抱いて近づいてくる人たちは、俺の素っ気ない態度や彼らの意にそぐわない意見に過敏に反応して、今度は一転して俺を蔑み攻撃してくる。現象だけ見れば、いわゆる「理想化とこき下ろし」であり、境界型人格障害の特徴でもある。

俺は個人的に楽しむためにネットをやっている。同時に、精神科疾患に対する誤解が減ることに少しでも貢献できれば良いなとは思っている。だが、それ以上でもそれ以下でもない。だから、無視もするし、拒絶もする。ネットなんだもの、そういうものさ。

「退職を促してください」という手紙

以前、ある患者が勤務する大企業の産業医から手紙が来た。患者は統合失調症だったが、主治医から「退職を促して欲しい」という内容の手紙だった。さすがにちょっとムッとした。それは精神科医の仕事ではない。企業か、必要と感じた産業医が行なうべきことだ。診療情報提供書(意見書)を作成して欲しいということも書いてあったので、

「統合失調症という疾患の性質上、今後再発再燃しないと断言はできない。ただし、現在のまま、定期的通院・服薬を続ければ、再発・再燃の可能性は低い。業務内容に制限が設けられるのは致し方ないが、充分に就労できると考える」

という主旨のことを書いた。主治医として、ぜひとも復職させたいわけではない。むしろ、職場でのストレスを考えたなら退職するほうが良いとさえ思う。それは、本人にも家族にも十二分に時間をかけて告げてある。それでもなお、本人も家族も復職を望むなら、医療的視点から、現時点で復職可能かどうかの判断をするだけだ。

統合失調症患者の社会復帰成功は、4人に1人くらいとのこと。症状が再発・再燃し、業務に支障が出るのは、たとえそれがわずかであっても企業は嫌がるだろう。まして、機械運転をしたり、危険物を扱ったりする場合には、患者自身や周囲の人間を危険に巻き込む恐れもある。そんな色々な理由から、「できれば退職して欲しい」という企業側感覚は理解できる。

しかし、患者に退職を勧める役目を精神科医に任せるのは間違っている。現在、症状は落ち着いていて、通院・服薬している限り大丈夫と思われる人に、「退職したほうが良い」と促すことなどできない。もちろん、アドバイスはする。本人・家族に対して、統合失調症の特徴や予後、今後必要な治療、生活上で気をつけなければいけないこと。そういったことを一通りきちんと伝える。希望的な側面も述べるが、甘いだけの展望は抱かせないよう気をつける。ストレスフルな職場であれば、よりストレスの少ない職業にかえるほうが良いかもしれないと提案する。また、患者が単身生活をしていて私生活の家事などが負担になっているのであれば、実家で家族と暮らす方が再発リスクが低く、長い目で見れば、そのほうが良い人生が送れるかもしれない、といったことも告げる。しかし、それらはあくまでもアドバイスであって、そういったことを納得したうえで、患者・家族が将来を選択するのだ。

患者に退職して欲しければ、企業側から本人に明言して欲しい。それで患者本人はショックを受けるかもしれないが、かといって、精神科医が説得して退職させて万事丸く収まるわけでもなかろう。

初ものがたり

初ものがたり
久しぶりの宮部みゆき。面白かったんだけれども、続編がありそうなのに、現時点では発表されていない。どうやら連載していた雑誌が廃刊になったのが原因のようで、初版から10年以上が経過しても発売されないのだから、これはもう終わりってことだろう。魅力的なキャラがたくさん出てきただけに残念。

2012年4月17日

ナスビを描いた男の話

中学校時代、年老いた美術教師がいた。常勤の美術教師が研修に行っている間の代打だったので、もしかすると定年後の臨時採用だったのかもしれない。

その先生は生徒からあまり好かれてはいなかった。優しい先生だったけれど、お節介な部分があって、今の言葉でいうなら「ウザい」という感じかもしれない。先生は、生徒たちのその空気を察していたのだろうか。中学生の俺には、その先生の気持ちは分からなかったし、今でもやぱり分からない。

クラスの中でも、その先生を毛嫌いしているのがユキオだった。ユキオは先生がいる場所の近くで、わざと先生に聞こえるように、
「口くせぇ」
「口臭きつい」
「息がくさい」
と言うような男だった。それでも、先生は一度も怒らなかった。

そんなある日。
美術の授業で、果物のスケッチがあった。かごに入った果物の模型を鉛筆でスケッチするように言われた。そして、ひねくれ者のユキオは果物ではなくナスビを描いた。かご一杯に盛られたナスビ。ナスビなんて、当然かごには入っていない。

完成したその絵を先生に見せながら、ユキオは勝ち誇ったようにニヤニヤしていた。先生は絵を見ながら、眉間にシワを寄せて唸った。そして、顔を上げてこう言った。

「素晴らしい」

ユキオのニヤけた顔が固まった。状況を見ていた周りの空気も固まった。先生は続けた。

「目の前にはないナスビを、こんなに上手に描けるのは凄い。日ごろから、ユキオ君がいかに身の回りのものを観察しているか、それがよく分かるスケッチですよ、これは。果物を見て、野菜を描く、その独創性も素晴らしい。こんな素晴らしいスケッチには久しぶりに出会いました」

先生は根っからの美術好きだったのかもしれない。今思い返すと、先生の発言からそんな気がする。そしてそれ以来、ユキオは先生の悪口を言わなくなった。

わくらば日記

わくらば日記
俺は基本的に「ですます調」の小説が嫌い。そして、この小説は「ですます調」だから好きじゃないのだが、中身はなかなか面白くて、だからつい続編も買ってしまった。
そういう本なので、けっこうお勧め。

2012年4月16日

裁判長! ここは懲役4年でどうすか


裁判長! ここは懲役4年でどうすか (文春文庫)

おもしろかった!!

『裏モノJAPAN』という雑誌に連載されたものを加筆修正して文庫化。第1幕は、なんとなく面白さも鈍かったのだが、以後はどんどん引き込まれる。殺人やレイプの裁判に対する感想などが、パッと見では野次馬的に感じられて、不愉快に思う人もいるだろうと予想されるが、いやはや、そんなんじゃないね、これは。精神科では、病院に来るまでもなさそうな人から、こちらで縄かけてでも連れて来たくなる人まで、いろいろな人がいて、それぞれにいろいろな事情があって、診察室に遊びに来る人はほとんどいない(たまに、そういう人もいるけれど……)。それと同じような雰囲気を、この本に描かれる裁判所から感じた。読者が手軽に面白く読めるように書いてあるからといって、作者もお手軽な気持ちで書いているというわけではなかろう。

いろいろな裁判の被告や証人、原告、裁判官や検察、弁護士に対するツッコミも面白い。読んでいて、思わず吹きだすことも何度となくあった。そして、同時に、自分は原告にも被告にも、加害者にも被害者にもなりたくないなぁ、なんて、そんなことを思わせる人生ドラマ(北尾氏の空想も入る)が描かれている。これは良い一冊。

差別用語って何だ!?

「外人」という言葉に反応して「差別用語だ」と言っている人がいた。俺の中で「外人」が差別用語だという意識はなかったが、はたして本当に差別用語なのだろうか。

Wikipedia:外人
日本語が堪能な者のなかには自分を指して「外人」という表現を使う者もいて、単に非日本人を指す言葉であり、一般人の会話における「外人」が差別用語ではないと認識している。しかし一部の欧米人の間では外人は英語のJapと同種のものであると主張するなど、あきらかに日本語に対する理解の不足からくる誤った主張をする者がいる。これとあいまって外人を差別用語とするのは欧米人の身勝手な主張であるという認識も存在する。「外人」は語義・成り立ちの上で明らかに差別用語でないので、これを差別用語とするのは言葉狩りであると主張される。これは欧米とくに英語圏での生活を経験し語学が堪能で欧米の言語においても「外国人」という単語が日本語と同じ用法で使われていることを知っている者のあいだでとくに指摘される。
「外人」は 差別用語ではない、というのが俺の認識だ。

そもそも差別用語って何だ?
これは昔から考えていて、未だによく分からない。「えた」「ひにん」という言葉を使っていたら差別用語だと注意されたことがある。俺はこの言葉でいったい誰を差別しているというのだろう。先祖が「えた」「ひにん」であるという人が不快に思うのだろうか。

「下女」という言葉も差別用語らしい。これもよく分からない。「下男」はどうやらオッケーらしい。ますます分からない。「下女」と言われて不快になる人がいるから? でも、今どき「下女」っているのかな。その言葉を使われて不快になる人はいるのかな。

百歩譲って、不快に思う人がいるとしよう。では、そういう言葉を差別用語だと指弾する人たちに逆に聞きたい。「ハゲ」とか「チビ」とかは差別用語になりませんか。というか、むしろ、これらの言葉のほうが断然相手を傷つけるんじゃないかと思うが、あまり取りざたされない。

