2012年2月29日

ウォーキング・デッド

ゾンビ映画の名作はいくつかあるが、共通点は『ゾンビの怖さが中心ではない』ということ。どの映画も、一番怖くて厄介なのは人間同士の諍いだということを教えてくれる。そう、『ゾンビ』というのはあくまでも『最悪な世界』という舞台を用意してくれるに過ぎないのだ。そして、そんな状況下で人間たちが主導権争いをしたり、醜く罵り合ったり、時には美しく支え合ったり、華やかに自己犠牲で散ったり、そういうところを描くのがゾンビ映画の王道である。描き出す人間模様は基本的にワンパターンだから、舞台設定はゾンビじゃなくても良さそうなものだが、俺のようなゾンビファンにとっては、やはり人間模様を描くならゾンビ世界だ。

そういったわけで、ただ怖がらせようとしただけのゾンビ映画(吸血鬼映画も同じだが)は俺の中では駄作の位置づけになる。ゾンビという最高の(?)舞台を用意しておいて、そんな内容でどうするよ……、とがっくりきてしまう映画はけっこう多い。

やたらとゾンビ映画について自説を述べてしまったが、本題は今日観た『ウォーキング・デッド』についてである。これはアメリカのテレビドラマ(http://www.kadokawa-d.jp/lineup/walkingdead/)で、どうやら非常に評判が良いらしい。もう一年くらい前から気になってチェックしていた作品でもある。それがとうとうレンタル開始ということで、早速借りてみた。

感想(ネタバレはほぼなし)。

実に素晴らしい作品。ゾンビの設定としては定番のノロノロ系で、知性がなくて人間や動物を食べる。また、食べかけ(?)で生き延びた人間は感染してやがてはゾンビになってしまう。一匹(一人?)を相手にするのなら決して脅威ではないのだが、疲れ知らずの連中が集団で押し寄せてくるのだからたまらない。そして、そんな最悪の状況下で繰り広げられる人間たちのサバイバル生活。これまでのデパート立てこもり型ではなくアウトドア系で、安住の地を求めてさまようくらいのネタバレはしても良かろう。何が素晴らしいかって、1話が45分でそれがファーストシーズンだけで6話あるので、映画では描ききれない細かい部分まで手が届いているところ。映画でやろうとしたらスピード感がなくて退屈になるかもしれないけれど、45分一区切りだから間延びしない。

あまりの面白さに、思わず原作コミックを購入してしまった。



俺と同じようなゾンビファンには、超絶お勧めの本が3冊ある。

WORLD WAR Z

ゾンビをほぼ一掃した世界で、国の機関の調査員がいろいろな人にインタビューして「当時、いったい何があったのか、どう展開してゾンビを駆逐したのか」といったことを綿密にレポートした、という設定で、これがまた怖いのなんの。ゾンビはオーソドックスなノロノロ系で、感染するし、脳を破壊で活動停止。淡々と書かれるだけに、妙にリアリティがあって、読んでいる間は何度も夢に見たくらい。ゾンビファンなら一回は読んでおきたいところ。


死霊列車
タイトルと表紙が、どうも二流の海外小説を思わせるのだが、中身はけっこう怖いゾンビもの。こちらのゾンビは『28日後』のように走る。評判は賛否分かれているようだが、俺は文句なしでお勧めしたい。


アイアムアヒーロー

こちらは漫画。ゾンビファンにはたまらない面白さだと思う。


最後に、もう一回ドラマの話に戻る、といってももう内容には関係ないのだが、登場人物に「あれ? この人は……」という俳優がいて、調べてみたらやっぱりそうだった。ノーマン・リーダスは俺の好きな映画『処刑人』での主人公の一人だ。

2012年2月24日

本能の一つであり、人前で行なう『食事』にはマナーが発達した

人前にさらす本能で、代表的なものが食事。セックスは二人でするもの(基本形)だし、睡眠は一人だ。排尿、排便も基本的には一人だが、中国ではそうでもないし、一部の趣味の人たちはお互いに以下略。だから、セックスは互いに許せるルールがあれば良いし、睡眠にはマナーは必要ないし、排尿排便は以下略。

食事はお互いに見せ合う本能であるから、マナーが発達したのだろう。それはもちろん、時代ごとに違って良いと思う。電車での飲食に関してはよく分からないが、匂いが強烈なものを車内で食べるのはアウトな気がする。そう考えると、ほとんどの食品が匂いを発するのでアウトか。おにぎりやサンドイッチでさえ、少し敏感な嗅覚ならすぐ分かる。人前で食事をする時に、「自分は、人前で本能をさらしているのだ」という感覚を持つだけで、少しだけ態度が違ってくると思う。好きな人の食にまつわる行動を観察すると、相手の本能に関わる感覚が見えてくるのかもしれない。

どうでも良いが、ふと思ったこと。妊娠や出産の話題はみな楽しそうに隠さずに話す。しかし、その原因であるセックスの話題は少しヒソヒソになる。また、排尿排便の話題はヒソヒソ話す(いや、話題にも出さないか)が、その原因である食事に関してはテレビで特集も組まれるくらい大っぴら。原因と結果それぞれで、これほど扱いが違うのも面白い。

2012年2月23日

先生じゃないといやだ!!

ある高齢の男性患者から、内科や耳鼻科の相談をされた。つきそっていた家族が、
「そういうのは、内科で聞こう、耳鼻科に行こう」
と言うのだが、その患者さんは、
「先生じゃないといやだ。内科の先生はあてにならん、耳鼻科の先生は信用できん」
と、ちょっと興奮気味。自分としては、頼ってもらえて悪い気はしない。しかし、内科や耳鼻科に関しては、やはり専門外。苦笑する家族。診察を終えて帰り際、患者さんが一言。

「こんなふうにバカ話を笑ってできる先生なんか、おらんのじゃ!!」

あー、そっちかぁ。

これはズルい!! 元少年の死刑に反対=国民新・亀井氏

国民新党の亀井静香代表は22日の記者会見で、山口県光市で起きた母子殺害事件で元少年の死刑が確定することに関し、「どんな犯罪者の命であっても尊い命であることには変わりない。それを国家権力が奪うことは、私としては許し難い」と、反対する見解を示した。亀井氏は「死刑廃止を推進する議員連盟」の会長。2012/02/22-15:01)
彼が死刑に反対なのは良い。それは個人の思想信条だし、実際に亀井は『死刑廃止論』という本も出している。 しかし、この裁判の行方がマスコミを賑わせていた時、テレビはともかくネットでも亀井の姿を見た記憶がない。そんなにこの死刑判決を許し難く思っていて死刑に反対しているのなら、判決が出る前に騒ぎを起こせば良いのだ。彼ほどの影響力がある人間なら、さすがに判決を変えるまでには至らなくとも、マスコミや世論の風向きを微調整くらいはできたはずだ。しかし、亀井はそれをしなかった。

なぜか。

それは、亀井が、今この瞬間こそが最高のパフォーマンスのタイミングだと分かっているからだ。判決前に死刑に反対との自説を大きく喧伝すれば、同じ反対派からは称賛を浴びるかもしれない。だが、日本は死刑賛成派のほうが多いし、今回の事件は犯行内容も陰惨で被害者に同情する人たちもかなり多く、彼らの反発を買うのも避けたい。だから今なのだ。今なら、そこまで大きな反感もない。もう死刑は確定したのだから、ほとんどの人の溜飲は下がっている。語気強く「許し難い」などと強烈な言葉を使うことで、死刑反対派にはしっかり自分をアピールできる。
こんな記者会見、こすっからい老人の演芸場だよ。

昔から嫌いだが、ますます嫌悪感を募らせてしまった。

精神科医が読み解く女心

「嫌よ嫌よも好きのうち」なんて言葉もあるなど、恋愛シーンにおいて、女の子は本音と建前を使い分けることが多いようです。しかし、建前から本音を汲み取ることができていない男性は意外と多いのではないでしょうか。そこで今回は、『オトメスゴレン』女性読者へのアンケートを参考にした、「男性に察してほしい女の子の建前」をご紹介します。
【1】「デートコースはどこでもいいよ」(本音:私の好きそうな場所じゃないと嫌)

本当にどこでもいいのではなく、女の子が喜びそうな行き先の中なら「どこでもいい」という意味のようです。自分が行きたい場所を提案するのではなく、「キミは自然が多い場所が好きだから、A公園かB植物園はどう?」というように、女の子に合わせた候補地を挙げたうえで、最終決定を委ねるといいでしょう。

【2】「返事はいつでもいいからね」(本音:なるべく早く、そして必ず返事が欲しい)

男性に気を使った遠慮気味の発言を言葉通りに受け取って放ったらかしにするのはNGのようです。たとえいつでもいいと言われても、「今夜10時に必ず連絡する」など、具体的な時間を示すと女の子を安心させられるでしょう。

【3】「私、性格重視なの」(本音:それだけじゃなくて経済力も超大事)

「心の中では、『経済力の方が大事!』と叫んでる(笑)」(20代女性)という声もあるなど、実は経済力も備わっていることを期待している場合が大半のようです。「マジメな性格な人ほど、将来的に出世すると思うよ」など、性格の良さからくる将来性をアピールしてはいかがでしょうか。

【4】「大丈夫、任せて!」(本音:不安。手伝ってほしい...)

「職場で後輩の男の子などによく言ってしまう...」(40代女性)というように、立場上、本心を言えないケースもあるようです。女の子の苦労を見越して、「一緒の方が早く片付きますよ!」など自然な形で手助けすると、信頼も厚くなるでしょう。

【5】「仕事が楽しいから恋人がいなくても大丈夫」(本音:誰か頼りがいがある男性、私を支えて...)

独り身という寂しい状況を少しでも和らげるための一言のようです。決して「ホントに大丈夫?」などと言わず、「でも俺、◯◯さんのような強い女性ほど、支えたくなるんだよな...」というような女の子が本音を話しやすくなる一言をかけてあげましょう。

【6】「お金がないから、いつも自炊なの」(本音:私、料理うまいよ!)

「遠回しに料理が得意なことを自慢したいんです」(20代女性)というように、家庭的な面をアピールする発言のようです。高めのテンションで「それって、料理が得意ってことでしょ! スゴいなー!」などとストレートに褒めてあげると、女の子の気持ちは満たされるでしょう。

【7】「イケメンですねー!」(本音:あなたは普通の人)

「本当に好みの人はそんな軽々しく褒められないですから(笑)」(20代女性)というように、言葉を完全なるお世辞として使うこともあるようです。決してはしゃいだりせず、「そしたら世の中イケメンだらけになっちゃうな(笑)」など、スマートに受け流すと大人っぽい印象を与えられるでしょう。

【8】「また食事に誘ってねー」(本音:ご馳走してくれるならOK!!)

「『条件付きじゃないと行かないよ』とは言えませんから」(20代女性)というのが女の子の本心のようです。それを受け入れつつ、「今度は美味しいスイーツをご馳走するよ」などと高価すぎない食事の約束をすれば、懐の負担を減らしながら女の子との関係を深められるでしょう。

【9】「私、こんな性格だからモテないのかもね」(本音:こんな良い女なんだからほっとけないでしょ!)