差別用語に目くじら立てる人たちって、どこかズレている。

2012年4月15日

ブックオフ副店長だった頃のクソガキ退治

埼玉の所沢店で働いていた。

当時、平日であるにもかかわらず、店に遊びに来る中学生軍団がいた。連中はマナーも最悪で、店の中に自転車で入ろうとしたこともあった。当然、追い返したが。

こんなこともあった。バッグ一杯に詰まった本を売りに来たクソガキ。その本の査定を済ませて、呼びに行った。レジにやって来たそいつがバッグを下ろした時、「ドン」と、空っぽのはずのバッグがすでに重そうになっていた。

なめとんか。

そんな奴らは、どこで仕入れてくるのか、連日のように真新しい本やビデオを売りに来ていた。一番驚いたのは、SPEEDの写真集が発売されたその日に、グループの各人が数冊ずつ写真集を売りに来たことだった。クソガキどもは明らかに、どこかで万引きしたものを売りに来ていたのだ。しかし、証拠がない。他店の損失などどうでも良いが、こんなバカなガキどもを放っておくのが悔しい。

そこで、店長には内緒で、ちょっとした独断作戦に出た。

ある平日、学校が休みなのか、それとも休んだのか、バカガキの一人が大量のビデオ(恐らく盗品だろう)を売りに来た。そいつは、ニヤニヤしながら、「オヤジのビデオで、いらないらしいから」と言っていた。クソガキ、笑っていられるのも今のうちだ。買い取り表に名前や連絡先を書かせた。そして「少々お待ちください」といつものように立ち去らせた後、俺はそこに書かれた番号に電話した。

電話には母親らしき女性が出た。俺は、もの凄く善人ぶった声で、
「○○さんがもの凄く大量のビデオを売りに来られたんですが、未成年の方には保護者に連絡を取ることにしていまして(大嘘)」
そう言うと、母親は「え?」と言ったまま絶句した。俺は、あくまでも善人声で続ける。
「あれ? あ……、お父様のビデオを売りに来られたっていうことだったんですが……」
母親は無言のままだ。俺は笑いを噛み殺しながら言った。
「あの……、もしかして……、ご存じじゃないんですか……?」
母親は、
「今から、そちらに行きます」
とだけ言って電話を切った。

俺はもう、どうしようもないくらいに笑いたかったけれど、神妙な顔をしてクソガキの所へ行き、
「すいませーん、ちょっと良いですかぁ」
これまた善人口調。
「あのぅ、今、お母さんに連絡を取ったんですよね。あ、別に疑ったとかじゃなくてね。未成年の場合には、そういう風に確認を取ることに決まったんですよ(大嘘)。そしたら、お母さん、なんていうか……、その……、今からこっちに来るって!!」
あの時の、クソガキ、いや、少年の青ざめた顔。

その後、奴らはめっきり店に来なくなった。10年以上たった今ごろ、大したことのない人間になっているんだと思う。あぁ、頭悪いのに俺俺サギとかやっていそうだな。

2012年4月14日

刑務所の中の障害者たち 『獄窓記』

元衆議院議員・山本譲司は、公設秘書の名義貸しなどで起訴されて実刑判決を受けて服役した。そこで体験したり考えたりしたことをもとに書かれた『累犯障害者』が、非常に読みごたえのあるインパクト充分な内容だったので、今回あらためて彼の本を読むことにした。

本書は『累犯障害者』よりは前に書かれた彼の物書きデビュー作。まだ慣れていないせいか、句読点の打ち方などから文章のぎこちなさが感じられた。また、やたら小難しい言葉を使いたがるのは、デビュー作という気負いからだろうか。

前半部分では彼が刑務所に入ることになるまでが語られる。この部分はあまり要らないと感じた。書かれたことを真に受けるなら潔い男に感じられるが、こういうことは後からなら何とでも言えるのだ。しかし、中盤以降、彼が目にした刑務所内での光景は、これまであまり語られてこなかったことなだけに必読に値する。
味噌汁とみかんと麦飯とを混ぜ合わせて、それにソースをたんまりと掛けて、口に運んでいる者、おかずを胸ポケットに詰め込んでいる者、飯粒をテーブルに並べて、その数を必死になって数えているものなど、常軌を逸した行動をとる同囚が数多くいた。
彼が配属されたのは、知的障害、身体障害、聾唖、認知症といった囚人たちが作業をする工場だったのだ。そこでは、紐の結び目をほどく作業と、ごちゃ混ぜになった6色のロウソクの破片を色ごとに仕分けする作業がある。筆者はそれを見て、紐は紙袋に使われるのだろうし、ロウソクは溶かして固めて再利用するのだろうと思うのだが……。
「ほどかれた紐は、この部屋に持ってきて、こうやって、私たち指導補助が結び直すんです。そしたら、それをまた、彼らの作業に回します。その繰り返しです。紐を渡す人によって、結び方を強くしたり、弱くしたりします。ロウソクにしても同じです。彼らが色分けしたものは、まったく使いものにならないんです。赤の中に白が混じったりしていて、まあ、いい加減なもんです。結局、色分けしてもらったロウソクは、また自分らがごちゃごちゃにかきまぜて、それを次の日の作業に回すんです。言ってみりゃー、彼らに、時間つぶしをさせてあげてるようなもんです」

ところで、刑務所での作業ではどれくらいの賃金が出るのだろうか。
私の最初の作業賞与金は、500円ちょうどだった。これは、時給ではない。一ヶ月分の給料だ。週休2日、1日8時間労働ということからすれば、時給は3円弱ということになる。
非常に 安いとは思うが、これは徐々に増える仕組みになっている。
毎月10%から20%の割合でベースアップしていくのだそうだ。それが2年間続いた後、頭打ちになるらしい。収容者全体の平均月収は、3千円くらいだという。
これでは 、たとえば2年間服役したとしても、出所時に渡される総額は7万円程度にしかならない。自宅も身内もない人間だと、1週間ほどで使い切ってしまう。すぐに刑務所に逆戻りという出所者があとを絶たない原因は、作業賞与金お安さにもよるのではないかと思う。
山本はこう考えるが、しかしジレンマも感じている。
ただ賞与金を高くすればいいというような単純な話ではないだろう。刑務所の中で、それなりの給料をもらえるということになれば、金を稼ぐため、わざわざ刑務所に入ってくる者も出てくるのではないか。これでは、本末転倒である。
ドイツの例を挙げてあり、なかなか興味深かった。
ドイツでは、刑務所を出所した者に対して、しばらくの間、受刑前に得ていた賃金の65%の額が失業保険として支払われるそうだ。それは再犯を防ぐうえでかなり有効な手立てとなっているらしい。再犯者が減った結果、刑務所の運用コストも大幅に削減することができたという。 
しかしこれは、日本の「犯罪者憎し」という空気のもとではなかなか実現しにくい方策だろうなと思う。

山本と障害者のやり取りには考えさせられる。
「山本さん、俺ね、いつも考えるんだけど、俺たち障害者は、生まれながらに罰を受けてるようなもんだってね。だから、罰を受ける場所は、どこだっていいのさ。また刑務所の中で過ごしたっていいんだ」
「馬鹿なこと言うなよ。ここには、自由がないじゃないか」
「確かに、自由はない。でも、不自由もないよ。俺さ、これまでの人生の中で、刑務所が一番暮らしやすかったと思ってるんだ。誕生会やクリスマス会もあるし、バレンタインデーにはチョコレートももらえる。それに、黙ってたって、山本さんみたいな人たちが面倒をみてくれるしね。着替えも手伝ってくれるし、入浴の時は体を洗ってくれて、タオルも絞ってくれる。こんな恵まれた生活は、生まれて以来、初めてだよ。ここは、俺たち障害者、いや、障害者だけじゃなくて、恵まれない人生を送ってきた人間にとっちゃー天国そのものだよ」
「うーん」
自由はない、けれど不自由もない。なんだかブルーハーツの歌みたいだ。

また、山本の同囚には殺人犯もいる。
Hの息子は30歳を過ぎても定職に就かず、毎日、酒を飲んでは家の中で暴れまわっていたらしい。特に母親に対する暴力は目に余るものがあったという。
「このままだと、女房が殺されると思いました。木刀を取り出すと、あとは何かに憑りつかれたように体が動いていました。息子の頭から血が噴き出すのをみて、やっと意識が覚めたんです。取り返しがつかないことをやってしまいました」
Hの舎房からは、毎晩お経を唱える声が聞こえてくる。
こういう殺人犯がいる一方で、以下のような者もいる。
Kという知的障害者は母親を殺害していた。彼は私より3歳年上だったが、知能は小学校低学年ほどのレベルしかなかった。
「あのね、僕がね、おうちの中でサッカーごっこしてる時、お母さんがね、お部屋で横になってたの。お母さんが僕に、うるさいって言ったんで、お母さんの頭を蹴っちゃったんだ。そしたら、お母さん、死んじゃった。僕、びっくりしちゃったよ」
Kは懲役3年の刑を受けていたが、もうすぐ満期を迎えるらしい。
「僕、ここから出ても、山本さんとお友だちでいたいなー」
「Kさんは、友だちはいないの」
「うん、いないよ。お母さんに、恥ずかしいから外に出るなって言われてたから。僕、話をするのはお母さんだけだったよ」
いずれも、どこかで何か小さな援助があるだけで 痛ましい事件にまでは至らなかったんじゃないだろうか、と思ってしまう。

辻元清美に関する記述も結構ふんだんにあって、元から彼女のことは好きじゃなかったのだが、この本を読んでますます嫌いになった。とはいえ、本書のテーマからするとそれは枝葉かな。

最後に、受刑者が詠んだ短歌が紹介されていて、その中でもダントツに母を想うものが多く、そしてそれが目頭熱くなるようなものだったので紹介する。
面会時 老いたる母の 頬つたい 流れる涙 拭いてもやれず
難聴の 母には遠し 面会の 厚きガラスに 言葉届かず
ハハキトク たった五文字の 電報を 何度も眺める われは無期囚
面会に また行きますよ ガンバレの 文を最後に 母は逝きたり
次の世が あると言うなら 母よ母 ふたたびわれを 身ごもりたまえ

2012年4月13日

てんかん患者と運転免許

てんかん患者には運転免許を一律に発行せず、またすでに発行しているものでも全て剥奪せよ、という極端な意見がある。

以下、最初にてんかんに関する一般的な誤解と、それを修正するための知識を『現代臨床精神医学』『専門医をめざす人の精神医学』を参考にしながら述べて、最後になぜ上記のような自主返納という結論に達したかを書きたい。

「てんかんに関する誤解」には以下のようなものがある。
(1)てんかん患者は、すべて意識消失して痙攣する。
(2)てんかんは、薬を飲んでも治らない。
(3)てんかん患者は、すべて小児・思春期に起こり、大人になってから起こるものはない。

最も多くて根強い誤解が、(1)の「てんかんはすべて意識消失や痙攣を伴う」というものである。てんかんの分類は非常にややこしく、専門家の間でももっとシンプルにすべきだという議論がある。ここでは一般の人を対象にするので、ごく大雑把に説明する。全般発作といわれるものは、ほぼすべて意識障害を伴う。全般発作と対になるものとして部分発作があり、中でも意識消失のないものを単純部分発作という。単純部分発作には例えば、聴覚発作や嗅覚発作といったものや、急に声が出せなくなったり、逆に意志に反して声が出たりする音声発作というものもある。単純部分発作に対して、複雑部分発作というのもあるが、こちらは意識障害がある。発作型の頻度に関しては調べても載っていないが、少なくとも(1)が間違っていることは確かである。これで誤解が一つとけたはずだ。

次に、薬を飲んでも治らないというのは、誤解というより「治るとはなにか」というところの認識のずれがある。薬を飲んでいれば発作が起こらないというのを「治る」と考えて良いと思うが、人によっては「薬を飲み続けている限り、発作が起きなくても治ったことにならない」とやや厳しく評価する人もいる。大切なのは運転中に発作が起こるかどうかのはずで、薬を飲んで発作が起きなければそれで良いじゃないかと思うのだが、「てんかん患者からは一律に運転免許を剥奪すべし」と極論を語る人の中はこの部分にこだわる傾向がある。そこにこだわってしまうと、例えば不整脈がある人は意識消失する危険性があるが運転免許はどうするのか、といった話にまで広がってしまうのだが、そこを尋ねても答えてもらったことはない。内服治療による発作完全消失率は、発作型によっても違い、予後の良いタイプは70%~80%に達する。「病気が治る」というのはどういうことなのか、そういうことを各人で考えてみるのも良いと思う。

「てんかん患者は、すべて小児・思春期に起こり、大人になってから起こるものはない」という誤解についてだが、これはまったくの誤りで、成人してからてんかんになる人はたくさんいる。実際、今回の京都で起きた事故の加害者は数年前に交通事故に遭ってからてんかん発作が起こるようになったそうだ。てんかんの頻度は1000人に8人くらいと言われていて、日本の人口を1億2千万人とすると、100万人弱のてんかん患者がいることになる。発病年齢について2000人に対して行なわれた調査では、18歳までに85%が発病しているとしている。残りの15%はそれ以降の発病で、15万人くらいいる。つまり、明日、あなたや、あなたの恋人や、あなたの家族や友人が、突然てんかん発作を起こして、てんかん患者になることだってあり得るということだ。

てんかん患者の免許を制限するのではなく、患者が免許を自主的に返納し、もし運転するのなら発作(初発以外)を理由にした免責は一切しないという制度が一番良い、という結論に達した理由を述べる。初発以外と書いているのは、初めての発作など誰にも予測できないからだ。

もともと、てんかん患者全員の免許に一律に制限をかけることに反対だった。上記したように、意識消失のない発作もあるからだ。では例えば「5年以上にわたって意識消失発作がない」などの条件をつければ良いのかと考えたら、それだと診察室で患者が症状を過小申告することが増えるんじゃないのかという危惧を抱いた。それは結局、病気そのものにとっても良くないし、社会安全上も問題がある。医師に嘘をつくことを禁じる法律でもできれば良いが、それはたぶん無理だろう。

もし、てんかん患者は発作の種類に関わらず運転免許を取得できず、またてんかんと診断されたら免許取り消しになるという制度ができたらどうなるだろうか。どうしても免許を取りたい、あるいは手放したくない人は、そんな診断を受けては困ると病院に来ないかもしれない。それで病気が悪くなる。また、保険記録が残らないようネットで抗てんかん薬の闇取引きが行なわれるかもしれない。気分安定薬(安定剤ではない)とてんかんの薬は同じものを使うことが多く、薬を横流ししようと思えばいくらでもできそうだ。しかも、睡眠薬依存などと違い、「運転免許を死守する」という切実な目的なだけに高値で売り買いされそうでもある。

結局、免許発行停止、剥奪という方法だと、運転免許がどうしても欲しいてんかん患者が地下に潜ってしまって、適切な医療や助言を受けないまま運転を続ける、という危険性だけが増えることになりそうだ。それで事故が起きたとしても、病院で診断を受けていなければ「てんかんの診断は受けていない」ということになってしまう。悪質といえば悪質なのだが、てんかん発作と思われる症状が起きたら強制的に病院を受診させる、というわけにもいかない。

かぁちゃんと神様と真夏の温泉

高校には行かない、と恭一が母親に告げると、
「かぁちゃん、天国のとうちゃんに叱られちまうよ」
母親はそう言って、ため息をついた。早く働いて金を稼いで、それで母親に楽をさせてやろう、などと殊勝なことを考えたわけではない。恭一は単純に、もうこれ以上、勉強することが嫌だったのだ。

小学校に入学して足し算引き算までは良かったが、掛け算になると九九の暗記が苦手で、割り算では頭が混乱し、分数になると意味不明、中学に入って算数が数学になると、今度は式の中にローマ字が入ってきて、英語まで一緒にやらされているような気がした。作文もダメ、理科も社会も覚える気になれず、体育はまぁまぁ、図工はそこそこ器用にこなせて、道徳の時間に時どき聞かされる話にこっそり涙ぐみながらも、俺には関係ないなどと強がってみせる、そんな学校生活だった。放課後には、恭一と同じようなデキの悪い友人たちとつるんで、時には他校の生徒とケンカもした。母親は、恭一の生活態度にあまり口出しはしなかったが、一度、相手に大怪我をさせた時、母親は大声で怒り、恭一は初めてビンタを張られた。
「なにすんだ、クソババァ」
思わずそう叫んで、ちょっとだけ後悔して、しかしそれ以後、恭一は母親のことを「クソババァ」と呼ぶようになってしまった。

働き始めた当初は、十分に一回くらいのペースで、
「やってらんねぇ」
と言っていた。作業がきつかったわけではないし、職場の仲間ともうまくやれていた。ただただ、なんとなく「やってらんねぇ」という言葉が口から出てくるのだった。「やってらんねぇ」と言わなくなったのは、職場の先輩であるコウヘイの一言がきっかけだった。コウヘイは、恭一より五つ年上だった。兄のいない恭一にとって、仕事を手取り足取り教えてくれるコウヘイは、もし兄がいるとしたら、こんな人が良いなと思えるような先輩であり、恭一は「コウさん」と呼んで慕った。ある日、「やってらんねぇ」とぼやいた恭一に、コウヘイは、
「まぁ、そのわりに、お前しっかりやってるよ」
と言って笑った。小学校時代からあまり褒められたことがなかった恭一にとって、コウヘイからそう言われたことはすごく嬉しかった。恭一は、
「うす」
とだけ答えて、それ以来、「やってらんねぇ」とは言わなくなった。怒られたり褒められたりしながら一生懸命に働いて、初めての給料をもらった日。恭一が小学校三年生の時から、ずっと一人で育ててくれた母親の苦労が、なんとなくでしかないけれど、少しだけ分かったような気がした。