「『全然そんなことないよ』という一言が欲しくて言ってます」(30代女性)というように、実は男性の恋心をかき立てようとする一言のようです。間髪入れずに、「こんな素敵な女性を放っとく人はいないよ!」と女の子の希望通りの発言をすれば、一気に恋愛モードに突入するのではないでしょうか。
男性に察してほしい女の子の建前9パターン

適当な解釈ばかりつけおって。まったくなっておらんではないか。

2012年2月22日

『小中学生の留年検討』 まとめ(長文)

大阪の橋下市長が小中学生での留年を検討、という見出しのニュースがあった。この橋下市長の提案に思った以上に反対意見が多いのには驚いた。もう少し賛成が多いかと思っていたが……。

留年で子どもの自信が奪われる、落ちこぼれの烙印が押される、いじめられる、という意見が多かった。そういう人に聞いてみたいのだが、小学校一年生で足し算も引き算も理解できず、読み書きも怪しいけれど、エスカレーター式に二年生になったという場合、その子は二年生の勉強が分かるだろうか。きっと分からない。そのまま三年生になって、四年生になって、学年が進むごとに勉強は高度になる、でもそこで必要になる基礎がまったく分かっていない。そうするとどうなるだろう。そのままみんなと一緒に中学生になれたことで、自信を失うこともなく元気に成長できたとして、それからどうするのだろう。高校は最底辺のところにも進学できず、友だちはみんな進学し、そんな友人らとは疎遠になってしまい、なんとなく持っていたはずの自信も崩れ去る。

と、これは極端にしても、この留年制度は要するに、
「次の学年で学ぶのに必要な学力だけは身につけようね」
ということであって、受験のようにみんなで競争させて上から90%を進級させて、残りの10%を落とそうというものではないはずだ。そう、決して競争を煽るような制度ではないのだ。そこをしっかり分かっていないと、変な方向に話が進む。

この記事に対して反対意見の日記を書いている人は、
「自分も学力は低かったけれど」
と、きちんとした文章を書いている人が大半。そういう人は、確かに学力は低かったかもしれないけれど、ここで問題になっている留年の対象にはならない。インターネットを駆使して、ニュースが読めて、それだけの文章が書ければ問題はない。ここで、援助する側とされる側とに分けて考える。留年対象者は援助される側になる。学校や親は当然援助する側だが、一緒のクラスの留年対象にならない子どもたちや我々も援助する側である。ネットの中で「留年制度反対」と言っている人たちは、すべて援助する側に入ることになる。援助する側とされる側の感覚の差というのは、お互いに感じ取るのが難しい。例えば医師が「この患者は絶対に入院が必要」と思っても、「どうあっても入院しない」と拒否する人たちがいる一方で、「退院して社会生活のほうが幸せだ」と勧めても「病院が好き、病院にいたい」という人たちもいる。援助する側される側で互いにすり合わせるのも大事なんだけれど、時には相手のためを思って入院も退院も強行することがある。

留年の話に戻ると、留年した子どもの「自信が失われる」とか「心に傷をつける」とか言うけれど、それはあくまでも自分たちは留年対象ではない人たちが「留年者はこう思うんじゃないだろうか、こんな立場になるだろう」という想像で語っているに過ぎない。そこで、想像ではなくて今現在ある状況を見てみると、小学校の一年生でつまずいたまま、引きずられるように進級させられて、授業の中身はさっぱり分からないから面白くもない、家族や友人からは「頭が悪い」と直接・間接に揶揄されながら、そのまま心の中をすり傷だらけにして、ようやく義務教育を終えて解放されて、「もう勉強なんて御免だ、高校なんて行ってたまるか」という人が、実は結構たくさんいる。これを読んでいる人の周りにも、似たような人がいたはずである。そういう人たちを、まだ始まりの段階でセーフティ・ネットに引っ掛けるための留年制度なのだ。最低限わかっておいて欲しいことや知っていないと将来その人が損をすることを、学年が進む前に身につけてもらうために留年をさせるということ。

「いくら勉強してもできない子もいるのに」という意見もあったけれど、「だからみんなと一緒に進級させるべき」というのではマズい。いくら勉強しても、というのは、たとえば数年勉強しても足し算すら分からないということだ。そこまででもない子は「いくら勉強してもできない子」とは言わない。いくらやっても足し算も引き算も理解できない子は、本来であれば特別支援学級などで行なわれる「療育」を必要とする。国語も算数も成績が悪すぎるという子が、人づきあいや社会のルールだけは人並みにやれるということはない。もしあったとしたら、それはご両親の熱意ある療育の賜物だ。そして、そこまでやれる親はそう多くはいない。だから、うまく生きることを教えるような療育などが必要になる。普通の学級でそこまで期待してはいけない。療育というのは技術的に非常に高度で、ストレスも大きいからだ。

留年制度に反対の人は、この留年制度が単なる学力偏重主義ではない、というくらいは分かっておくべきだ。記事にも「目標レベルに達するまで面倒を見る」と書いてある。学力の底上げというと、なんだかえげつないのだが、個々人に合わせて最低限必要なことを身につけてもらい、最終的には「それなりの能力はあるはずなのに、どこの高校にも進学できないくらいの学力」の人を減らそう、ということだ。高校に「行かない」選択は誰でもできるが、行きたくても学力的に行けない、という人を減らすのだから意義がある。

「義務教育はエスカレーターで、高校から成績重視でいいじゃない。小中学校では、そこでしか学べないことを学ぶべき」という人もいるが、そういう方式だと高校に「行けない」人は相変わらず減らせないままだ。小学校一年生でつまずいた人が中学までエスカレーターで行ったら、高校進学なんてできないか、最底辺の高校に拾ってもらうかになる。小学校の段階で留年を設けて、最低限の知識を身につけさせれば、そういう人が少なくなる。ポイントはあくまでも「最低限」であって、なにも頭よくなれとか勉強しっかりしろとか成績をのばせとか偏差値あげろとか言っているわけではない。なぜか「学力偏重主義反対!」的な意見になって、「学校で身につけるべき社会性が失われる」と危惧する人もいるのだが、あくまでも最低限の知識を身につけさせるだけであってガリ勉を推奨しようというわけではないのだから、休み時間も夏休みも今まで通り、社会性を身につけるのを阻害する因子は何もない。

「留年したら一生落ちこぼれの烙印が押される」なんて人もいるが、では今現在、勉強ができないままエスカレーター式で中学までいって卒業して高校進学できなかった人には、何の烙印もないような社会だろうか。高校や大学では留年をよく見かけるが、彼らが社会に出て何らかの烙印を押されているだろうか。高校や大学の留年と一緒にするなという人もいるが、それはなぜだろうか。高校や大学での留年はそれなりに社会的に受け容れられているからだ、という理由なら、だったら小学校や中学校での留年も制度化されればいつか受け容れられるようになるとは思えないだろうか。むしろ、留年なんて気にすることないというような社会を作ろうというほうに気持ちを向かわせる方が建設的だ。いじめとか疎外とか烙印とかを問題視するなら、むしろ、留年した子も分け隔てなく接するようなクラスを目指すべきで、子どもはそれくらいの溶け込みやすさは持っていると思う。そんな柔軟性など子どもにはない、というのなら、どんな教育方式にしたってダメなものはダメだ。

「エスカレーターで進級して、できない子を支え合うクラス」
これは良いことを言っているようで、実は援助する側のエゴである。援助される側は、勉強が分からなくても学年だけは強制的に上げられる。基礎が分かっていないのに、それより高度な学問を押しつけられる。授業が面白いわけがない。身長は伸びていないのに大きな服を着せられるのに似ている。「小学生が留年なんてありえない!」と言う人は、10歳になったからこのサイズ、11歳だとこのサイズ、と体格を見ずに服を着せているようなもので、彼らが自分に合った服を着るチャンスを奪っている、とも言える。援助される側が「留年したくないよ」なんてまだ誰も言っていないのに。それに「うちの子は留年させてでも算数だけはできるようにさせたい」という親からも、学ばせる選択肢を奪っている。援助される側の視点に立つというのは難しくて、留年制度を導入することで果たして援助される側が喜ぶかどうか分からない。分からないけれど、少なくとも社会に出て損をしない程度の学力はつけさせる。そして、その制度を運用していく中で、小中学校での留年なんてたくさんいるし大したことがないという社会にする。そこまで行けば、副産物として、不登校になった子も安心して学校を休めるようになる。登校できるようになったらやり直そう、で済むから。でもこれはまた別の話。

mixi内でいろいろ議論した結果、思いついた折衷案が進級・留年を選択制にするというもの。分からないまま進級する・させるでも良いし、せめて最低限を分かるまで留年する・させるというのも可能。ただ、子どもはなかなか判断できないだろうから親が決めることにはなりそうで、そうすると、「うちは何年も学校に通わせる余裕はない」という理由で進級を選ぶ親も出てきて、学力の二極化に拍車をかけそうではある。また、科目ごとの留年というものがあっても良いのかもしれない。

小学校6年間で学んでほしいことを6年間で学び終えてもらうためにはどうしたらいいか。少なくとも今のままでは、つまずいて転んだまま引きずりまわされる子を減らすことはできないのだから、本気で留年制度の長所短所を考えながら、より良い方法を模索することは大切だと思う。

最後に、留年制度を導入するなら飛び級も併せて取り入れるべきだ、という意見についてだが、俺は飛び級に関してあまり賛成の立場ではない。アメリカのように、12歳で大学生、というのは心理発達的にあまり良くない。飛び級を導入するにしても、小学生のうちはせいぜい2学年が限度かなと思っている。10歳で中学2年生というのはまずい。これはギャングエイジ(10歳前後)という成長発達の段階が非常に大切だと思うからである。
大阪市の橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委に指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科学省は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。

橋下市長は、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘。留年について弾力的に考えるよう伝えた。

文科省によると、学校教育法施行規則は、各学年の修了や卒業は児童生徒の平素の成績を評価して認定するよう定めており、校長の判断次第では留年も可能。外国籍の生徒で保護者が強く望んだ場合などに検討されることがあるという。

市教委も「学校長の判断で原級留置(留年)できる」としているが、実際は病気などで出席日数がゼロでも進級させているという。担当者は「昔は長期の病気欠席などでごくまれにあったと聞いているが、子供への精神的影響も大きい」と話している。

橋下市長は22日に予定されている教育委員との懇談で義務教育課程での留年について提案、意見を求める予定という。
(毎日新聞)
ちなみに、俺も中学校の数学でつまずいた一人である。入学したすぐのころ、妙に集中力がなくて、方程式の授業を完全に右から左という状態で数コマ過ごしてしまった。あとはもう、それから先の授業はさっぱり分からず、退屈だから空想に耽って、ますます分からなくなるという悪循環の状態だった。「2X=4」が解けないレベルだったのだ。幸いにも、俺の数学のノートを覗き見た母が俺のつまずきに気づいて、毎夜10時ころから1時間前後、俺の数学教師となってくれたおかげで、かろうじて追いついた。あの時、母が気づいていなかったら、俺は落ちこぼれていただろうし、今の俺もない。でも、もし母がいなくても留年制が存在していたら、今の俺に近いところにはいたはずである。こういうことは、本当につまずいた者にしか分からないことだと思う(「2X=4」が分からないって、けっこうひどいよね?)

<関連>
『橋下市長 小中学生の留年検討』に対する反応に一言

太郎

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今朝、とんでもない姿を見てしまった。なんと、オシッコのために後ろ足をあげて、ついでにウンチもしていたのだ。たぶん、オシッコ途中でウンチをしたくなったんだろうけれど、ヘンな姿勢なもんだから、あげてないほうの足に落ちたウンチがちょっとついた。エンガチョ・ビーグルである。

『橋下市長 小中学生の留年検討』に対する反応に一言

例によってmixiの日記をつらつら眺めるのが好きな俺は、このニュースで橋下市長への反対意見が多いのに驚いた。そこで、mixiにザッと書いた文章を、ここでもほぼそのままザッと載せる。


留年で子どもの自信が奪われる、落ちこぼれの烙印が押される、いじめられる、という日記が多い。そういう人に聞いてみたい。小学校一年生で足し算も引き算も満足にできず、読み書きも怪しいけれど二年生になりました、という場合、その子は二年生の勉強が分かるだろうか。分からないまま三年生になりました、そうするとどうなるだろう。そのまま中学校になりました。みんなと一緒で自信を失うこともなく元気に成長できました。で、それからどうする? 高校は最底辺のところにも進学できませんでした。友だちはみんな進学しています。そんな友人たちとは疎遠になってしまいました。なんとなく持っていたはずの自信も無意味でした。

と、これは極端にしても、要するに、
「次の学年で学ぶのに必要な学力は最低限、身につけてね」
ということであって、みんなで競争させて上から90%を進学させる、残りの10%を落ちこぼれじゃ、留年じゃ、なんていうことではないわけ。

この記事に対して反対意見の日記を書いている人には、
「ゥチも成績ゎ悪かったけど、今ゎリッパな社会人してるょ」
みたいな人はほとんどいなくて、
「自分も学力は低かったけれど」
と、きちんとした文章を書いている人が大半。そういう人は、確かに学力は低かったかもしれないけれど、ここでいう留年の対象にはならない。mixiに入会して、ニュースが読めて、それだけの文章が書ければ問題なし。

ただ、そうじゃない人もいるわけ。自信、とか、心の傷、とか言うけれど、小学校の一年生でつまずいたまま、引きずられるように進級させられて、学年が進むごとに頭が悪いバカだ小学生レベルだと言われながら、そのまま体中すり傷だらけでようやく義務教育を終えて解放される、という人が、
実はけっこうたくさんいる、実際に、周りに似たような人、いたでしょ? そういう人たちを、まだ始まりの段階でセーフティ・ネットに引っ掛けて、最低限わかっておいて欲しいこと、分かっていないと将来その人が損をすること、そういうことをキッチリ学んでおいてもらうために留年をさせるという制度だろうと思う。

「いくら勉強してもできない子もいるのに」
という意見もあったけれど、だからみんなと一緒に進級させるべき、というのはマズい。いくら勉強しても、というのは、たとえば数年勉強しても足し算も分からないということだ。そこまででもない子は「いくら勉強してもできない子」とは言わない。いくらやっても足し算も引き算も理解できない子は、
本来であれば特別支援学級などでの「療育」などを必要とする。mixi日記を書いている人が想像できないくらいに、とにかく国語も算数も成績が悪すぎるという子が、人づきあいや社会のルールだけはバッチリ、ということはない。もしあったとしたら、それはご両親の熱意ある療育の賜物だ。そして、そこまでやれる親はそう多くはいない。だから、うまく生きることを教える「療育」(のようなもの)が必要になる。普通の学級ではそんなことは専門的には教えない。