働き始めて五ヶ月目になる八月。恭一の通帳には五万円が貯まっていた。恩返しとか親孝行とか、そこまでの気持ちではなかったが、恭一は母親を温泉旅行に連れて行くことに決めていた。旅行代理店を何軒かまわって、土日に二人で一泊二日、交通費込みで四万二千円というプランを予約した。宿は古そうだったが、夕食に母親の好きな刺身が出るのが決め手になった。温泉旅行の件をコウヘイに話すと、
「八月に温泉はねぇだろよ」
と言われ、恭一はそういうものかとちょっと恥ずかしく思ったが、今さら旅行代理店に金を返せとも言えないので、
「うちのクソババァ、すんげぇ温泉好きなんすよ」
と言って誤魔化した。
「でも絶対、おふくろさん、喜ぶよ」
コウヘイは恭一の肩を叩きながらそう言った。残高が八千円に減った通帳を眺めるのは、不思議と五万円入っていた時よりも心が浮いた。母親と一緒の部屋で布団を並べて眠るのかと思うと、みぞおちのあたりがモゾモゾと、恥ずかしいような、落ち着かないような、そんな気持ちになった。刺身を前にして満面の笑顔で喜ぶ母親を想像しては、
「なんでもねぇよ、これくらい」
そう言ってすまし顔をする自分をイメージしながら眠りについた。

「クソババァ、明日っからの土日、あけとけよ」
金曜日の出勤前、母親の弁当を受け取りながらそう言うと、
「はいはい、ったく、口の悪さはとうちゃんゆずりだね」
そう言いながら母親は頷いた。その日は、今年一番の暑さだった。湿度が高く、雲ひとつなく、風も吹かず、蝉が鳴きじゃくり、道路には蜃気楼が見えた。そんな炎天下の午後二時五分。恭一の頭の上に鉄骨が落ちてきた。痛みはなかった。小学校や中学校の時みたいに、誰かがふざけて飛び掛ってきた、そんな感覚だった。気づくと、目の前にアスファルトがあって、アスファルトは思っていたほど熱くはなかった。ただ少しべたつく気がした。目を上に向けると、コウヘイが何か叫びながら走ってくるのが見えた。コウヘイは、怒っているような、泣いているような、変な顔をして、一人じゃ持ち上がるはずのない鉄骨を必死に動かそうとしていた。その姿がおかしくて、恭一は笑ったつもりだったが、咳しか出なかった。ようやく、自分が鉄骨の下敷きになったのだと気づいたが、痛みがなくて、だからまったく実感がわかなかった。
今日はもう、仕事にならないな。
怪我したの見たら、クソババァ驚くかな。
今日の弁当の玉子焼き、ちょっと塩辛かったな。
ウインナー二個じゃなくて、三個にしろっていつも言ってんのに。
帰ったらまた文句言っちまうな。
温泉は、キャンセルして仕切り直しだ。
そんなことを考えながらも、恭一はもう母親には会えない気がした。会えない寂しさよりも、母親を一人にすることが辛かった。また一人、家族を失って泣く母親の姿を思い浮かべ、恭一はつぶやいた。
「かぁちゃん、ごめん」

恭一は自分の涙で目が覚めた。見慣れた部屋の、万年床の上。全てが夢だったことに気づき、夢で泣いたことが恥ずかしくなった。洗面所へ行って顔を念入りに洗ったが、相当に泣いたのか、目は赤いままだった。出勤前、いつものように母親から弁当を受け取る時、
「クソバ……、いや……、かぁちゃん、土日あけといてくれよ」
恭一がそう言うと、母親は、
「なんだい気持ち悪いねぇ」
そう言いながら、少し嬉しそうな顔をしていた。迎えのバンに乗ってコウヘイたちに挨拶をしながら、今日からまたかぁちゃんと呼ぶようになるかもしれないと考えると、恭一はくすぐったい気持ちになった。

それからおよそ六時間十五分後、恭一の夢が正夢になることを、この時の恭一は想像だにしていない。

神様なんて、いないのだ。







しかし、作者が作品に及ぼせる神の力によって、恭一を救うことにした。作者の傲慢かもしれないが、女手一つで六年以上も頑張ってきた母親と、不器用ながらも母を大切にする恭一には、小さな幸せを感じながら静かに生涯を閉じる、そんな舞台を用意してあげたいと思ったのだ。







八月の温泉を、母親はとても喜んでくれた。浴衣姿の母親は、刺身を一切れ食べては美味しいと笑い、天ぷらを頬張ってはありがとうと涙を浮かべた。
「なんでもねぇよ、これくらい」
とは言えなかった。照れくさくって、こっぱずかしくて、そしてやっぱり嬉しくて。恭一は母親が何か言うたびに「おう」と相槌をうち、「いいから食えよ」と苦笑した。

それから三十五年後、母親は病室のベッドの上で、恭一夫婦と三人の孫たちに囲まれていた。母親は「恭一、恭一」と呼んだ後、「真夏の温泉は良かったねぇ」と静かに笑い、そのまま息をひき取った。「おう」と言った恭一は、それから肩を震わせて、かぁちゃん、かぁちゃん、かぁちゃんと、何度もそう呼びかけてはおいおいと大泣きした。

さらに三十五年後、恭一は妻と息子二人、娘一人、八人の孫、ひ孫一人に囲まれて、自分は笑顔で、皆は泣き笑いをしている中で世を去った。あの正夢から救われて七十年の間に、一体どんなことがあったのか。小さな不幸、ささやかな幸せ、ちょっとした悔しさ、ふとした喜び。泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、たくさんの思い出を積み重ねて幸せな最期を迎えるまでの恭一の人生は、読者の想像力という神の力に委ねたい。

天切り松 闇がたり 2 残侠

天切り松 闇がたり 2 残侠
これもまた面白かった。1巻と比べると難読文字も少なく読みやすかった。泣き所は1巻のほうが多かったように思うが、これはこれで良い。素敵な本に出会ったと思う。

2012年4月12日

てんかん患者には運転免許を持たせるな!?

クレーン車が児童の列に突っ込み、6人もの小学生が亡くなった事故は記憶に新しい。運転手はてんかん患者で、薬を服用していなかった。その後、前日に飲み忘れた分まで朝から一気に飲んだという情報も出た。この運転手の罪は自己管理の甘さなどいろいろとあるだろうが、少なくとも、てんかんという病気であることそのものに罪はない。

てんかん発作の種類は、人によって非常に多岐にわたる。失神して全身がけいれんして泡まで吹くといった派手なものから、片手が無意識的に動いてしまうとか、あくびしてボーっとなるとか、一見しただけではてんかん発作とは分からないようなものまである。クレーン車事故はどうやらてんかん発作のせいだったようだが、今回の運転手の発作がどういったものかは分からない。運転手が死亡している以上、てんかん発作のせいだったかどうかも明らかではない。

ここで問題にしたいのは、
「てんかん患者には、運転免許を与えるべきではない」
といった意見が非常にたくさん見られることである。発作の種類さえ知らないような人たちが、さしたる根拠もなく、てんかん患者から自動車を運転する権利を奪うべきだと発言している。これは怖い。

クレーン車事故の時には、医師限定の掲示板でさえ中間議論をすっ飛ばして、てんかん患者への一律の免許制限論が出ていることに呆れた。この医師たちがてんかんの診断治療に携わっていないのは明らかだ。少し勉強すれば、こんな一律論は出てこない。
「他者から権利を奪う際には、慎重に議論を重ねたうえでなされるべきだ」
これを掲示板に書き込んだところ、どのような反応があったか。掲示板では、賛成、反対、不適切のボタンがあって、それぞれに人数が分かる仕組みになっている。それによると、賛成ゼロ、反対と不適切がともに票数を上げた。自分の書き込みは、
「てんかん患者から自動車を運転する権利を奪うべきではない」
というような権利はく奪に対する強い反対論ではなく、
「他者から権利を剥奪するかどうかの議論は慎重になされるべきだ」
と慎重な議論を求めるだけのものだったので、この過剰反応には驚いた。

クレーン車事故の加害者がてんかん患者で、かつ自己管理が甘かったのは確かだが、だからといって、てんかん患者から自動車免許をはく奪せよというのは暴論だ。その暴論が許されるのならば、酒を飲む者にも免許を与えるなという主張も通る。「いや、それは酒を飲む者の心がけの問題だ」というのなら、てんかん患者も同じで、症状、発作頻度、自己管理を問題にすべきだ。

また、てんかん発作以外にも、意識が低下あるいは消失する病気はたくさんある。ちょっと前には低血糖発作で交通事故を起こしたというニュースもあったし、狭心症や心筋梗塞の既往がある人だって次にいつどうなるか分からない。他にも、目の網膜動脈塞栓は、いきなり片方の目が見えなくなる。どんな人にでも、意識消失したり、感覚器や運動器が運転不能になったりする危険性はあるのだ。

とはいえ、どこかで線引きは必要かもしれない。どんなに薬を飲んでも発作を抑えられない難治性てんかんもあるのは確かだ。自動車は致命的な凶器になりうる以上、難治性てんかん患者の自動車運転には、何らかの制限が設けられても仕方がない。しかし、個々人の症状や発作頻度に違いがあることや、それぞれの事故状況などを無視して、てんかん患者を一括りにし、中間議論もなく、車を運転させるなと結論づけるのは、あまりにも軽率だし、医師にさえそういう姿勢の人が多いというのは非常に怖い。

結論は繰り返しになるが、てんかん患者の運転免許に関しては、感情的にならずに、もっと慎重に議論を進めるべきである。

ぼくのエリ

評判に偽りなし。

これはもう、ネタバレせずには語れないっ!!

初めてのスウェーデン映画。面白そうではあったけれど、不安でもあった。だって、スウェーデンで映画作ってるなんて知らなかったし(失礼)。しかし、観てみると想像以上に面白かった。

というわけで、お勧め映画。

以下、ネタバレ。

“職業釣り師”になるための10の条件

“職業釣り師”になるための10の条件

これは面白かった!!
俺はなれそうにないなぁw

2012年4月11日

春ですね

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春に赤く色づくモミジがあるんだよねぇ。



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「救急車の出動、1回4万円です」 それ、ホント!?

さいたま市で救急車の出動1回に要する費用を4万円と公表したらしい。ところがこれ、どうも計算方法がおかしいと思う。俺が以前消防隊の研修を受けた時には、一回の出動で8万円程度かかると教わった。アメリカでは救急車要請でだいたい10万円請求されるというから、出動一回8万円というのは妥当な金額だろう。 ちなみに、アメリカでは交通事故に遭った人が周りで救急車を呼ぼうとしている人に対して「やめてくれ! タクシーを呼んでくれ!!」と言うこともあるらしい(アメリカ在住の人の実体験)。

ではなぜ、4万円なんて金額になったのかというと、これは推測に過ぎないのだが、かかった費用を全ての出動回数で割った金額なのではないだろうか。その算出方法だと、救急車を呼べば呼ぶほど一回にかかる費用が安くなってしまう。本当に救急車出動が妥当だったと思われる事例のみで計算したら、やはり8万円くらいになるんじゃないだろうか。
税金の使われ方を詳しく知ってもらおうと、さいたま市は、救急車の出動1回に要した支出相当額など、各行政サービスのコストについて公表を開始した。

試行として広報紙の発行、税証明書の交付など106事業の人件費、減価償却費などを含めた総経費を開示している。アンケート結果を踏まえて対象の拡大などを進め、今秋にも本格実施する。税金の使い道を「見える数値」として市民に身近に感じてもらうとともに、職員のコスト意識向上を図るのが狙いで、サービスごとに目的、人件費、事務費などの必要経費、財源なども明示。市ホームページで公開し、各区役所でも閲覧できる。

2011年度でみると、救急車出動1回当たりのコストは報償費、役務費、備品購入費などを含めて4万2425円。広報紙は印刷物としては1部当たり20円だが、人件費や減価償却費などを含めると45円となった。市民が「納税証明書」を受け取る場合、200円の手数料を支払う必要があるが、多数ある税証明書類の交付では、1枚当たり709円要した計算になる。

いずれも前年度との比較も示している。市行政透明推進課は「行政サービスをより見える形で示し、一層の透明性を確保したい。市民の意見も踏まえて公表の方法などは改善していく」と説明する。

(2012年4月9日 読売新聞)

2012年4月10日

メメント・モリ

病棟師長の御子息が今朝、亡くなった。享年22歳。今年一月に他界した祖父が88歳だったことを思うと、あまりに早すぎる。ついさっき行ってきたお通夜の参列者も若い人が多かった。友だちの葬式なんて出たくない。

そんな俺も、病院実習で知り合った小学校4年生、医学部入って一年目で病いに倒れた後輩、30歳なるかならないかで命を絶った同級生と、若い人のお通夜・葬式には3回参列した。

祖父の葬儀は、非常に良かった。笑いあり、涙あり、祖父からしたらひ孫の泣き声あり。ただ悲しいだけじゃなく、お疲れさま、ありがとう、そんな気持ちもいっぱいで、だから、葬儀全体に漂う空気が柔らかかった。

若い人の葬儀にはそれがない。ただただ哀しく、居た堪れない。師長の御子息とは一面識もないが、それでも胸が苦しかった。まして家族、親戚、友人、知人の嘆きはいかばかりか。

他者の死に接して、自分の家族の大切さを改めて実感する。それは不謹慎、あるいは罰当たりなのかもしれないけれど、人の死に触れると、普段は当たり前に存在していると思っている家族の、掛け替えのなさというものをしみじみと感じてしまう。

人は死ぬ。遅かれ早かれ絶対死ぬ。誰かが死んで、自分が後悔するのも嫌だけれど、自分が死んで、誰かを後悔させるのも嫌だ。

会いたい人には会いに行こう。
話したい人には電話しよう。
いつか言おうと思っている感謝は、いま伝えよう。
謝りたいことは、いま謝ろう。
手をつなごう、抱きしめよう。
その人が明日の夜も絶対に生きているなんて、そんなの幻想なんだから。
それから、会いたいと言われたら都合つけよう。
電話がかかってきたら、面倒でも出て話そう。
ありがとうって言われたら、素直に受け取ろう。
ごめんねって言われたら、笑って許そう。
握手して、そしてやっぱり抱き合おう。
自分がもし急に死んでも、相手が後悔しないように。

メメント・モリ。
ラテン語で「死を忘れるな」という意味。人生は、時どき冷酷非情な方法で死を思い出させてくれる。

午後から降り出した死者を悼むような雨は、細く、冷たかった。

ヤクザに追われた女性の話

だいぶ前、まだ妻が看護師だったころ、同じ寮に住む同期の女の子から相談を受け、それがそのまま俺に回ってきた。内容は、お金を貸してほしいというもので、その理由は彼氏(?)に必要だとのこと。相談してきた女性と彼とのメールを見せてもらったところ……、やたら長文。ちなみに、ちょっと面白かったので、コピーさせてもらっておいたのだ。

わい(ブログ主註:お前のこと)、○○(地名)の人間やろ?
うちの若が、お前がしつこいメールしてきたせいで、警察に発信場取られて自宅にガサ入りされて捕まったんじゃ!! わいの家も病院もこっちは全部わかりよるけんな!! 今日行かせてもらうからまちよけや!! わけわからん行動とっても家も病院もわかっとるけん、どっちにしろさらいに行くけんな!! 
親父が捕まってる今、わいのせいで若まで捕まって、どうしてくれるんや!! 若の保釈金出せや!! 若に8万貸してたらしいやんけ、だけんがこっちは感謝して挨拶行こうとしてたのに、わいのせいで若捕まったやないかい!! 保釈金20万払えるとや? 無理やろが!! なら10万払えや!! 明日昼までに若の口座にいれろ!! 無理なら無理でメールしてこい!! 
警察やらに言うても、こっちは明日○○(地名)の人間だしてさらいに行くからな!! わいも若に関わってたから暴力団関係者として警察に出しとるからな、へんな真似してたら一生○○(県名)かえれんくしたるからな!! 若の携帯からやないと、わいにメールできないから、こっちからメールしたは!!
絶句した。そして苦笑した。それだけでは済まず、腹抱えて笑った。どう見ても、これは彼氏の自作自演。どうやら設定としては、彼氏(若。どこかの組の御曹司という設定)は彼女からのメールがしつこいせいで警察に居場所を知られて逮捕。組長はすでに逮捕されていて、若の保釈金さえ出ない。だから、半額の10万円で良いから出せよコノヤロー、ということみたい。なんでこんなの信じるのかなぁと思っていたら、二通目があった。一通目がビックリマーク全開のムチなら、二通目はちょっとアメ。
俺らもな、いま組の人間が何人も捕まっててパニクってるんけんがよ、お前が若助けたことも全部聞いてるし、こっちは感謝してるけんがよ。ただ今回若が捕まってしもうてこっちからしたら、組がつぶれるかつぶれないかの危機やしな? 若しか口座おろせないから保釈金もだせないしで焦っとるんや。
お前の出方によってはこっちもお前ばさらって、風俗でも何でも海外に売り飛ばして金作らせにいくぞ! お前はいい奴わかっとるけど今回のことは本当に許せないから、今日10万いれろ。そしたら若が出てきて責任もって俺が組の講座(原文ママ)からおろして、お前のとこに若ともっていくは(註「いくわ」だと思われる。原文ママ)。それでお前に20万わたして若と縁きらせたる。
若さえでてきたら親父も保釈金で出れるし組もつぶれないですむ。お前に何かあったら助けたる。
わかったや?
なんで10万円も用立てできないような奴が、強気に、
「何かあったら助けたる」
とか言えるんだよ!! いま読み返してもニヤニヤしてしまう。

しかし、脅されている彼女は本気で悩んでいた。彼とどういう関係だったのかは知らないが、過去にお金を貸していて、今回また変なことで金をだまし取られようとしていることは確か。あんまり俺には関係ないけれど、妻が相談された以上、俺も黙って見過ごすわけにはいかない。メールを見た俺は、脅されている彼女に言った。
「100%、嘘だね。なんなら、俺が警察のふりして電話してやろうか?」
ホッとする彼女。

かと思いきや、彼女は怒った。怒鳴り散らすということはなかったけれど、物凄く不愉快になったみたいで、「もう良いです!」と言って帰って行った。俺はポカーンとしたが、妻は苦笑いしていた。そんなやり取りで、女心だなぁと思ったのだった。現実を突きつけられるより、騙されているほうが幸せだって時があるんだよね、きっと。

その後、若が出所できたかどうか定かではない。

たそがれ清兵衛

たそがれ清兵衛
やたらと評価の高い本だが、とりたてて歴史小説が好きなわけではない俺からしたら、そんなに高評価をつけたくなるような本ではない。決して退屈ではないが、熱を入れて読み耽るという感じではなかった。

2012年4月9日

頭の体操クイズの弊害!?