ザザッと書いたので、ツッコミどころはあるだろうけれど、この留年制度が単なる学力偏重主義での留年じゃないんだよ、というくらいは分かっておくべき。だって、ちゃんと読めば、
「目標レベルに達するまで面倒を見る」
きちんと、そう書いてあるじゃない。

<追記>
「義務教育はエスカレーターで、高校から成績重視でいいじゃない。小中学校では、そこでしか学べないことを学ばなきゃ」
という人もいたが、そういう方式だと高校に「行けない」人を減らせないでしょ。

小学校一年生でつまずいた人が中学までエスカレーターで行ったら、高校進学なんてできないか、最底辺の高校に拾ってもらうかになる。これが、義務教育の段階で留年を設けて、最低限の知識を身につけさせれば、そういう人が少なくなる。ここで勘違いする人は騒ぎ出すのだが、あくまでも「最低限」が大前提。なにも頭よくなれ勉強しっかりしろ成績のばせ偏差値あげろと言っているわけではないのだ。なぜか勘違いしている人たちは、こういう「学力偏重主義反対!」的な意見になっている。

留年したら一生落ちこぼれの烙印が押されるなんて人もいるが、では、勉強ができないままエスカレーター式で中学卒業した人には、何の烙印もないか? 高校ではちらほらある留年、大学では頻繁に見かける留年。彼らが社会に出て何らかの烙印があるか? 小学校で留年してイジメに発展するのなら、エスカレーターで成績悪い子もイジメにあうよ。

「エスカレーターで進級して、できない子を支え合うクラス」
これは、支える側のエゴ。支えられる側は、勉強が分からなくても学年だけは上げられる。身長が伸びないのに大きな服を着せられるのと同じで、不恰好だし、笑われるし、うまく動くこともできない。

いじめとか疎外とか烙印とかを問題視するなら、むしろ、留年した子も分け隔てなく接するようなクラスを目指すべきで、子どもってのはそれくらいの溶け込みやすさは持っていると思う。そんな柔軟性など子どもにはない、というのなら、どんな教育方式にしたってダメなものはダメだ。

最後に、留年制度を導入するなら飛び級も併せて取り入れるべきだ、という意見についてだが、俺は飛び級に関してあまり賛成の立場ではない。アメリカのように、12歳で大学生、というのは心理発達的にあまり良くない。飛び級を導入するにしても、小学生のうちはせいぜい2学年が限度かなと思っている。10歳で中学2年生というのはまずい。これはギャングエイジ(10歳前後)という成長発達の段階が非常に大切だと思うからである。

大阪市の橋下徹市長が、小中学生であっても目標の学力レベルに達しない場合は留年させるべきだとして、義務教育課程での留年を検討するよう市教委に指示していたことが分かった。法的には可能だが、文部科学省は年齢に応じた進級を基本としており、実際の例はほとんどないという。

橋下市長は、市教委幹部へのメールで「義務教育で本当に必要なのは、きちんと目標レベルに達するまで面倒を見ること」「留年は子供のため」などと指摘。留年について弾力的に考えるよう伝えた。

文科省によると、学校教育法施行規則は、各学年の修了や卒業は児童生徒の平素の成績を評価して認定するよう定めており、校長の判断次第では留年も可能。外国籍の生徒で保護者が強く望んだ場合などに検討されることがあるという。

市教委も「学校長の判断で原級留置(留年)できる」としているが、実際は病気などで出席日数がゼロでも進級させているという。担当者は「昔は長期の病気欠席などでごくまれにあったと聞いているが、子供への精神的影響も大きい」と話している。

橋下市長は22日に予定されている教育委員との懇談で義務教育課程での留年について提案、意見を求める予定という。
(毎日新聞)

元刑務官が明かす死刑のすべて

死刑絶対存置派である。だからこそ、死刑の冤罪だけは防がないといけないと思っている。日本の裁判では、もし起訴されたら99.86%有罪になってしまう。検察が、「こいつは罪を犯している」と確信したら起訴される、というわけではない。実際に罪を犯したかどうかはともかくとして、あくまでも、検察が、「こいつは有罪にできる」と思ったら起訴するのだ。数多くある証拠から自分たちに都合の良いものを取りあげて、逆に都合の悪い証拠は見なかったことにする。

トランプにブラックジャックというゲームがある。裏にしたカードを交互にひいていって、合計21を目指すのだ。22以上になったら、その時点で負けが決定。いかに21に近いかで勝負が決まる。検察のやっていることは、カードを表にして10枚集めて、その中にあるものを自由に組み合わせて「21」(有罪)に近づけるゲームだ。

試験に例えるなら、合格率99.86%。落ちたら恥だ。こうなってくると、検察は正義を守ることが仕事なんて甘いことは言ってられない。「いや、お前それ言い過ぎやろ」と思う人もいるだろうが、さぁどうだろうか。いつ自分が犯人扱いされて無実の罪で起訴されて、あげく有罪判決を言い渡されるか。


元刑務官が明かす死刑のすべて

それでも俺は死刑存置派だ。だからこの本を読んでおくべきだと思って読んだ。

日本で死刑を廃止して、かわりに終身刑を導入したらどうなるか。裁判官は終身刑判決を乱発。日本の刑務所は7万人収容でパンク状態。これが10万人、20万人と増える。刑務所の建設費は、千人収容の施設で100億円。毎年必要になる収容費が一人当たり60万円、1000人収容したら6億円。人件費が年間18億円。

だから死刑を残すべきだ、というわけではない。ただ、刑務所を造って維持するのには、これだけの金がかかるということだ。

死刑執行にも携わったことのある著者は、死刑存置に賛成、死刑執行に反対という立場。なるほど、良いとこどりのナイスアイデア。現場を知ったものにしか分からない苦悩を読んだ後では、この考えに納得できる。

自分が考えるいい機会になったが、本書を人に勧めるかどうかでいうとイマイチ。途中、著者の小説が挿入されているのだが、これがちょっとヒドい。内容そのものは面白いのだが、地の文の視点が定まらず、小説の作法がまったくできていないため、読んでいて非常に疲れた。


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彼女は、なぜ人を殺したのか

2012年2月21日

人生を変える出会いはバーで

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ふらりと入ったバーで、それまでの人生が大きく変わる。そんなことがないとも限らない。たとえば絶世の美女が一人さびしく飲んでいて、普段は見知らぬ女性に声をかける度胸もないくせに、なぜかその日は勇気をもって話しかけることができて、そうすると出身地が近かったり、趣味が同じだったり、お互いに恋人と辛い別れをしたばかりだったり、そういうことが二人の距離を近づけて、気がつけばお互いに少し飲み過ぎたようで、そろそろ帰るわ、送りましょうか、いえ近くだから、でも大丈夫ですか足もフラフラ、だいじょっ……、ほらやっぱり危ない送りますよ、それじゃお願いしようかな、そんなやり取りをして、少し寒い夜道を歩くうちに指先が触れて、ためらいがちに手をつないで、大胆に指を絡めるようになり、体を寄せ合うようになり、コーヒーでもどうかしら、いえさすがにそこまでは、良いじゃないのあがってよ、それじゃコーヒーだけ、なんて笑い合って、部屋に入ればコーヒーなんてどこへやら、どちらからともなく唇を寄せて、服を脱ぐのももどかしく抱き合ってもつれ合って、電気をつけないままの薄暗い中で彼女に誘われて寝室へ行き、倒れこむように、押し倒すように、あるいは押し倒されるかのようにベッドに飛び込んで、お互いに裸になってみたら、あれなんでしょコレはついてますね、はいついてます、なんて、そんなことだってないとは言い切れない。そんな妄想をしながらドアを開けた。カウンターの奥で、ヒゲの男が頭を下げて言った。
「閉店です」
ふらりと入ったバーで、あっけなく追い返されることもある。

2012年2月20日

認知症に効く!? トリゴネコーヒー

トリゴネコーヒーのことを知ったのは一年くらい前になる。当院の作業療法室に導入するか、あるいは外来で患者に勧めようかなとも考えているし、将来的に開業した場合には代理店契約でも結ばせてもらおうかとさえ思っている、そんなコーヒーだ。

澤井珈琲が製造していて、俺がこのコーヒーを知るきっかけになった本によると、「飲むと頭の中の靄がスーッと晴れる気がした」といった感想があったそうだ。アリセプトという抗認知症薬を飲んだ患者からも似たような感想を聞いたことがある。

ティーパック一つで2杯くらい入れれば、1杯100円もしない。薬を飲むより、ものは試しという感覚で始められるのも嬉しい。最近じいちゃんがボケてきた、あるいは、ばあちゃんがちょっと変、または自分がボケないように気をつけたい、そんな人たちにお勧めである。



また、このコーヒーを知るきっかけとなった本も紹介しておく。

幻想的な奇跡の一枚

ツイッターで紹介されていたグーグルマップの幻想的な一枚。
http://g.co/maps/tdxdu
これは本当にたまたま撮れたんだろうな。

全世界を探せば、似たような写真がいくつかあるのかもしれない。

2012年2月19日

サンクタム !緊急広告!

アバターのジェームズ・キャメロンがどうたらこうたら、とか言っているので、さぞかし素晴らしい映像が観れるのだろうと思って期待した映画。結果としては、いわゆるクソに近いものだった。

映像が凄かったのは最初の最初だけ。あとは低予算でもできそうな洞窟映画。おい誰がこの映画の映像が凄いなんて言ったんだよまったく。プンスカである、プンスカ。

まだ観ていない人は、もう観なくて良いと思う。レンタル料は安いから良いんだけれど、時間がもったいなかった。こんな映画を観るくらいなら、ここのブログでお勧めしている昔の映画を観るか、本でも読んだほうが絶対にマシだ。

というわけで、犠牲者が増える前に緊急にアップする次第である。

学生時代の小児科実習で、先生が激怒してみせた話

学生時代、小児科の実習でロールプレイをやった。指導のA先生が遺伝病の専門で、設定は「ダウン症の子を持つ父母が遺伝相談に来て、医師がそれに対応する。父母らは社員が十数名いる会社を営んでおり、いずれ息子に継がせたいと考えている」というもの。父親役にA先生がなり、母親役に実習班の女子、俺が医師役になってしまった。

いざロールプレイが始まってみると、このA先生がとにかく迫真の演技。
A先生 「うちの息子は治りますか!?」
俺 「いえ、先天性の異常ですから……」
「じゃ、普通高校には行けますか!?」
「正直なところ、なんとも言えません」
「会社を継がせたいんですよ!! できますよね!!」
「今後をみていかないと分かりませんが、楽観的には考えられません」
「原因は!? 原因はなんなんですか!?」
「それも分かりません……」
「はぁ!? じゃ、次の子どもに継がせれば……、次は大丈夫ですか!?」
「……、お父さんとお母さんの染色体検査をしても良いですか?」
「かまいませんよ、それで分かるなら。分かりますか?」
「なんとも言えません」
「……、それじゃ、検査してまた来月来ます」

と、こんな感じでいったん休憩。分かりませんを連発せざるを得なかった自分にちょっと落胆。勉強不足なのかなぁ……。

そこで、A先生から資料が配られた。染色体検査の結果で、それについて十五分ほど調べて第2セッション開始。染色体異常がどんなものだったか忘れたが、記憶を頼りに調べてみると、母親がロバートソン転座を持っているといった設定だった気がする。これは二番目の子どもにも染色体異常が起こるかもしれないというものだ。

A先生「で、原因は分かりましたか!?」
俺「はい……、お母さんの染色体が特殊なタイプだと分かりました」
「……」 (母親役をジロリとにらむ)
母親役の学生「先生、私のせいですか?」
俺「いえ、誰のせいということはありません」
母「でも、私の染色体に異常があったんですよね?」
俺「はい」
A「次の子どもは大丈夫なんですか?」
俺「実は、このタイプは次のお子さんも先天性の異常をもつ可能性があります」
A「絶対ですか!?」
俺「いえ、絶対ではありません」
A「どうすればいいんですか!?」
俺「……、一緒に考えていくしかありません」
A「……、そうですか……、先生、お願いします」

こうしてロールプレイが終了。背中も脇も汗ぐっしょり。

A先生の評価はけっこう良かった。分からないものは正直に「分かりません」というのが大事で、そこで下手に誤魔化したら、絶対に信用されなくなりますよ、ということだった。A先生は言う。
「先天性の病気は、原因が分からないこともたくさんある。僕だって、何から何まで知っているわけじゃない。その日は話だけ聞いて、分からないから調べておきますって答えることが多いんだよ」

あとで知ったのだが、第2セッションまで進んだ班は少なかったらしい。5年生での実習で、授業での勉強も一通り終えており、知識のないことが罪だという感じる時期だったのかもしれない。だから、知らないとも分からないとも言えず、A先生が演じる父親の信用を得られなかったようだ。また、実習という気持ちが抜けきらず、ロールプレイで演技する気恥ずかしさから、A先生の鬼気迫る質問に気圧されて、ちょっと困った笑顔になった学生もいたそうだ。これに対してA先生は、
「そんなにおかしいですか!? うちの息子のことは、笑うようなことですか!?」
と怒鳴り散らし、そのまま部屋から出て行ったらしい。そして戻ってきて、
「実際の相談の場では、こういうことになりますよ」
穏やかに、しかしピシャリと言ったそうだ。

いま思えば、俺が患者や家族に自信を持って「分かりません」と言い切るのは、この時のロールプレイでの経験が影響しているのかもしれない。

大統領!!

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プリースト

こういう吸血鬼ものの映画では、人間の悲しみや汚さ、愚かさといったものを根底に敷いて話を広げないと、ただのアクション映画になってしまうのだが、本作ではイイ線いっていたのに踏み込み不足で惜しい感じ。もう少し掘り下げて、伏線張ったり、人間のえげつなさを見せつけたりしたほうが良かった。

出だしはなかなか惹きつけられた。アニメを使ったオープニングは最近ではそう珍しくもないけれど、ちょっとラフなイラストで描かれる人類とバンパイアとの戦史が魅力的で、これからの展開に期待が持てそうな気がした。

可もなく不可もないような内容で、最後は続編を匂わせる終わり方だった。ネットでの評判も、やはり中途半端な60点前後。

2012年2月18日

文句なしの名作なのに絶版!! 『地に火を放つ者』

イエスの弟子トマスが主人公で、イエスとの出会いから、イエスが十字架に磔にされて復活するまでを トマス視点で描いた物語。


本作のイエスが、これまでに読んだ本でのイエス像とは違っていて、それがまたなんとも言えない魅力を醸し出している。酒好きで、女は抱くし、さらには男色さえも……。そして面白いのがイエスの言葉遣いとセリフ。自分を「おれ」と、イエスを信じる民衆を「あいつら」「こいつら」と呼ぶ。さらには、奇跡に湧きたつ人たちを冷ややかに見やる。「パンを出して崇められるのなら、パン屋が神になってしまう」と皮肉めいたことを言うなどは序の口。死んだ子どもを生き返らせた時などは、
歓喜の声を上げた群衆が、男(注:イエスのこと)の方に殺到した。使徒たちが前に出て群衆を抑えようとした。人並みに押されながら、男は不機嫌そうな顔つきをしていた。
「愚かなことだ。いま生き返った子供も、やがては年老いて死ぬ。こいつらは何を喜んでいるのだ」
とまぁ、終始こんな感じのイエスだが、その教えるところは奥深く、 クリスチャンでない俺も感心することが多かった。

聖書をほとんど知らない状態よりは、ほんの少しでも知識があるほうが楽しめる本だと思う。こんな名作が絶版なのは、さすがにキリスト教関係者からの抗議があったからなのか、と思っていたら、どうも版元が倒産してしまったかららしい。復刊を待ち望む声も多いようだ。

図書館にあったら、ぜひ手に取って欲しい一冊。

2012年2月17日

南の子供が夜いくところ

幻想世界の描き手・恒川光太郎の紡ぐ短編集。少しずつ話がリンクしていて面白い。また、『雷の季節の終わりに』の舞台となった「オン」という土地が一回だけサラッと出てくるところが良い。

南の子供が夜いくところ

恒川ワールドの楽しさは読んでみないと分からない。一冊読んだら別の本も読みたくなって、その次の本も面白くってまた次に、となった作家は、俺にとっては近年あまりいない。手放しで褒めまくっちゃう、そんな作家である。
もちろんお勧め。

2012年2月16日

二人のブーツ

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靴にまつわる好きな小話がある。
アフリカのある国に、靴下を製造販売するA社とB社がセールスマンを送り込んだ。数ヶ月の調査の後、それぞれのセールスマンが本社に報告を上げたが、まったく正反対の内容だった。
A社「見込みなし。この国の人たちは靴を履かない」
B社「見込みあり。この国の人たちはまだ靴を履いていない」

物ごとをどう捉えるかの良い教訓話だと思う。

竜が最後に帰る場所

いまイチオシの作家、恒川光太郎。

おそらく彼は幻想世界、パラレルワールドに憧れている。それと同時に、そんな異世界に足を踏み入れてしまい、そこから抜け出せなくなるということを恐れてもいる。だから彼の描く異世界は、とても魅力的で、そして怖い。醜い者たちがうごめくこともある世界なのに、どこか儚くて美しくも見える。

一部で恒川ワールドと称されるこの世界観にハマる人は、恒川氏と同じく、どこか遠くの幻想的な世界に憧れつつ、そんな世界に対する畏怖も持っている人だと思う。まさに、俺がそうだ。

竜が最後に帰る場所


短編集である本作は、他の恒川作品と比べたら異世界色があまり感じられなかったので、ちょっと肩すかしを喰らった感がある。とはいえどれも面白かった。中でも『夜行(やぎょう)の冬』は、他の短編と違って恒川ワールドの真骨頂が発揮された物語だった。

2012年2月15日

雨あがり

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雨あがりの夜は、ちょっと素敵だ。

経済学部に通っていたころ、友人が女の子に可愛らしい傘をプレゼントしていた。
「雨が大嫌いだっていうからさ、雨の日に少しでも笑顔になって欲しくて」
そんなちょっとキザなところのある彼とは、大学を卒業してしばらく疎遠になった。30歳すぎたころ、友人の結婚式で再会した彼は、とんでもなくハゲちゃびんになっていた。そんな彼に、俺はコンビニで傘をプレゼントした。
「雨は嫌いじゃないかもだけどさ、ほら、これで、酸性雨を防げよ」

雨あがりの夜は、ちょっと素敵だ。

脳と人間 大人のための精神病理学


文語と口語が独特に入り混じって読みにくいことこの上ない。さらに、時どき自らの社会批判的な意見まで入ってくるので、戸惑うことが多かった。最終的に、後半はうたた寝しながら斜め読みした。

よほど哲学とか脳科学とかに興味がないかぎりお勧めしない。

一般の人でも面白かろうと思う部分を抜粋。何かの参考にどうぞ。
「患者さんの気持ちを分かってあげる」のはマチガイ。「自分の気持ちは自分で表現しなさい。少しぐらいタドタドしくてもいいから」が正しい。代わりにやってあげるのもマチガイ。やれるようになったことは、自分でやる。それを、後ろで見守るのが正しい。まどろっこしくて、ジリジリしたら、患者の見てないところで足をジタバタさせてもいいから、絶対に手を出してはいけない。
看護婦さんがいないと、何一つできない人になったらおしまいだ。それっきり、精神病院から出られなくなる。
こういうことは、事新しく言い立てなくても皆「分かってる」ことなのだ。だがしかし、言うは易く、行うは難しとはこのことであることは、子育てを例にとれば分かるだろうか。「見てられないで、つい手を出してしまう」お母さんのいかに多いことか。

2012年2月14日

ゴディバ伝説

バレンタインデーも残り二時間。そこで、昔から好きなゴディバ伝説について書いておく。

伯爵夫人ゴディバは、コヴェントリーの町を重税から解放したいと願い、たびたび夫に対して減税を迫っていた。伯爵はいつも叱りつけて拒否していたが、それでもゴディバ夫人が粘るので、
「民衆の皆がいるまえで、裸で馬にまたがって乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったなら、お前の要求はかなえてやろう」
と言った。ゴディバ夫人は裸で馬に乗って町をまわったが、人々はゴディバ夫人への恩義を感じて、みな目を閉じたりそらしたりした。


ゴディバ夫人。

ただ一人、トムという男だけが、好奇心からかはたまた下心からか、ゴディバ夫人を盗み見た。以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった。
ということは、上の絵はトムが描いたのだろうか!?
いや、それはあり得ない。なぜなら、トムには天罰がくだって盲目にされたからである。裸を盗み見て盲目にされるというのは厳しい気もするが……、そういう伝説である。

バレンタインデーのツイート集

このブログをご覧になっている方の中には、ツイッターをやっていないという人もいらっしゃると思うので、そんな皆さんにバレンタインデーにちなんだ俺のツイートを、

チョコっとおすそ分け。


……。


すいません。


では、いきます。


誰にも知られないように心に秘めた恋心。解き放つのはこの日しかない。 どうして? だって、こんな想いを抱いてるって、バレたいんでー。
我ながら、くだらなくも素敵なツイートだと確信。

チョコ渡すなら、箱に「好きだ」と明治すること。 さぁ、バレンタインもあと6時間。盛りナガってまいりましょう!!
グリコを忘れていた。

チョコ食べて 今夜はカカを 寝かさない。 そんなダジャレ川柳を考えました。
この川柳には、mixiで友人から返歌が。
いつもとは 違う夜なの 生にして
下品なやり取りをするコンビなのだ。

そんなこんなのバレンタインデー。俺は義理チョコを5つと、妻のチタロウ氏から特大の板チョコと特大のマーブルチョコをもらった。基本的にチョコはあまり食べないので、チタロウ氏からもらったもの以外は女性研修医にあげた。ちなみに、男性研修医もいるのだが、彼は男だから病棟や外来からチョコをもらっていたのだ。チョコをあげた女性研修医の態度が素晴らしかったのでツイートした。
バレンタインでもらったチョコにブルーベリー入りがあって、俺は食べないから、それを研修医(女)にあげた。そしたら、「ありがとうございます」と言った後に、おずおずと「すごく美味しそう」と付け加えていた。こういう何気ない一言を添える人は、きっと繊細な気遣いのできる優しい人だと思う。
以上、脇の甘いスイートに、いやいやツイートに、苦々しい 顔をされそうな、そんなビター一文にもならないバレンタイン特集でした。

心理療法テクニックのススメ


ちょっと前に読んだ『セラピスト入門』のほうが良かった。

俺の師匠Y先生は、
「まずは困っていることがなくなれば良いんだよ」
という感じだった。その教え(?)を受け継いで、俺も何はともあれ状況が今より良くなればオッケーというスタンス。治療者が治そう治そうとするのは、治療者にも患者にもプレッシャーだよね。

2012年2月13日

ウクレレを観察するダンボー

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二人で協力してのぼって、





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穴をのぞきこむ。

たまらなく胸の痛む物語 『沈黙』

遠藤周作のキリスト教を題材とした小説。

俺の中で、キリスト教に興味を持ち始めたのは、マタイ受難曲の中の一曲『Erbarme dich mein Gott』から。

この曲の美しさから、マタイ受難曲というものを知った。さらに、それがイエスの最期を描いた劇であることも分かった。では、その劇の中で、この曲がどの場面かというと、一番弟子であるペテロがイエスを否認してしまう有名な場面である。

こうして、キリスト教への興味が徐々に強くなっていって、そこで出会ったのが、『イエスの生涯』(ブログ内レビュー)で、これは衝撃的だった。評判は良い本だが、一部には遠藤氏のイエス観は危険だという評価もあった。俺はむしろ、遠藤氏のイエス観、弟子たちへの眼差しが斬新で好きだ。
あまりに胸に迫る内容で、そのあとに映画『パッション』を観直した。

それからしばらくして読んだのが、『キリストの誕生』(ブログ内レビュー)で、これもまた魂が揺さぶられた。特に聖ポーロ(パウロ)の熱さに痺れた。パウロが題材の小説がないかと探したが見つけきれなかった。

さて、今回は、

『沈黙』

史実をもとにした小説である。こんな素晴らしい本を今まで読んでいなかったのか、とは思わなかった。この本には、いま出会わないと分からないものがたくさんあった。先に前述の二冊を読んでおいたのが非常に良かったし、自分の内的世界も今くらいに成長していないとダメだったと思う。

物語りで重要な役割を果たす転び切支丹(迫害を受けて棄教したキリスト教徒)のキチジローは、拷問や恫喝に負けて、すぐに踏み絵に足を乗せて棄教してしまう。時には同じ切支丹の仲間を売ることさえする。そんな卑怯で弱いキチジローだが、心の底からキリスト教を棄てるということができない。ロドリゴ司祭が捕らえられた後も、ずっとあとをついてくる。おそらく数年前までの俺なら、そんなキチジローのことが嫌で仕方がなかったはずだ。ロドリゴ司祭と一緒になって、キチジローを軽蔑していたにちがいない。だが、イエスとその弟子についての本を何冊か読んだ今、キチジローを一方的に非難する気にはなれない。

キチジローは訴える。
「俺は生まれつき弱か、心の弱か者には、殉教さえできぬ。どうすればよか」
ロドリゴ司祭は、キチジローをイスカリオテのユダと重ねていた。しかし著者の遠藤氏は、ユダに限らずペテロやその他の弟子たちもイエスを裏切ったことを知っている。知っていて、あえてロドリゴ司祭に一方的な見方をさせ続けたところがなんとも意味深く思える。

弱いキチジローは、イスカリオテのユダであり、ペテロであり、その他の弟子たちであり、そしてイエス以外の皆、つまり我々でもあるのだ。現代に生きる我々の中に、キチジローを真正面から指差して批難できる人が何人もいるとは思えない。だから、キチジローの叫びには胸が詰まる。
「俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの脚は痛か。痛かよォ。俺を弱か者に生まれさせておきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」
ロドリゴ司祭の苦悩より、キチジローの悪足掻きのほうに涙がにじむ。殉教していく強い者たちより、弱くて無様に転ぶキチジローに魂が強振する。強いことは良いことかもしれないが、だったら弱いことは悪いことなのだろうか。そんなことはないはずだ。

踏み絵に足を乗せるロドリゴ司祭の頭の中でイエスが語る。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。
これはロドリゴ司祭の頭の中で、彼の自己弁護のために都合よく浮かんだ考えかもしれないが、それでも、胸の奥に沁みこんでくるような、イエスのそんな優しさと迫力とが伝わってくる。

相変わらずクリスチャンになるつもりはさらさらない。しかし、イエスやペテロ、パウロ、イスカリオテのユダといった人物を中心とした聖書や、切支丹弾圧にまつわる物語には興味を魅かれるものがある。


冒頭の音楽はこのCDに収録されている。

2012年2月12日

カッコいい白衣が流行っているらしい、というニュースについて

病院で当直中、急患で叩き起こされたら……、

外科医は、パジャマのまま駆けつける。

内科医は、白衣を羽織って駆けつける。

精神科医は、顔を洗って寝癖を直して、白衣を羽織ってゆっくり参上。


さて、白衣の話だ。精神科では一時期「脱白衣運動」というのが流行ったようで、今の60歳前後の精神科医には白衣を着ない先生たちがいる。俺自身は白衣を着ないことには反対という立場だ。錯乱した患者は、いわば見ず知らずの外国に放り込まれたようなものだ。もしそうなったら、あなたならどうする?