『平成教育委員会』をはじめとして、テレビでもネットでも頭の体操のようなクイズが流行っている。結構おもしろいので好きなのだが、ちょっとした弊害、というのは言い過ぎだが、ちょっと困ったことになっている人がいることも確かだ。

知能検査、いわゆるIQを調べるときに、

「蝶と樹木の共通点は?」

といった問いがある。これをやたら一生懸命にひねって考える人がいる(実は従弟である……)。なにも深く考える必要はなく「どちらも生物」くらいで良いのだが、なぜかその答えが出てこない。どこかに「ひっかけ」があると用心している。「あぁ!!」と手を打って納得するような答えが用意されていると思い込んでいる。そんなトンチめいたものはIQテストでは求められていない。「素直に考えて」と言えば言うほど、文字の形に注目したり、漢字の画数にとらわれたり……、もうドツボにはまりすぎ。

今日、以下のようなクイズがネットで話題になった。
『就学前の子どもなら5~10分で、プログラマーは1時間で解ける問題』

8809 = 6
7111 = 0
2172 = 0
6666 = 4
1111 = 0
3213 = 0
7662 = 2
9312 = 1
0000 = 4
2222 = 0
3333 = 0
5555 = 0
8193 = 3
8096 = 5
7777 = 0
9999 = 4
7756 = 1
6855 = 3
9881 = 5
5531 = 0

のとき

2581 = ?

正解はネットで検索してもらうとして、クイズに対する反応が面白かった。
ツイッターでは、

「○分で解けました」

といったコメントがとにかく多いのだ。そして、それだけだと自慢ぽいと思うのか、

「○分で解けた自分は、幼稚園生なみの頭脳なのか……」

一応の謙遜を付け加える。でも、そこは正直に「褒めて欲しい、認めて欲しい」と言えばいいのにね、なんて思ってしまう。実際、パッと分かった人は凄い。だから変な謙遜せずに胸張って欲しい。

ちなみに俺はどうしたかというと、1分くらい考えてネットで検索した。

テレビは複数の器官を同時に刺激する

テレビ番組を見る時間は少ないが、映画は時々観るので、テレビ自体の稼働時間はわりと長い。テレビをつけない時間は何をしているかというと、基本的には音楽をかけている。あまりテレビを見ない生活を続けていると、テレビの面白さがあまり分からなくなった。決して面白いわけでもないのに、つけるとだらだら見てしまう。テレビの恐ろしいのはここだ。どうでも良い番組でも、目が離せなくなるようにうまく作られている。

妻はどちらかというとテレビをつけるほうだ。彼女の面白いところは、音楽をかけていても、テレビの音声を消して映像だけは見れるようにするところ。特別にテレビを見たいわけではないらしい。おそらく、聴覚刺激以外に視覚刺激もないと嫌なのだろう。

ここまで書いてはたと思いついたのだが、テレビは視覚と聴覚を同時に刺激するから良いのかもしれない。テレビをつけないと気が済まない人というのは、多器官を同時に刺激されることに慣れてしまって、刺激がない、あるいは音楽などの聴覚刺激だけ、という状況に耐えきれないのかもしれない。

こう書いている自分も、過去にはテレビをつけていないと嫌だった。それなら映画でも良いかというとそうでもなさそうだ。テレビの前に2時間座ってストーリーを追うというのは、彼らの望む器官刺激とは違うのだ。家に帰ってから寝るまでテレビがついていないと気が済まない『テレビ依存症』の人たちは、番組の内容というよりは、純粋に視覚と聴覚の刺激だけが欲しいのだろう。

とまぁ、色々書いてはみたものの、 自分自身はというと、家の中で音楽が流れていないと嫌だし、かといって音楽だけ聴いていることもできずに、たいていはネットをしながら音楽を流していて、これはこれで、複数器官の同時刺激である。結局のところ、現代社会は刺激が多すぎて、単器官の刺激では物足りなくなった人たちで溢れているということかもしれない。

2012年4月8日

絵になる二人

Willway_ER

死ねばいいのに

死ねばいいのに
強烈なタイトルなので、どんな本なのかちょっと不安に思いながらも読み始めてみると、あらら面白い。結末はなんとなく予想していた通りだったが、それよりも途中での会話が良かった。全体を通して心情と会話のみで進行するのだが、それでこれだけ読ませるというのはやっぱり凄い。

読むのを躊躇ってしまいそうなタイトルだが、一読の価値はあり。

2012年4月7日

311を撮る

311を撮る

映画は観られそうにないが、読んでおかないといけないと思って買った。映画は被災地を撮るというよりは、「被災地を撮っている自分たちを撮る」というような趣きのようだ。これはオウム真理教の信者に迫った映画『A』以来、森達也が問い続けている『撮って編集して放送するマスコミの中の自分たちとは』というところに通じている。

森の本を読むのが好きな俺としては、彼の担当した文章が少なくてちょっと残念ではあったが、この映画を撮った他のメンバーの談話も充分に面白かった。

2012年4月6日

子育ての倫理学―少年犯罪の深層から考える

子育ての倫理学―少年犯罪の深層から考える (丸善ライブラリー)

この本、前半の方では「タイトルに偽りあり」という感じ。倫理学というより、子育てに関する加藤先生の知見を記したという印象。加藤先生と言えば倫理学、というイメージがあるせいか、なんでもかんでも「○○の倫理学」と付ければ良いってもんじゃない。ただ、内容は良かった。中盤から後半にかけて、ようやく倫理学にまつわる話が出てくる。倫理学に関係するかどうかはさておいて、興味深かった部分をいくつか引用する。

1996年、子どもの家庭内暴力を無抵抗でしのいできた父親が、ある日、金属バットで息子を殺してしまうという事件があった。なぜ父親がずっと無抵抗であったのかについて、さまざまな考察が書いてあった。その中の一節。
「自分がこれほどの苦しみに耐えるならば、子どもに気持ちがつながり、何らかの良い結果が得られる」という苦しむものは救われるという希望の持ち方に問題がある。父母が苦しめば苦しむほど子どもが異常になっていくという連関が成り立ってもまだ苦しむことを持続しようとした父の意志には、苦しみへの依存がある。苦しみへの逃避がある。「自分がこんなに苦しんでいるのだから、必ず救いがあるはずだ」という逃避である。
精神科でも、「苦しみへの逃避」という状況は時どき目にする。それが良いか悪いかという話ではなく、そういうこともあるのが現実だ。自律を目標とした子育てについては、こんな一節が。
甘やかすと子どもに自立心がなくなるという考え方はまちがっている。甘やかさないと自立できないというのが真理である。
三歳(生後48ヶ月)までは、甘やかして育ててよい。甘やかすよりもあかちゃんをかまってやらずに放置しておくことの方が危険である。というのは母親への依存が自立の出発点だからである。子どもはまるで遠洋航海にでる船が母港に立ち寄るように、外洋と母港の間を往復しながら、少しずつ距離をのばしていく。母港に立ち寄ることは、距離を伸ばすことの必要条件である。
これは、我が家の飼い犬である太郎の成長を見ていても同じであった。距離を伸ばしては戻ってきて、しばらくするともう少し遠くまで行ってみる。この繰り返しで、安心して世界を広げていけるのであって、放置された子どもは安心感をもって自らの行動範囲を広げることができない。

学校教育に関しての一節。
子どもが道徳的に失敗した育ち方をしたので、学校で直してもらいたいと思うのはまちがいである。学校は道徳性の病院ではない。

少年法の厳罰化に関する議論に関して。
人権擁護という名目を掲げた甘やかしの文化が凶悪犯罪を生む温床なのだから、「人権派」を言論界から追放し、厳罰主義の徹底をはかるべきだという意見を述べる人のこころに、幼児的な攻撃性がないと言えるだろうか。「犯罪者にも権利があるといって犯罪者を甘やかすから、犯罪が増える」という意見を述べる人が、犯罪の予防に熱心な人ではなく、「犯罪を予防する見せしめの効果を強めるために厳罰にせよ」というのは口実で、実は隠れた攻撃性の現れに過ぎないことが多い。
これは自分自身も常日ごろ感じていたことであった。というのも、何か犯罪関係のニュースがあると、ネット上ではすぐに厳罰論が盛り上がり、「同等の痛みを与えよ」とか「死刑」とかいう言葉が軽々と飛び交うからだ。そのようなことを簡単に言う人が本当の意味での「善人」なのか、はなはだ疑わしい。むしろ、合法的な欲求のはけ口(例えば石打ちの刑など)が許された場合、自らの良心によってではなく、快楽を得る手段として刑罰に参加しそうだからだ。