まず助けてくれそうな人、例えば日本人ぽい顔を探したり、制服警官に頼ったりするはずだ。救助者の目印は分かりやすいほうが良い。幻覚妄想による恐怖に支配された人に、
「ほら、安心しろ、俺は医者だ、助けに来たぞ、任せておけば大丈夫だから力を抜け」
と、白衣を着た医師が声をかけてあげることで、まずは少しだけでも安心させる。ノンバーバル(非言語的)なメッセージとしての白衣なので、カッコよさにこだわりはない。

下記のニュースのようなカッコいい白衣は、若手が着ていることが多い。ただ、このニュースは誤解して伝えている部分がある。こうした新しい白衣は、なにもカッコよさだけを追求したわけではない。医師らにアンケートをとり、かなり機能を重視して作ってある。例えば、ポケットの数、形、大きさ、口の向きなどが、そこらの白衣とはぜんぜん違うようだ。だから、白衣に物を入れることの多い若手が着たがるのも頷ける話なのである。

以前、コネタで「白衣のセレクトショップ」なるお店の情報をお届けしたことがある。本物のお医者さんに向け、あらゆるブランドから集めたかっこいい白衣を販売する、一風変わったアパレルショップだった。

そして、今回も変わり種。2008年3月よりスタートしている「Classico(クラシコ)」は、「なぜかっこいい白衣がないのか?」という疑問から誕生した白衣限定のブランドである。コンセプトはズバリ、「かっこいい白衣を着よう」。

そんな同ブランドの商品展開には、大きく分けて2つの柱がある。まず、最大の売りは自分の体型に合った白衣を製作してくれるセミオーダー。一方で既製品の販売も行われているのだが、この場合は既製品に自分の名前やロゴマークなどの刺繍を入れて購入する人が多いそうだ。

そして、「Classico」にはこだわりがある。これは、同ブランドの白衣に共通した特徴とも言える。とにかく、シルエットが細身。テーラードの技術をベースに、注文を受けてから国内の工場で1着1着を縫製するという。明らかに、従来の大量生産型の白衣とは異なる製造方法が取られているようだ。
「細身でスタイル良くフィットするシルエットでも、動きやすい。そして着ると背筋が伸びるようなシルエットになるよう、パターンを引く時には試作品を何度も作って制作しています」(同ブランド・担当者)

カッコ良さを追求して出来上がる、スタイリッシュな白衣じゃないか。ここまで来ると、お医者さんしか着ないのは勿体無い気がするのだけど……。
「医師以外でも、研究者、教授、保健室の先生、アパレルのデザイナー、鞄の職人、時計の修理職人、バーテンダーなど、様々な職種の方にご購入いただくことがあります」(担当者)
何かを極める“匠”のような職業の人が、「Classico」の白衣を求めることが多いという。最近では、多くのおしゃれ理容師さんが白衣を購入して行った。

ちなみに同ブランドをオーダーする手段は、ホームページ(http://www.clasic.jp/)からのみ。ここで、私には一つだけ疑問が。衣服で最も重要な点は、個人的には“サイズ感”だと思っていて。実際に手に取ってみたいし、やっぱり買う前に試着はしてみたい。そういったことは、このブランドでは許されない?
「通常は、表参道の事務所に事前予約をすれば試着することができます。毎日、色々な方が来られますよ」(担当者)
そうですか、安心しました!

そんな「Classico」によるコレクションの中で、特に人気の白衣を教えていただきました!
「メンズでは、一番スタンダードな『クラシコテーラー』(税込み19,800円)が人気です。こちらは米国におけるIDA賞でも、メディカル部門で最優秀賞を受賞しています。レディスだと、最近では『クラシックコート』(税込み17,800円)です。ダブルブレストでエレガントな雰囲気ながら、誰でもおしゃれに似合ってしまうところが人気です」(担当者)
他にも、ドラマ『MR.BRAIN』で綾瀬はるかが着用していた『ヌードフィットドクターコート』(税込み16,800円)などが人気。実はこのブランド、『蜜の味』(フジテレビ)や『DOCTORS』(テレビ朝日)など、数々のドラマに衣装提供をしているという。もしかしたら気付かず、それらの白衣を我々は目にしているんだろうな……。

また、かっこいい白衣を着ることによる効果は確実にあるという。その辺りは、購入者からの反響に表れている。どのような声が寄せられているかは、以下をご覧ください!
「着るだけで仕事のときにめちゃめちゃテンションが上がる!」
「プレゼントとしてもらってとても嬉しかった!」
「患者さんやスタッフからかっこいいと言われた」
「初めて学生から写メを撮られた」
どうですか? ユニフォームがカッコ良ければ、自ずと士気も上がるに違いない。

「大きな病院の勤務医は基本的に白衣は支給されるのですが、それで満足できないドクターは自分でネットやカタログで購入をしています」(担当者)
なるほど。こちら側(患者側)の立場としても、キリッとしたお医者さんに診てもらった方が頼りがいがあるというか、安心感がある。

だからお医者さん、どんどんカッコ良くなってください!
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1328599488329.html?_p=3

太郎に「待て」を教え込む

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ガッツリと躾け上げられた犬も格好いいと思うが、多少はやんちゃなくらいで良いじゃないと思っていた。だから、よっぽどじゃないと太郎を怒らないようにしてきた。そんな甘い教育でも、「お座り」や短時間の「待て」くらいはできるし、物を投げて取ってこさせるのもできる。もう充分という気もしていたのだが、やはり気になるのが、「待て」で待てるのがあまりに短時間すぎること。ここはひとつ、バシッと教育してみるか。ちょうど2歳になるころだし、大人の世界を分からせるのも良いだろう。

というわけで、ご飯をあげるときに教育を開始した。短時間の「待て」は今まででもできるのだが、あくまでも短時間。我慢できなくなったらご飯に飛びかかってしまう。そこで厳しく叱れば良いのだが、ついつい黙認してきた俺も悪かった。よし、もはや容赦はしない。

俺は、太郎にとってのボス犬になるのだ。

そう決意して、ご飯を置いて「待て」を命じた。すると、ほんの一分もしないくらいで太郎がご飯に飛びかかろうとした。今こそボスの怒りの見せ場。これまで叩くことはしなかったし、これからもするつもりはない。俺はあくまでもボス犬なのだ。だから、噛みつく!!

といっても、実際に噛むわけにもいかず、背中の皮を引っ掴んでエサから離して引きずり倒し、「お前は誰の許可をもらってエサを食べようとしているんだバカモン」という感じで睨んだ。立ち上がらせて、背中を撫でてあげて、もう一回仕切り直し。

すると、あっという間に学んだ。俺がボスで、太郎は家来、という認識をしっかり持ったようだ。それから一週間も経っていないが、今のところ「待て」をさせるとかなり長時間がんばる。ただし吠える。ビーグル犬は『森の声楽家』と言われるくらいに声が大きいので、近くで吠えられると鼓膜が震える。

今日は吠え声のあまりのうるささに、太郎が吠えるのに合わせて俺も犬のマネをして「ウーッ」と唸ってみた。すると、太郎は座っている俺の足もとへスススッと身を寄せるようにしてやって来た。おまけに寝転がって腹まで見せるのだ。もう完全に主従関係を把握しているようである。


やはり、うちの太郎は当代随一の頭の良さなのだ。

(飼い主バカの手記より)

2012年2月11日

しつこいけれど、何度でも言う。「瓦礫はただのゴミじゃない」

もう散々、何度もあちこちで言ってきていることだけれど、改めて。

被災地の瓦礫の処理に時間がかかりすぎているという報道があるが、 アルバムを拾い集めたり、どこかに遺体がないかと探したりしていることも一因であると思う。 そして、大災害でも数日で瓦礫撤去が済む中国なんかより、こんな優しい撤去をする日本が好きだ。

瓦礫瓦礫って言うけどさ、もとは誰かの大切な持ち物なんだよね。
そこを忘れちゃいけない。
被災地に医療派遣されたときには、 ランドセルが落ちていた、女性もののバッグが流されていた、プーさんの人形があった、ピアノが転がっていた、マット・ディモン主演映画のコピーDVDが埋もれていた、「マリンピア 夕涼み会」と書かれた8ミリテープが野ざらしだった、空気を入れて膨らます飛行機が萎んで泥にまみれていた。

そこには。

ランドセルを背負っていた子がいる。デパートで悩んでバッグを選んだ女性がいる。プーさんのぬいぐるみを買ってもらって喜んだ人がいる。誰かが、一生懸命練習して、誰かのために演奏したこともあるピアノ。誰かが、これ面白いんだよなぁなんてコピーしたマット・ディモン。誰かが、8ミリビデオで撮った夕涼み会。誰かが、お土産にあげた飛行機。

しつこいけれど、もう一回言う。

瓦礫は、もとは誰かの大切な持ち物。
放射能云々の前に、感情的に簡単に「処理」できない部分もあるよ。

 政府が「復興の司令塔」と位置づける復興庁が10日発足した。

 がれき処理、高台移転、放射能汚染対策……。同庁が中心となって財源や人材を迅速に手当てするテーマは数多く、課題も山積している。

 仙台市内のオフィスビル13階に開設された宮城復興局。職員への訓示を終えた宮城県担当の郡和子復興政務官は10日午後、深刻な表情で「一番の課題は膨大な量のがれき処理」と語った。宮城県内のがれきは、環境省の推計で1569万トン。県内で出る一般ごみの19年分に相当する。

 特に深刻なのは推計616万トンの石巻市だ。岩手(475万トン)と福島(208万トン)両県のがれきの総量にも匹敵し、「仕分けだけでも1日1000人ほどが必要」(村井嘉浩・宮城県知事)。津波被害を受けた家屋の解体が進まず、1次仮置き場へ搬入できたのは1日時点で43%。復興庁に対する期待は高い。

 高台への集団移転もこれからだ。宮城県内では12市町の約170地区約1万8000戸が高台への移転を検討する。昨年12月末時点で、移転先として951ヘクタールの土地、事業費などで2兆円超の財源が必要との試算もある。同県気仙沼市の菅原茂市長は10日の記者会見で、国から自治体に交付される「復興交付金」の調整役を復興庁に期待しつつ、「『これは出来ません』では困る。『復興の同志』となって、一緒に問題を解決する存在になってもらいたい」と注文をつけた。
(2012年2月11日 読売新聞)

高校生が「死んでやる」といって飛び降りたというニュースを聞けば、真っ先にいじめを思い浮かべるのは分かるけれど……

高校一年生が、一緒にいた友人らに対して、
「死んでやる」
と言って、廊下の窓から飛び降りたそうだ。

このニュースに関するブログなどをたらーっと流し読みしていると、いじめによる自殺と断定したものが多すぎるのだが、そんな情報がどこかから出ているのか? それともただの思い込みによる決めつけか?