『子育ての倫理学』と銘打ってはいるものの、実際には高度な育児書といった趣がある。倫理学の講義を期待して買うと、ちょっと肩すかしをくらうかもしれない、そんな本である。

2012年4月5日

『ブタがいた教室』 エゴイストな教師の児童虐待



映画の原作である本、


これのAmazonレビューを見ると、評価は賛否両論。

一時期、4本足のニワトリの絵を描いた子どもや、魚の切り身が海を泳いでいると思っている子どもが話題になった。「今の子どもたちは」というお定まりの結論になるのだが、テレビがこれだけ普及した現代社会で、4本足のニワトリを描く小学生はごく稀、そもそも本気ではなく、面白半分で描いたのかもしれない。そうでなければ、あとはその子の知的レベルの問題だ。今の世の中で、いわゆる「普通」の小学生が、4本足のニワトリを描くことはありえない。魚の切り身が泳ぐと思っていた子どもも同じだ。悪ふざけで言ったことが騒動になった程度のことだろう。もし本気で切り身が泳いでいると思っている子どもなら、やはり知的な問題だ。ちなみに、4本足のニワトリに関しては、旭川医科大学の入試から社会問題になったようだ。

この教師が実際に児童にブタを飼わせたのは1990年から1992年。彼が上記のような「現代っ子の自然離れ」を意識していたことは確かだろうが、それ以上に強く意識していたこと、それは自らの野心達成ではないか。この飼いブタを殺して食べる授業(?)には、途中からテレビカメラが入った。そして、ドキュメンタリー番組が制作された。その流れを彼がどこまで予見していたかは分からないが、飼いブタを殺して食べることにテレビの密着取材が入ったことで、自分のやっていることが物議を醸す、もっと言えば、賛否両論あれども「お茶の間ウケする」ということを彼は確信しただろう。彼はその時25歳。現在、佛教大学教育学部の教授となっており、当時から野心家だっただろうことは想像に難くない。その野心達成のために児童らを利用した、というのは決して言い過ぎではなかろう。

そもそも、情がうつった動物を食べる、ということが、はたして「いのちの教育」と言えるだろうか。なにか大きな勘違いをしているのではないか。子どものころから一緒に育てられたライオンとブタが、成長しても仲良くしている映像を観たことがある。同種か異種かに関係なく、ライオンでさえもブタを仲間と認識したら食べないのだ。まして人間が、名前をつけて仲よくなったブタを殺して食べるなんて、それはもう野蛮行為だ。スーパーや食卓の肉が、もともとはどういう動物だったかを知ることは大切だが、それを実際に飼わせてみて、さらに食べさせてみる、という計画は、子どもたちに野蛮行為を強要する、ある種の児童虐待とさえ言える。だいたい、そんなことをしないと、命の大切さは教えられないものなのだろうか。そうだとしたら、この教師は、教師としての指導能力どころか、普通の大人として子どもになにかを教える能力さえ欠如している。実際には、この教師はこんなことしなくても命の大切さは教えられると分かっていて、ただ実験的にやってみたかったというところが本音ではないだろうか。どちらにしても、そういう人が教育学部の教授だなんて怖い。

最後に、超食糧危機になったら、俺は飼い犬の太郎を殺して食べるだろうか。あなたはペットを殺して食べるだろうか。逆に、ペットがあなたを殺して食べることはないとしても、力尽きて倒れたあなたの死体を、ペットが食べるだろうか。そういうことを考えてみるのは良いと思う。俺の意見としては、いざとなったら太郎を殺して食べるかもしれないし、逆に俺が先に死んだら、死体は食べても良いよ、太郎。

スリーデイズ

妻がいきなり殺人罪で逮捕される。無実の罪を訴える妻、しかしそれは認められず実刑判決。そこで夫は妻の脱獄を画策するの、という映画。全体的にはよくできていてハラハラしたし面白かった。だけど、なんだか納得いかない、気持ち悪い。それはなぜかを考えるので、以下はネタバレになる。

2012年4月4日

宿舎の怪談 キリキリカラカラ、ドンドンドン

後輩研修医の話。

引っ越した官舎は壁が薄く、時どき隣の住人の生活音が聞こえた。後輩には、特に気になる音があった。それは、隣人が毎日、同じ時間に体重計に乗ることだった。それもどうやら調子の悪いアナログ体重計のようで、キリキリカラカラという音が鳴るらしい。しかも、体重計に乗ったり降りたりしているようで、数分間ほどキリキリカラカラと鳴るのだとか。そして時どき、ドンドンという音もするらしく、
「体重計に乗り降りして、さらに運動までしているんですかねぇ」
酔っ払った顔で、後輩はそう言った。

後輩が、その音をどうして体重計と思ったのか、それは分からない。とにかく、後輩は酔った口調で、
「隣の人、なんで何回も体重計に乗るのか、変ですよね」
そう言った。すると、一緒に飲んでいた年配の看護師さんが、青ざめた顔で、
「先生の部屋って、○号室だよね。来たばっかりで知らないかもだけど、隣、空いてるよ」
後輩は笑いながら、
「じゃ、なんの音ですかね? 幽霊ですかね?」
そう言って酒を飲んでいた。看護師さんはまったく笑わず、
「先生の隣、前に看護師が自殺したのよ。首吊って」

どこにどう吊ったのかは分からない。ドアノブにかけたのか、天井にヒモをかける場所があったのか。一緒に飲んでいた数人で話し合った結果、もし音が幽霊のしわざだとしたら、キリキリカラカラという音は、縄が絞まったり緩んだりする時の音で、ドンドンというのは苦しくて床や壁を叩いている音じゃないのか、ということになった。

後輩は、涙目だった。

ゾンビの怖さは速さじゃない、数だ!

先日帰省したら、弟とゾンビ談義、いや、討論にまでなってしまった。 弟曰く、
「走るゾンビを見ちゃったら、ノロノロ動くゾンビなんて怖くねぇよ」
そして、面白かった映画をいくつか挙げる。おいちょっと待て、そんなの怖くもなんともないよ、というのも数本。

まだ弟はゾンビの怖さを分かっていないようだ。ゆっくり動くから逃げられる、それくらいにしか思っていない。よし、それじゃ今からシミュレーションだ。

背後に一匹のゾンビ。わぁヤバい!! 走って逃げる、余裕で引き離す、もう一安心。と思ったら、うわぁ次のゾンビがそこにいる!! ということで走って逃げる、余裕で引き離す、もう一安s……、またいるし!! と、数時間以上走り続けなければいけないのが、リアルなゾンビ世界。いや、もしかしたら数時間では済まないかも……。

ゾンビ一匹と対戦して負ける奴なんていない。しかし、そこを数の暴力で抑え込まれるのがゾンビ映画の怖いところ。これは暗に現代の多数決社会を皮肉ってもいるのだが、そこに気づいた人いたら挙手。

そういうわけで、弟とはゾンビ映画に関する趣味が違い過ぎるという話。

2012年4月3日

寝たきり婆あ猛語録

寝たきり婆あ猛語録

日本の在宅介護の大変さは分かる。作者の言いたいことも充分に伝わる。しかし、である。ここまで知識も考察力も文章力もある人でも、事態が自分たちのことになると、アレレな患者家族となり、社会背景を無視して病院を悪しざまに言ってしまうところが不思議だ。例えば、こんな話があった。在宅介護されているのは骨粗鬆症で腰椎の圧迫骨折を患った母。4、5日様子を見たが、寝返りも打てなくなって病院に電話して受診後に入院。
整形外科の医者が明日くるまでは詳しいことは分かりません、と宿直の医師がレントゲンを見ながら言う。
これ、翌日の受診じゃダメだったのか? 確かに、母の腰が痛いのは分かる。しかし、なぜ宿直の時間帯に受診する? 我慢して一日待てとは言わない。一日早く昼間に受診しておけば良いのだ。こういうことをしておいて、
(退院後)座薬が全然効かなくなった。となれば入院して痛みどめの注射を打ってもらうしかないが、もう入院はこりごりだと言う。骨粗鬆症は病気だと思ってないのか、治療ができないため儲からないからか、医者は実に冷淡な扱いをするのも事実である。
とまぁ、こんなことを書く。病院は治療をするところである。治療することがないのに入院をさせたら、それは医療ではなく福祉であり介護である。そうやって治療のゴールがないままに福祉・介護的な入院(社会的入院)が増えていった結果、本当に治療が必要な人たちに対して病院側が「ベッドが一杯です」と頭を下げるか、社会的入院の患者や家族に対して「申し訳ないですが、退院を……」と切りださないといけなくなる。そもそも、入院はこりごりだと言っているのは母親なのだ。「医者は実に冷淡」という話とは全く別問題である。作者は介護の辛さや不平を病院や医師への不満にすり替えている。