もちろん、いじめによる自殺の可能性もある。でも、それ以外の可能性もある。中にはインフルエンザ脳症やタミフルについて書いている人もいて、そういう風に視野を広げて考えてみるのが大事だ。精神錯乱や異常行動を引き起こす状況なんてたくさんある。

例えば、あくまでも可能性の一つとして、みんなで違法薬物をやっていたのかもしれない。それから、急性発症の精神病の可能性だってある。

研修医時代、こんなことがあった。

普通のサラリーマン。最近、どうも元気がない。それで職場の人が心配して近所の心療内科に連れて行った。彼はそこで薬をもらって、同僚と一緒に病院を出た。そのあと、彼はいきなり走り出した。同僚が追いかけたが、ぜんぜん追いつけない速さだ。
「ヤクザに追われている!」
と叫びながら彼は走り続け、近所の魚屋に入り込んで包丁を奪った。そこから先は、かなり華々しい自傷を行ない、どうにか取り押さえられて救急車で運ばれてきた。

さて、この状況でどう考えるか。

統合失調症の発症?

それはもちろん考える。しかし、やはり違法薬物も考えなくてはならないし、脳炎による異常行動もありうる。もしかしたら脳に腫瘍があるのかもしれないし、代謝異常が隠されているのかもしれない。他にも、異常行動や幻覚を起こす可能性のある状況はいろいろある。

そして、精神科で鑑別を考えるときにこれが一番大切なことだが、本当にヤクザに追われていたのかもしれない。にっちもさっちもいかなくなり、本当に死なないといけないくらい追いつめられていた可能性はあるのだ。精神科医なら、多少突飛なことでも、患者の言い分は否定せず可能性リストに入れておく。研修医時代だったので、そこまで頭はまわらなかったが。

可能性を一つしか思い浮かべずに治療することを、医者の世界では「決め打ち」という。決め打ちしてしまうと、他の可能性を示唆する症状やデータが見えなくなる。見えても無視したくなるし、自分の決め打ち診断を支持する症状やデータが大きく見える。結果として、誤診につながる。当然、誤治療となる。

冒頭のニュースに戻ると、初報の時点でいじめと断定するのが決め打ち。もう少し可能性を広く考えておいたほうが良いんじゃないかな。
10日午前8時55分頃、前橋市石関町、群馬県立前橋工業高校(松下繁一校長)で、校舎3階の窓から高校1年の男子生徒(16)が飛び降り、9メートル下のコンクリート地面に転落した。
前橋東署によると、男子生徒は市内の病院に搬送されたが、意識不明の重体。同署は自殺をはかったとみて原因を調べている。
同高によると、男子生徒は授業が始まる前に複数の友人と話していたところ、突然「死んでやる」と言って教室を飛び出し、廊下の窓から飛び降りたという。
同高の樋口高則副校長は、「いじめがあった様子はないが、これから詳しく調査する」と話している。
(2012年2月10日 読売新聞)

義理チョコを渡すときに気をつけたほうが良いこと

医師になって、看護師から義理チョコをもらう機会が増えた。俺の身の回りの看護師が図々しいのか、それとも世間の女性が全体的にそうなってきているのか、はたまたただの照れ隠しなのか知らないが、義理チョコを渡すときに、

「ホワイトデーは倍返しで良いですよ」

などと、野暮どころか、ちょっと失礼な、聞いていて不愉快になるような、そんな一言を申し添えるバカがいる。あえてもう一度言い切っておこう、バカだ。相手の懐に1万円をねじ込んで、来月2万円返せと言っているようなものだ。義理チョコを渡すときにそんなことを本気で言っているのなら救いようがないが、照れ隠しでも言わないほうが良い。

俺はもともとチョコなんて買って食べることはないのだから、義理チョコなどもらってお返しをしなきゃいけないのがただでさえ面倒で仕方がないのに、それに加えて「倍返し」などと言われた日には、チョコをもらって嬉しいなんて気持ちになるわけがない。ただ黙ってスッと渡して、義理ですよ、と言えばそれでよろしい。あとは言われなくても多少の色をつけて返す。それくらいのデリカシーはある。「倍返しで良いですよ」という、こちらにデリカシーを求めるというデリカシーのなさは下品だ。

ただし、である。これは重要なことなのだが、本気の告白を兼ねてのチョコの場合、こういう照れ隠しの一言はなんだか可愛らしい。だから、義理チョコでも相手に本気と思わせつつ「倍返しですよ」なんて可愛らしく言えれば、女性にとってはそれが一番良いのかもしれないが、そんな高等テクを持ち合わせているような人がはたしてどれくらいいるものなのか……。

せっかく義理チョコを用意するんだったら、渡すほうも貰うほうも気持ちよく、ちょっとハッピーになれるほうが良い。義理チョコを渡す準備をしている女性には、肝に銘じておいて欲しいことだ。

2012年2月10日

医療用語の便利さ、乱用の危うさ

抗精神病薬の副作用に「眼球上転」というものがある。「目が上につる感じ」がして、実際に患者の眼球は上に向いている。患者は眼球の動きに対抗して視線を真っ直ぐにしようとするので、観察すると眼球が上下にピクピク動いているように見えることがある。

自ら「“眼球上転”するから副作用止めをください」という人たちがいる。「眼球上転」という単語を知っていそうもない人たちが、そういう言葉を使うことに違和感があった。きっと、これまでの主治医やスタッフの誰かから「眼球上転」という言葉で説明されたのではなかろうか。

こういう用語は便利なときもあるが、ともすると乱用されがちなので気をつけなければならない。覚えやすい医学用語は、それを覚えること自体が副作用の引き金になりかねない。

だいこん

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2012年2月9日

悪魔の名前

悪魔は自分の名前を知られないようにするらしい。名前を知られるとパワーがなくなるからだ。魔術師は、悪魔の名前を知ることで相手を自分の従僕にすることができるのだ。これはなにも西洋の悪魔に限ったことではなく、日本の鬼や妖怪にも名前を知られると消えてしまうものがいる。

人間の心の中でも、同じようなことが言える。漠然とした不快な気持ちに「不安」「悲しみ」と名づけることで人の心が慰められることがある。誰かにさんざん愚痴ったあと、その人から「それは悲しいね」と声をかけられると、「そうかこれは悲しさだったのか」と、それだけでなにか癒されたような心持ちになる。また、心身の不調があってあれこれと思い悩み、病院へ行って病名がつくだけでホッとする、そんなこともある。

得体のしれないものの名前が分かることによって、あるいは名づけることによって、それらを自分に理解できる何かに変換して安心する。ずいぶん昔から行われてきたこの方法が、悪魔の名前とパワーの例えで表されているのかもしれない。

お食事中に失礼!!

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子どもはマイナー調がお好き?

きっかけは、ふと思いついたこんな疑問ツイートからだった。
♪チョコレートロッテ〜、と、♪チョコレートはメイジ、って、どちらも哀調を帯びてるよね。チョコレートって、どこかにそういうほろ苦さを思い出させる何かがあるのかな?
たいていの人が聞いたことあるはずのロッテと明治のCMソング 。
 
どちらも哀調を帯びた曲である。

このツイートに対して、@_PurpleBloomさんからこんな返事があった。
CMソング「海のやさい」も赤ちゃんが必ず振り向くといいますし、マイナー調の方が子供受けしたり、大人でも童心に訴えたりするからかもしれませんね。
なるほど、そう言われてみると、甥っ子2人が最近のうどんのCMにハマっていた。
ヒガシマルうどん

この曲にも、何とも言えない哀愁が漂っている。
そこで、甥っ子たちがこの曲にハマっていると返信すると、
なんと、甥っ子さん達もそうですか! なぜでしょうね、赤ちゃんが胎内にいるときのお母さんの心臓の鼓動がもしかしてマイナー調だからだったりして? ぃゃ、お母さんの鼓動音サンプル持ってないからわかんないですが
これを読んで、アッ、と思ったのだった。

女性は妊娠中にマタニティブルーといわれる憂うつな状態になるとことが多い。妻のチタロウ氏もマタニティブルーになっていた。これらを考えあわせて、『もしかしたら母体のマタニティブルーが胎児に影響を与えて、生まれた後もちょっと寂しいような哀しいような感じの環境のほうが落ち着くのかもしれない』と考えたのだが、そこで、いやむしろ逆のほうがあり得そうだぞ、というか面白いんじゃないかと思い至った。つまり、『胎児が寂しく哀しい感じが好きだから、母体がそれに合わせてブルーになるのではないだろうか』ということ。

胎教音楽というとモーツァルトが有名だが、モーツァルトの音楽はどちらかというとノーテンキで明るいものが多い。むしろもう少し哀調を帯びた曲(例えば……マタイ受難曲!?)のほうが胎児好みなのかもしれない。

2012年2月8日

少年讃歌

中学時代から、暗記するだけを求められる歴史という教科がまったく好きになれなかった。ある時期を境に、歴史の「流れ」というか、偶然の積み重ねによる運命めいたものを面白いと感じるようになり、司馬遼太郎の歴史小説を好んで読むようになった(それでも興味範囲は限られてはいるが)。

天正遣欧使節というのはどこかで習って知っていたが、その年代、時代背景、彼らの素性や年齢などは何も知らなかったが、今回、この小説を読んでいろいろと勉強になった。

本作は、四人の使節の従者としてローマへ行ったコンスタンチノ・ドラードを主人公・語り手として、使節団が体験したいろいろなことが描かれている。やらた細かいので、これはなにかの歴史的資料をもとに書いているのかと思ったほどである。

彼らの旅は8年という長きにわたるが、ローマに長く滞在したのかというとそういうわけではなく、当時は完全に風頼みの航海だったので、季節風を待って港で数ヶ月以上も滞在するなど往復するだけでとんでもなく時間がかかるし、そもそも難破する船だって多かったのだ。出発時にはキリスト教が栄えかけていた日本だが、出発してすぐに織田信長が殺され、帰国したときには豊臣秀吉が切支丹追放令を出しているという、なんだか悲しい運命だ。

歴史に興味がないなりに、千々石(ちぢわ)ミゲルだけは名前をしっかり覚えていたのだが、彼は出発時に13歳、8年の旅からの帰国時には21歳になっている。そんな長くて危険な旅を終えて帰国したミゲルは、最終的には棄教する。そんなミゲルが帰国前にクリスチアーノ・ドラードに語る場面がある。
ヨーロッパではもとより、モザンビケでもゴアの都でも、マラッカでもこのマカオでも、それらしき(奴隷にされた)日本人は一人も見かけたことがなかった。ぱあでれ(ブログ主註・司祭)方が隠したのだ。ぱあでれ方は、自分たちにとって不都合なもの、醜いもの、我等に疑念を抱かせるようなものはすべてひた隠しにして、好都合なもの、自ら誇りうるもの、我等を驚かせ、感嘆させるに足る美しいもの、見事なものばかりを見せたのだ。
多感な少年時代を海外で過ごし、なにかを感じながら育った彼の素直な視点だろうと思う。

少年讃歌

ヨーロッパに着いてからは、なんだか中だるみしたような感じがあったが、往復の航海部分は冒険小説みたいで面白かった。

2012年2月7日

みかん

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これはミカンを大きさごとに選り分ける機械。

まんじゅう

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クランベリーズ

以前からお勧めしているアイルランドのミュージシャン。
ドロレスの独特の歌声が特徴的で、たぶん多くの人が聞いたことがあるはず。

一番有名なのがこの曲だろう。
今でもいろいろな番組で使われる。



これも時どき使われているような気がする。


あまり知られていない曲でお勧めが、

歌詞はよく分からないが、反戦歌とのこと。
とにかく雰囲気がカッコいい。
海外では結構人気の曲らしい。


いずれも、
Stars-Best of 1992-02


このCDに収録されていて、Amazonなら送料込みで1000円以下だ。



麻薬から子どもたちを守れ、救い出せという歌。







キリストの誕生

前作『イエスの生涯』(ブログ内レビュー)と同じインパクトをもって、俺の魂を揺さぶった。

今回はイエスの死後、『キリスト教』がどのようにして形作られたかに焦点がある。ただ、俺の興味をもっとも引いたのが、ポーロ(聖パウロ)に関する記述。なんて熱い男なのだ。

もとはキリシタンを激しく迫害する側にあった人が、いったんキリスト教へ眼が開くと、今度は激しい弾圧に遭いながらも折れることなく前進し続けている。聖パウロが題材となった小説があったら読みたいと思った。


キリストの誕生

あまりの面白さに二日間で読み終えてしまった。

2012年2月6日

暴れている人の家族は、まず110番を!!