作者の思い込み、一人突っ走った記述は医療関係以外にもある。
母も私も結婚して子を産んだけれど、一人前になれたとはとても思えない。それは一人前になる努力を怠ったからではなく、母が腰が抜けるほど働いても、私が真面目に会社勤めをしても、社会が一人前として認めてくれなかったからだ。現在も公務員以外は女は男の賃金の六割、パートタイマーだと四分の一で、女は半人前かそれ以下なのである。
言いたいことは分かるが、下線部は言い過ぎだ。1996年出版当時、公務員以外の仕事が全部「女は男の賃金の6割」なんてことなかろう。「パートだと四分の一」に関しては、フルタイムで働く方が賃金が高いのは当然だし。作者の女性としての個人的恨みから大げさな表現になっているとしか思えない。

作者は実の母から虐待を受けていたようだ。そして作者自身が気づいているかどうか分からないが、現在の母にまつわる文章から、作者と母との間に共依存関係ができていることが分かる。

女性が中心となって支えることが暗黙の了解となっている日本の介護問題に光を当てたという点で、作者の功績は大きいと思うが、医療に関しても同じように勉強したうえで書いて欲しい。

最後に、面白かった部分を抜粋。
「こんな精進料理じゃ肉ばなれしちゃう。あたしゃ血の滴るようなステーキが食べたいね」友人の母上がつれあいの葬儀の席で叫んだという。母上はこのとき九十歳。これを受けた嫁さんのセリフも凄い。「あら、すみませんね。お義母様のときはそういたしますから」
本書をお勧めするなら、現在、在宅介護に疲れている人たちを対象にする。「あるある~、こんな不満ある~!!」そう思ったり言ったりしながら読んでストレス発散。

天切り松 闇がたり

正直に言おう。

泣いた。

天切り松 闇がたり 1

俺は浅田次郎がそんなに好きではない。それは、文中随所に出てくる読めない難しい漢字のせいだ。いわゆる「小難しい」というやつで、こういうのを多用する作家を俺は嫌いだ。朝田次郎はわりとそういう小難しい単語を押し出してくるので、あまり好きではなかった。

そんな俺が泣いたってお勧めするのだから、これはもう読んでちょうだい。

2012年4月2日

民家に男性のミイラ化遺体=同居の娘ら「まだ生きている」

民家に男性のミイラ化遺体=同居の娘ら「まだ生きている」-東京
2日午前10時ごろ、東京都小金井市本町の民家で、ミイラ化した男性の遺体を警視庁小金井署員が見つけた。遺体は死後数カ月以上が経過しており、同署はこの家に住んでいた男性医師(88)とみて詳しい状況を調べている。署員は「居住者の姿を見掛けない」と近隣から連絡を受け、民家に入った。
同署によると、同居する男性の61歳と58歳の娘は遺体について「まだ生きている」と話しているという。(2012/04/02 時事通信社)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2012040200951
年金目当てという意見が一番多いか。それから、気が狂っているという意見もわりとある。真実は分からない。

サル山の母ザルが、死んでミイラ化した子ザルを背負って放さないという映像があった。母ザルは時どき、自らの乳首にミイラになった子ザルの口を押しつけていた。これを見て涙ぐむ人は多いだろうが、気が狂っていると笑う人はほとんどいないはずだ。

上記ニュースの男性には点滴が刺さっていたらしい。誰がいつ処置したのだろう。まったくの空想に過ぎないが、同居の娘らがミイラ化した父の腕に点滴を刺す場面を想像すると悲しい。

『「生徒の暴言で教諭自殺」を公務災害と認定』というニュースについて

これはまず、ニュースの要約を読んでもらうことにする。
自殺した高校教諭の遺族が請求した公務災害の認定を認めなかった決定について、審査会が決定を覆したうえで、公務災害と認定する裁決をした。裁決は、生徒からの暴言などによる精神的ストレスが極めて大きかったとして、自殺との因果関係を認めた。
教諭は08年4月、校内でも荒れているとされるクラスの担任になった。生徒から暴言を浴びせられるなどして約1か月後にはうつ病などと診断され、09年3月に自殺した。
遺族から公務災害の認定請求を受けた県支部は10年12月、生徒からの暴言を認める一方、「それが重なって精神疾患を発症したとまでは認められない」とし、公務災害と認めなかった。しかし、遺族の審査請求を受け、審査会は「教諭は最も荒れた学級の担任を命じられた被害者。問題を起こす生徒との関わり方を模索し、日々苦悩していた」と判断、支部決定を覆した。
このニュースに対する反応を見ると、大まかに分けて二つ。「この教師が精神的に弱かった」というものと、「暴言を吐いた生徒は教師を死に追いやった十字架を背負え」というもの。俺はこのどちらも間違っていると思う。

うつ病による自殺は、「うつ病による自殺」以上でも以下でもない。だから、この教師が精神的に弱かったというのは、「癌にかかるのは体が弱いからだ」と言っているのと同じでバカバカしい。「自殺する前に仕事辞めるなどの方法があったのでは?」という意見もあるが、それは冷静に考えられる平常状態の意見であって、うつ病にかかってしまえばそんな風には考えられない。ましてうつ病になりやすい人は、一般的には「真面目で責任感が強い」と言われているので、そういうストレス回避手段はあまり思いつかない。

暴言を吐かれた人のすべてが自殺するわけではない。また、自殺した人のすべてが暴言を吐かれたり極度のストレスを受けていたりするわけでもない。自殺への一線を超えるかどうか、それは誰にも分からないのだ。自殺させないように気をつけながら真剣に向き合っている精神科医でさえ、その患者がある日突然に自殺して呆然となることがある。それくらい、ある人が自殺するかどうかなんて分からないものだ。

しかし、それを分かるものとして判断したのが今回の判決。労災認定のためには仕方がなかったという意見もあるが、その「労災認定のため」に、生徒らに十字架を負わせることは正しいのだろうか。もしその十字架を背負った生徒が、その重さに耐えかねて自殺した場合、今度はそのストレスを認定してくれるのだろうか。それとも「それは自業自得だ」と切って捨てるのだろうか。

敢えて、今回の件で誰かが槍玉に上がるとしたら、生徒ではなく職場の管理職ではないだろうか。それは「うつ状態を見抜けなかった」という理由ではあるが、上記したように精神科医にだって容易には見抜けないこともあるし、家族でさえ分からないのだから、職場の人が気づけなかったのを責めるのは酷だ。そもそも、自殺するほどのうつ病の人が、表向き元気を装うことさえあるのだから。

労災認定することに決して反対ではない。しかし、認定するための理由として生徒や同僚・上司など周囲を巻き込むことには断じて反対だ。ストレスは生徒からだけだったのか分からないし、自殺を見抜けなかったのは家族も同じなのだから、これは誰にも責任などない。あくまでも「うつ病による自殺」であって、それがどの範囲でどう補償されるかというところで議論を深めて欲しかった。

2009年に自殺した大分県立高校の男性教諭(当時30歳代)の遺族が請求した公務災害の認定を認めなかった地方公務員災害補償基金県支部の決定について、同支部審査会が決定を覆したうえで、公務災害と認定する裁決をしたことがわかった。3月27日付。

裁決は、生徒からの暴言などによる精神的ストレスが極めて大きかったとして、自殺との因果関係を認めた。同支部は近く認定手続きを行う見通し。同県高校教職員組合は「支部決定が覆るのは珍しい」としている。

組合によると、教諭は08年4月、校内でも荒れているとされるクラスの担任になった。生徒から暴言を浴びせられるなどして約1か月後にはうつ病などと診断され、09年3月に自殺した。

遺族から公務災害の認定請求を受けた県支部は10年12月、生徒からの暴言を認める一方、「それが重なって精神疾患を発症したとまでは認められない」とし、公務災害と認めなかった。

しかし、遺族の審査請求を受け、審査会は「教諭は最も荒れた学級の担任を命じられた被害者。問題を起こす生徒との関わり方を模索し、日々苦悩していた」と判断、支部決定を覆した。

(2012年4月1日 読売新聞)

彼女は嘘をついている

彼女は嘘をついている

痴漢冤罪は怖い。以前読んだ『お父さんはやってない』でも痴漢冤罪の怖さを感じたが、本書でも男なら誰もが他人事と思ってはいけないと感じた。ほんと、電車に乗る人は神経質すぎるくらいに気をつけないといけない。とんでもないことに巻き込まれてしまった後では、日本の司法制度ではなかなか潔白を認めてもらえないらしい。

中学から高校時代にかけて、弁護士になりたいと思っていた時期がある。今となっては、こういう歪な司法制度と関わる仕事を選ばなくて良かったと思うばかりだ。

ところで、本書での自称「被害者」の15歳女子高生、今は25歳くらいになっているはずだが、どんな大人になっているのだろうか。本書の内容を100%信じるとしたら、彼女はロクでもない人間に育っているんじゃないだろうか。いや、事件時点で人格に問題があったような気もする。あくまでも、本書だけからの想像にすぎないのだが。

とにかく怖い。そして、同時にイライラしてしまった。楽しんで読むような本ではない。

<参考>
99.86% 『お父さんはやってない』