「夫が暴れている」と119番通報があったというニュース。警察官が駆けつけたところ、刃物で首を切っていたというから、これは刃物を持って暴れていたのかもしれない。刃物を持って取り乱す夫を見て、妻がとっさに「110番」ではなく「119番」へ連絡する、その気持ちは分からないでもない。

しかし、考えて欲しいのは、救急隊員はまったくの丸腰だということ。隊員からしたら、刃物を持った人に近づくのは相当に恐い。一方で、警察官はいざとなれば銃もある、警棒も持っている、一応の格闘訓練もやっているし、酔っ払いやチンピラといったたちの悪い相手と組みあった場数もそれなりにある。

少し前にも似たようなことを書いた。
家族が突然に興奮して暴れ出したら、救急車よりも先に警察へ通報をするべきだ
大切な家族のことだから警察ではなく病院、という気持ちはよく分かるが、救急隊員を含めた医療従事者は、暴れている人から一般市民を守るためにいるわけではない。まずは警察に安全を確保してもらうことを徹底してほしい。

今回の例では、119番センターの判断で警察官に出動要請したのかもしれない。そうだとしたら、非常にナイスな判断である。
横芝光町長:死亡…自ら首を切り入水か 千葉

6日午前1時25分ごろ、千葉県横芝光町の斉藤隆町長(47)の妻(48)から、「夫が暴れている」と119番があった。県警山武署員らが駆けつけ自宅近くの栗山川に入っていた町長を救出し病院に搬送したが、約2時間半後に死亡が確認された。首に15センチ程度の切り傷があり、大量出血していた。同署によると、家族は、町長が自ら刃物で首を切ったと話しているといい、同署は自殺を図った可能性があるとみて調べている。

同署によると、救急隊の到着時、斉藤町長は水深約1メートル程度の場所で父親(76)に支えられた状態で、救急隊員が2人を助け出したという。家族は「ここ数日、食欲がなく、悩んでいるようだった」と話しているという。

斉藤町長は同町議2期を経て10年4月、現職町長を破り、町長に初当選していた。自宅周辺でぶどう園を経営している。

同町は副町長を職務代理者とする準備を進めている。同町職員は「普段の穏やかな姿からは思い浮かばないことで、驚いて言葉が出ない」と話していた。【山縣章子、荻野公一】

毎日新聞 2012年2月6日

パッション ~描かれなかった部分の話~

キリストの受難を描いた映画『パッション』を観ての雑感を、前回はイスカリオテのユダを中心に書いたが、今回は枝葉部分。

キリスト教圏では有名な『さまよえるユダヤ人』という伝説がある。芥川龍之介も『さまよえる猶太人』という小説(?)を書いている。どういった伝説か、大ざっぱに書く。

死刑の判決を受けたイエスが、ゴルゴダの丘へ十字架を背負って歩き、その姿を群衆が野次馬根性で眺め、ある人は罵倒し、ある人は嘲笑っていた。そんな中に、道端に家のあるユダヤ人がいた。疲労困憊したイエスが、このユダヤ人の家の軒下で足を止めた時、彼はイエスに、
「早く行けよ」
そういう風なことを言った。イエスは、ユダヤ人の目をじっと見つめ、
「あなたが行けと言うなら行くが、私が帰ってくるまで待っていなさい」
そう呟いた。このユダヤ人は、イエスに見つめられて自らの罪を悟ったらしく、ひざまずき、イエスの足に口づけをしようとしたが、イエスはそのまま歩き去ってしまった。周囲にいた人たちは、このユダヤ人の行為もイエスをからかってのことだと勘違いして、イエスを嘲り笑うことをやめようとしなかった。彼は懺悔の念で、妻が立ち上がらせようとしてもなかなか立てなかった。そして、このユダヤ人は、イエスの帰りを待って、今も死ぬことなく世界をさまよっているという。

ちなみに、ここで言う「イエスの帰り」とは、磔けの後の復活ではなく、最後の審判のことらしい。芥川の小説は著作権切れで、ネット上にも全文があるので興味のある人は探すと良い。さすがに、『パッション』にそのシーンは出てこなかった。

余談ではあるが、イエスは十字架にかけられ、死んだかどうかを確かめるため最後に脇腹を槍で刺される。この時に槍で刺した兵の名前がロンギヌス。この名は、エヴァンゲリオン好きなら、知らない人はいないであろう。彼が使った槍が、ロンギヌスの槍である。イエスの体からこぼれた血液がロンギヌスの目に入り、それによってロンギヌスは白内障が治り、彼は改心し、後に洗礼を受けることになる。映画『パッション』では、血液が顔にかかるシーンはあったが、それで白内障が治るといった描写はなかった。

人生で大切なものと時間との関係

ある大学でこんな授業があったという。 

「クイズの時間です」
教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。そして、その壺に彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯ですか?」
教室中の学生が、「はい」と答えた。
「本当に?」
そう言って、教授は教壇の下からバケツに入った砂利を取り出した。そして砂利を壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。そして、もう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」
教室はしばし沈黙した。すると一人の学生が、「多分違います」と答えた。
教授は「そう」と笑い、今度は教壇の下から砂の入ったバケツを取り出し、砂を岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺は、これでいっぱいになったと思いますか?」
学生たちは声を揃えて、「いいえ」と答えた。教授は満足そうにうなずいて水差しを取り出し、壺の縁まで水をなみなみと注いだ。そして教授は学生たちにこう言った。
「僕が何を言いたいのか分かりますか」
またしても教室に漂う沈黙。一人の学生が手を挙げた。
「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、いくらでも予定を詰め込む事が可能だということです」
「少し違います」
と教授は言った。
「重要なポイントはそこではないんだよ。今やったことが私たちに示してくれる真実は、 大きな岩を先に入れない限り、岩が入る余地はその後二度とないという事なんだ。では、君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう」
教授は話を続けた。
「それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり、自分の夢であったり……。ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものなんだ。それを最初に壺の中に入れなさい。そうしないと、君達はそれを自分の人生という壺の中に入れる機会を永遠に失うになる。もし、君達が小さな砂利や砂のような、自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、壺は重要でない“何か”に満たされてしまうだろう。そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なもののための時間を失い、その結果、その一番大切なものを失ってしまうことになるよ」



以上、ネットで見かけた良い話を少しだけ改変。

Adiemus



独特のヒーリング的雰囲気を持ったグループ。

The Journey: The Best of Adiemus

2012年2月5日

だいぶ凛々しくなった!

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2012年2月4日

モンちゃんのドラクエ

あるアンケートでは、一番泣いたゲームはファイナル・ファンタジー10らしい。

俺は、違う。


小学六年生で、我が家にツインファミコンがやって来た。ファミコンとディスクシステムが合体したゲーム機だ。すでにファミコンを持っていた親友のモンちゃんと話し合って、二人同時に「ドラクエ3」を買った。

モンちゃんは、ちょっと体の弱い子で、ついでに頭もちょっと弱い子だった。だけど、持ち前の明るさと、それから柔らかい優しさで、クラスでは好かれていた。そんな人気者のモンちゃんだったが、どういう気持ちからか、根暗気味の俺を親友と公言していた。お互いの家でよく一緒にゲームをする仲だった。俺も体力がなかったから、ウマが合っていたのかもしれない。

そんなモンちゃんは、ゲームの腕がぴか一で、スーパーマリオはノーミスクリアできるし、初代ファミスタでは最弱のナムコスターズを選んで、仲間内では向かうところ敵なしの戦績をおさめていた。

ドラクエ3を買った日。俺とモンちゃんはどちらからともなく、「二人で同時にクリアしよう」という約束をした。時々、お互いのドラクエの進行具合をチェックした。俺が女僧侶に付けたサオリという名前を見て、モンちゃんは、
「ふーん、ムラヤマのことが好きなんだね」
と言った。
図星だった。
頭弱いくせに鋭いな、と思った。

モンちゃんのパーティには、モンちゃんの名前の勇者と、それから、俺の名前の魔法使いがいた。うしろから見ていて気づいたが、俺の名前の魔法使いは、戦闘中に過保護なくらいに守られていた。モンちゃんは、ゲーム世界の中でも優しいモンちゃんだった。

そんなモンちゃんが長く欠席した後、入院することになった。今の俺は医者だから、病名を聞いたら忘れないと思うけれど、当時の俺には難しくて、病名がなんだったのか覚えていない。もとから病名なんて聞かされていなかったのかもしれない。

そして、モンちゃんはいなくなった。

葬式の記憶はほとんどない。泣かなかったことだけは覚えている。不思議なことに、ああいう時には泣けないものだ。モンちゃんのお父さんから呼び止められて、モンちゃんのドラクエ3をもらったことだけは鮮明に覚えている。お父さんの顔がクシャクシャで、大人も泣くんだな、と思ったことも覚えている。

家に帰っても、モンちゃんのドラクエをファミコンに挿入する気にはなれなかった。一年経って、俺は中学一年生になって、モンちゃんの命日で墓参りをした。そして、ふとモンちゃんのドラクエを思い出した。俺はすでにドラクエ3はクリアしてしまっていた。モンちゃんはどこまで進めたんだろう。

家に帰ってファミコンにモンちゃんのドラクエをセットして電源を入れた。冒険の書が三つあった。上の二つはモンちゃんの名前。最後の一つは俺の名前だった。

一つ目の冒険の書を開いてみた。クリア直前、レベルアップも完ぺきだった。当然、パーティには俺の名前の魔法使いがいた。

二つ目の冒険の書も、クリア目前。もちろん、魔法使いの俺がいた。モンちゃんのことを思い出して、ちょっと泣きそうになった。

三つ目の冒険の書を開けた。最大四人で冒険できるのに、なぜかパーティは三人。勇者は俺で、レベル99。それから、サオリという名前の僧侶。サオリも、レベル99。最後の一人は、モンちゃんの名前で、遊び人。モンちゃんも、レベル99。三つの冒険の書の中で最高レベルだった。俺は、涙が止まらなかった。

俺と一緒にクリアするために、モンちゃんは二回、クリア目前まで行ったのだ。学校を欠席しだして時間が沢山あったから、多分飽きるほどドラクエをやったんだろう。そして、モンちゃんは三つ目の冒険の書を作ったのだ。きっと、俺とサオリとモンちゃんの三人で、世界中をあちこち旅したんだ。
パーティにサオリがいるのは、俺に対するモンちゃんの優しさ。俺を勇者にしたのだって、モンちゃんらしい。ゲームの中で、遊び人モンちゃんは、レベルアップしても賢者になんかならず、俺とサオリの間で遊び跳ねていたんだ。

俺が一番泣いたゲームは、ドラクエ3。

俺は泣きながら、冒険の書を一から全部クリアすることに決めた。冒険の書の一番目をプレイしようとしたら、呪いの音楽が流れた。そんなことは初めてだったから驚いた。そして、冒険の書は全部消えてしまった。きっとモンちゃんが成仏したんだ。バッテリバックアップの脆弱性など知らない俺は、自分にそう言い聞かせた。

普通の企業は「ハズレ」じゃない人を欲しがる

「学歴なんて関係ない」と、ある一時期に言われていた。
確かに、学歴に関係なく、超のつく「アタリ」の人は一定の確率でどこにでもいる。優秀な人材は学歴に関係なく存在する、というのは事実だ。でもこれは、あくまでもごく一握りの優秀な人の場合の話である。

逆に、「ハズレ」人材の確率は、かなり学歴と関係している。同じ大卒なら、ハズレを引かないためには、偏差値の高いほうが企業としては安心。周りが楽しい高校生活を送っている中で、勉強机に向かったという姿勢を評価する。頭の良し悪しではなく、偏差値の高い大学に入るほど「努力できる」ことを買う。

「アタリ」人材なんて、本当に極々わずかの人たちだから、普通の企業はそういう人を就職面接で見つけようとはしない。まずは、てっとり早く明らかな「ハズレ」か、「ハズレくさい」をはじく。だから、面接でいかに自分が「アタリ」であるかを力説してもあまり意味がない。それよりは、自分は絶対に「ハズレ」ではなく、普通の人材であることをアピールしつつ、プラスアルファでこんなことも考えています・できますとおすほうが良い。

会社側としては「ハズレではない」ことを期待して採用したのに、なぜか自分を「アタリ人材」だと勘違いしている人が時どきいる。上司に飲み会に誘われても、あっさりと断る。
「時間外手当てが出ないのに、なんで仕事終わってまで」
それは、あくまでもアタリ人材のセリフであって、俺たち普通人材は、そういう場で社交を学ぶなり、職場の力関係に組み込まれるなりしないとダメ。
会社の新入社員がゆとりすぎて飲み会来ないんだが・・・
上記リンクを見れば分かるが、自分をアタリと勘違いした人たちのなんと多いことか!!

パッション ~イスカリオテのユダを中心に~

Passion

という単語には、『情熱』のほかに、『受難』という意味もある。どのような語源からそういうことになったのか、それは分からないけれど、イエスの生涯を見ると、二つの意味が同時に、すんなりと受け入れられる。今までもこれからも、彼ほどの情熱を持った人はいないであろうし、また彼ほど自らの苦難を抗うことなく受け入れた人もいないだろう。

この映画を観るのは二度目。初めて観たのは一年ほど前で、途中で寝てしまった。ここ最近になって、さまざまな本でイエスや弟子たちの生涯を知り、そうして改めて観てみると、あら不思議、面白さがグンと増した。

裏切り者として有名なイスカリオテのユダは、祭司長たちにイエスを売ったことを悔いて自殺した。一方、ペテロは命が惜しくてイエスなど知らないと言い張ったが、後にカトリックの初代教皇となる。その他の弟子たちも、イエスを守ることなく逃げ出した。しかし、現代になってなお、裏切り者と言われるのはユダだけである。彼の裏切り、彼の罪とは、はたしてイエスを売ったことなのだろうか?

おそらくそうではない。

イエスは、弟子たちの弱さを受け容れていたし、自らの弱さも知っていた。そして、弱いけれども逃げない、しかし戦いもしないということを、非常に大切にしていた。強い信念を持って、苦難を受け容れる、『Passion』、すなわち情熱と受難なのである。ユダは、自らの裏切りを後悔したのであれば、自分の愚かさや弱さから目を背けずに、生涯を賭してイエスの生き方や教えを広めるべきだったのだ。イエスにとって、自殺を選ぶことは最大の罪であり、生き続けることこそが裏切りへの贖罪であった。そのことを、イエスの弟子の中で最も賢かったと言われるユダが気づけなかったのだろうか。いや、気づいてもなお、自らを永遠に罰し続けるために自殺を選んだのかもしれない……。

と、少々ユダびいきな考察をしたのだが、ふと、これもまた違うのではないかと思い至った。

では、ユダの最大の罪はなんだったのだろうか。それは「イエスはユダを赦す」ということを信じきれなかったことかもしれない。
「赦されないことをしてしまった」
という後悔は、
「イエスはすべての罪を背負い、すべての者を赦す」
ということを否定している。ユダの自殺は、イエスを信じきれなかったことの結果に過ぎず、「イエスを信じる」ことを捨てたことこそが、ユダの最大の裏切りであり、罪だったのだ。

パウロという人物がいる。
熱心にキリスト教を広めた人で、新約聖書の著者の一人と言われている。キリスト教においても崇敬されている彼だが、当初はキリスト教徒らを強烈に迫害していた。彼は、あることをきっかけにイエスに心酔し、以後は自らの命をも恐れず布教に力を入れる。パウロが敬われるのは、自らの罪から逃げることなく向き合い、赦されると信じきって生きたからであろう。

ユダには以前から興味があるので、また改めていろいろと考えてみたい。

あくび太郎

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犬のあくびには、どこか癒されるものがある。
人間と同じように自然と吐息がもれるが、それがまた可愛らしいことこの上ない。

2012年2月3日

おふくろの味とはなにか

『いじめと不登校』という本を読んでいて、こんな話があった。

あるお母さんが、いつもインスタントのカレーばかりだったが、子どもの誕生日かなにかのときに、手作りのカレーライスを食べさせようと思って、心をこめて手作りのカレーライスを作ったところ、子どもが、
「何か今日のは味ないな。いつものは美味いのに」
と言った、というもの。

これを読んで思い出したことがある。

俺の母は、弁当に決して冷凍食品を入れない人だった。
ある日、妹が友だちの弁当にシューマイやタコ焼きが入っているのを見て、帰宅してから母に、
「わたしの家も、あんな豪華な弁当のほうが良い」
と言ったそうだ。もう高校生になって寮に入っていた俺に、母はその話を笑いながらしてくれた。
それを聞いて、なるほどと思った。というのも、寮に入って初めて冷凍のハンバーグというものを食べたのだが、口に入れた瞬間に自分が何を食べたのか分からないくらい混乱して、思わずペッと吐きだしてしまったのだ。そこには、「ハンバーグのようなもの」があった。家では何気なく食べていた母のハンバーグだが、実はけっこう美味かったのか、とその時に思い至ったのだった。

弁当を作るかどうか、冷凍食品を使うかどうか。
そんなことで親の愛情が決まるわけではない。
しかし、「おふくろの味」というようなものが何か一つでもあるかないか。
そういうことは、ふとした時に心を慰めてくれるような気がする。


かあちゃん

33歳の主人公の母は、ちょうど還暦。
36歳の俺の母も、ちょうど還暦。

人には、出会うべきときに出会う本がある。
本は、その人が手にとるのを待っているのだ。
そして、言葉たちが、その人の心に入っていく準備をしている。

たくさんの人に、本を読んで欲しい。
本を待ちぼうけさせないで欲しい。
言葉たちの準備を無駄にしないで欲しい。

この本は、妹夫婦にも贈ろうと思う。

精神鑑定実践マニュアル―臨床から法廷まで

精神鑑定実践マニュアル―臨床から法廷まで

精神鑑定のイロハが書かれた本。
今までに3例の簡易鑑定に携わって、今後あとどれくらい鑑定の仕事が来るか分からないが、いざ鑑定となってからでは勉強する暇もないので今のうちに読んだ。

法廷での尋問対応マニュアルなどもあって、なかなか面白かった。

鑑定に興味のない精神科医や非専門家が読んでもそれなりに面白いと思う。特に、ニュースで「精神鑑定」と聞いて反応する人たちには読んでみて欲しい。なんでもかんでも精神鑑定で無罪になっているわけじゃないことが分かるはずだ。

死海文書 聖書誕生の謎

死海文書 聖書誕生の謎
んー、いまいちだった。
もっとエキサイティングな何かを期待してしまった。
キリスト教に興味があって、なおかつ考古学が好きな人なら楽しめそう。

2012年2月2日

地名好き

旅行に限らず、近場でも地名を見るのが好きだ。

例えば車で旅行中の目印に、「三本松」という交差点があったとする。その交差点に、松なんて生えていない。きっとそこには、過去に松が三本生えていて、土地の人や旅人が、そこを目印にしていたんだろうな。そういう風に考えるとロマンがあって良い。

銀座、銅座、銭座という地名は、全国各地に多い。
これは、そこがかつて貨幣を扱う場所だった名残だろう。

浜町も全国に数ヶ所あると思う。今現在は海から離れていても、実は、埋め立てによって海から離れてしまったということがある。

『竜馬伝』の舞台の長崎には出島があるが、これは陸にある。だが、当時は海の中にあった。浜口町も、浜の入口付近だった町が埋め立てで海から遠ざかり、名前だけが残ったのだろう。

浜松町。きっと松林のある浜があったのだろう。地図で確認すると、確かに海に近い。

新宿。
あぁ、よく分からないけれど、新しい宿場街ができたんでしょうね。

代々木とか池袋とか、そのあたりの情報があると嬉しい。

そうそう。
福岡県中南部には、田主丸、という土地がある。
wikipediaによると、
そもそも、筑後国全権田主丸大庄屋、菊池丹後が田主丸町の開祖である。その丹後の往生観である「我極楽世界楽生」の「我楽しう生まる」から「たぬしまる」の名が付いたと伝えられている。そのため、現在でも「たのしまる」とよぶ人が多い。

また、福岡市内には、千代という地区がある。俺が最も好きな地名である。千代にわたって土地が安泰であって欲しいと、そんな願いがこもっているようで。

ふと、日本地図が欲しくなった。地図を眺めながら素敵な地名や交差点名を探し、実際に行ってみるという、そんな旅がしたくなったのだ。

年老いたら、やってみたい。

砂の彫刻師@ハワイ

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これが砂だというのだからすごい。

まるで本物の金魚!!

1700年前、中国は長江のほとりで一匹の赤いフナが見つかった。
そこから品種改良を重ねて、いまの金魚にたどりついたらしい。
そして、その金魚を驚きのアートにしている日本人がいる。

深堀隆介という人の描く(いや、創るか)金魚は、まるで本物。

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どうやって創っているかの動画がこちら。

ここ最近の読書

読書日記は休止していたが、読書はしっかり続けている。

面白くない本の感想を書くのもかったるいし、面白い本は前置きなしで読んで欲しい。そう考えると、読書日記など書かない方が良いじゃないか、と思う時期があったのだ。ちょっと思い直して、読もうかどうしようか迷っている人が、参考にする程度のちょろっとした記録でも書いておくことにした。


チヨ子 (光文社文庫)
宮部みゆきの短編ホラー集。
最後の『聖痕』は一読の価値ありだが、他はまぁそれなり。


たまゆらり (実業之日本社文庫)
高橋克彦の短編ホラー集。
どれも読みやすいが、イチオシというわけでもない。
各話とも、前半の流れに比べて後半のオチが急峻で、なんともいえない一冊。


いっぺんさん (文春文庫)
朱川湊人の短編集。
いっぺんしか願いを叶えないお地蔵様を探す少年たちを描く表題作「いっぺんさん」。
この人の作品は初めて読んで、この表題作があまりに面白かったので、ついつい他の本も買ってしまったのだが、表題作以外に強烈な印象はない。


雷の季節の終わりに (角川ホラー文庫)
今現在、俺の中でイチオシの作家、恒川光太郎。
多作の人ではなく、あと3冊を読めばコンプリートしてしまう。今後の新作が非常に楽しみ。この人の本はぜひとも読んで欲しい。特に、『千と千尋の神隠し』のような和製ファンタジーや、『十二国記』のような世界観が好きな人にお勧め。

2012年2月1日

統合失調症の告知について

統合失調症の告知に関して、有名な精神科医ブログで取り上げられており、その内容がちょっと看過できないものだったので、ここで論じることにする。

統合失調症の告知についての考察

上記エントリは、「告知するかしないか」という問題提起だったはずなのに、最後は「安易に告知する姿勢を非難する」という結論に達している。前半部で告知するほうがずっと楽だと書いて、最後の結論にもっともらしいことを述べれば、「告知する」医師は楽をしていて、さらには予後も悪くなる治療をしているような印象を与える。

これはズルい。

「安易な告知を非難する」という趣旨なら、

・真剣に考えたうえでの告知
・安易な告知
・真剣に考えたうえでの非告知
・安易な非告知

この四つが対比として挙がるべきなのに、「安易な告知」だけが引き合いに出されている。これでは、告知する医師はみな楽で安易なことをしているように受け取られてしまう。ミスリードも甚だしく、こんなものは「考察」とは言えない。

以下、引用しながら見ていく。

この記事では、
「統合失調症」では、特別な例を除き全く告知しないで治療を進める
と書いてあるが、これは「安易な非告知」ではないのだろうか。
俺は、告知するかしないかは、本人、家族の状況を見て決めるが、その判断が正解かどうかは誰にも分かりようがない。ただ、とにかく目の前の人を救いたい、そのためには何がベターかと一生懸命に考えるだけだ。考えない精神科医に存在価値はなく、あるスタンスで硬直するのは考えものだ。ブログの医師が硬直化しているとは言わないが、考えがやや偏っているのは確かだと思う。
本当は、告知する方が精神科医にとってずっと楽である。
青文字で強調してあるくらいだから、そう信じているのだろう。これはもう、本当にどうしようもないくらい偏った考え方で救いようがない。真剣勝負で告知すれば、それで楽になるということはありえない。上記記事と同じような例え話をするなら、
最初に統合失調症と告知して、治療があまりに順調で経過が良すぎるために、統合失調症について勉強した家族が他医に連れて行って「実は貴方のお子さんは統合失調症なんかじゃありません」なんて言われるくらいなら、最初から告知しないほうが100倍マシである。家族に誤診、悲観的観測と誤解されかねない。
こんなものはどうにでも例え話を作れるので、それを理由に告知するかしないかを論じるのはナンセンスなのだ。しかし、筆者はこう断言する。
最初に告知しないで統合失調症の治療に望むことは、自分に対して「退路を断つ」覚悟であることを示している。そうならざるを得ないのである。
分からない。
なぜそうなるのかが分からない。
先にも書いたように、例え話はいくらでもできるのだ。俺なんかからすると、告知しないほうがいくらでも退路が用意できそうに見える。
告知しない場合、統合失調症の治療に対するプレッシャーが全然違う。
告知したらプレッシャーが軽く、告知しなければ重い、そんなことがあるだろうか。少なくとも、俺は告知の有無で治療のプレッシャーの軽重が変わることはない。このような流れで、告知しないのは良心的な医師、告知するのは楽している医師と論じた後、
統合失調症に対する治療の姿勢だが、あらゆる状況を考慮せず「安易に告知する」精神科医の背景の方がむしろ問題だと思う。あのような甘っちょろいことを考えているから、良くなるものも良くならないのである。
最後にこの結論はないだろう。
非難しているのが「安易な告知」なのであれば、それは最初からそのように書くべきだ。しかもこの最後の引用から察するに、これは個人的に誰かに向けて言っているんじゃないだろうか。告知するか否かを中心に論じるように見せて、個人的不満を言いたかっただけなのでは?

この最後の煽り文句のせいか、コメント欄が賑わっていて、最後は毒々しい人が現れて終わった。少し気になったのが、パターナリズムに関して議論されている部分。必ずしも、
「告知しない = パターナリズム」
ではない。告知したうえで、
「大丈夫だ、信用しろ、俺に任せろ」
というメッセージを投げかけるパターナリズムもあるし、告知しないけれども、かわりに責任も負いかねるという姿勢だってある。


最後に、言い訳がましく言い訳を書いておく。今回は、あまりにも告知する医師を楽だと決めつけたような記事だったので、このように批判することになってしまったが、基本的には時どき見て参考にしているブログである。